第三話 片手間掃討
#1 工作員の夜は早い(協力者も左に同じ)
──屋敷中に、爆音が響いた。
ある土曜日の午後八時五九分。平井幽儺はそろそろ寝ようと思っていたのだが、おかげでしっかり目が覚めてしまった。
彼女は、幽霊である。平井零火の妹で、冬山で事故死した八歳の少女。死因故か寒さに弱く、寒気に耐性のある雪女の零火が姉であることは、もはや運命の皮肉としか言いようもない。
現在いるのは彼女に割り当てられた勉強部屋。有り余る部屋数の消化に、幽儺は勉強部屋と寝室を借りることで一役買っている。家主の暇つぶしが高じた結果だった。
爆発自体、魔法実験を繰り返す住人が家主ともう一人がいるために、別に珍しいことではなかった。もちろん、幽儺ではない。それにしても、今回は誰が、何をやったのだろうか。
様子を見に行こうとドアノブに手をかけようとした寸前で、そのドアがこんこんとノックされた。
「はい?」
「ボクだよ。そっちは大丈夫?」
聞こえてきたのは、性別不明の中性的な声。ドアを開けると、そこにいるのはふわふわ浮かぶふわふわ毛並みの狸さん。大精霊のライだ。
「やあ、大丈夫そうだね。入ってもいい?」
「あ、うん、どうぞ……すごい煙。ライ、何があったの?」
「大天使様が研究してた魔法陣が失敗しちゃったみたいでね。ユウと他の精霊たちが消化に行ってるから、ちょっと待っててね」
大方、眠る直前まで研究していて時間制限に逆らえなかったのだろう。ラザムは土曜日の午後九時に電源が切れるようにできている。
「ラザムちゃんは大丈夫?」
「そっちは大丈夫じゃないかな、天使の身体ってそんなに弱くないし。勉強の方はどんな感じ?」
「うーん、そうだ。ライ、これ答え合わせして?」
「どれどれ、今日は割り算の筆算だね。……あ、五問目が違うね。それと、六問目がちょっと惜しい」
結果は、二十問中正解が十六問。まあ悪くない数字だろう。点数に換算すれば、八十点というところだ。
解き直しをしながら三分ほど待つと、再びドアがノックされ、屋敷の主が顔を出した。
「待たせたな。消化して煙も払ったから、もう出ていいよ」
「うん、わかった。でもさっきので目が覚めちゃって……」
期待する目で見つめると、細川は早々に折れた。
「分かったよ、この前の続きを話してやる。まったく、どこでそんな知恵つけてくるんだか……」
おかしなところには連れて行ってないはずなんだがなあ、などとぼやいている。続き、というのは、幽儺の寝つきが悪いとき、細川が読み聞かせているグリム童話のことだ。ひと月前に思いつきでやってみたら、どうやら味を占めたらしいというのが細川の見解。こっそりとライが入れ知恵していることに、彼は気づきもしない。気づかなくてもさして問題ないことではあるのだが、とにかく細川裕とはそんな男だった。
「で、これはなんの計画?」
寝かしつけた幽儺の寝室を出て屋敷の玄関に向かう細川に、肩乗りスタイルの定位置を確保したライが尋ねた。
「大天使様と幽霊の子、二人が割り込んで来ないこの時を待って動き出したんだ、何かするんじゃないの?」
細川はそれに答えない。黙ったまま、金色に輝く短銃身の回転拳銃をローブのポケットにしまい込む。結局一年間切っていない前髪で右目を隠し、黒いマスクをつけて全身を闇に染める──暗躍者細川裕の正装だ。
「ねえ、ユウ。聞いてるの?」
「『白兎』さんからの伝令だ」
玄関を出、仮想空間を澱みない歩調で歩き始めた細川に、再度ライが声を掛ける。一度目の質問を無視されたことでもあり、細川のそれとは違った意味で感情の読み取れない大精霊の声は、しかし若干の苛立ちが混ざって聞こえた。
「今夜は大気が不安定になる。市内とその周辺は厚い積乱雲に覆われ、局地的に雷を伴った激しい雨が降る予報だ」
「うん、天気予報なら知ってるよ。それが?」
細川は、ダークブラウンの瞳を光らせ、低いが強い語調で言った。
「雷を落とすなら、今夜だ」
#2 帰る家なら
近年の日本の天気予報は、高い精度を誇る。
予報通りに大雨と雷が待機中で騒ぐ中、細川は傘もささず、ある高台から一件の寺を見下ろしていた。
何の変哲もない、ただの寺に見える。しかし、その実態は幽儺の天敵『滅霊僧侶団』の拠点であり、中にいるのはそのメンバーだった。
細川は、静かに右手を挙げる。
「【コード『μ』】──」
そして、挙げた手を前に振り下ろす。
「──【晴天落雷】」
強力な雷が、寺に直撃した。
視界を焼き尽くすような稲妻が落ち、雷鳴は鼓膜を突き破らんとする爆音を響かせる。本来人も殺せないような弱い雷は、しかし大気の不安定な日に使うと自然の力を誘導して、何十倍もの威力を発揮する。つまり、直撃を受けた木造の寺は爆発炎上。もう一撃を受ければ見る影もない。
「容赦なくやるね、ユウ。これで何人死ぬの?」
のんびりしているが残酷な問に対する、細川の答え──。
「ゼロ」
「ん?」
狸は、肩の上で首を傾げた。なかなかシュールな光景だが、彼らにとってはいつものことだ。
「今夜、この寺の滅霊僧侶団は出払っている。破壊しても、死人は出ないはずだ。ですよね──コードネーム『冷鳴』」
細川の背後で、闇が歪んだ。そうとしか言い表せない現象だ。そして、そこから現れるのも、また一言では形容し難い男だった。
作業着にも似た水色のスーツに赤いネクタイというあまり見ない服装もだが、真に人目を引くのはその上である。首には紫色の古傷らしき痣があるし、切れ長の鋭い双眸は木の葉のような緑色。髪はやや長めだが、それ以上に特徴的なのは、左右で色が違うことだろう。右は燃えるような赤い髪、左は燃え尽きたような黒い髪だ。なんとも言えない、奇妙な人物。少なくとも日本人らしからぬ容姿、これだけ目立つ外見をしていながら、彼もまた『白兎』と同じく、『幻影』のスパイである。
──その『冷鳴』が、細川の言葉を受けて口を開く。
「ああ、団員は今、あの建物にはいない。死人が出るとすれば、勝手に入り込んだ馬鹿だけだ」
「滅霊僧侶団の寺を破壊していって、帰る家を減らしていく。そういうことだよ、ライ」
殺しはしない、生きたまま苦しめる。それが甘いかどうかは置いたとしても、当分はこうして心理的ダメージを蓄積させる。
ぽかんとしているライに、細川は笑いかけた。
不気味な笑顔だった。
「しかしお前さん、一体どれだけの精霊と契約しているんだ? 平均より精霊との親和性が高いオレよりも、遥かに大量に引き連れてるようだが」
「肩に乗ってるこいつ含め、九六ですが」
「…………」
細川裕には、とある特技がある。総合魔法適性故、事実をそのまま告げるだけで、相手をぽかんとさせる特技である。無自覚なため無意識に発動してしまうのだが、少しでも魔法に触れたことのある人間ならば、たいていこれで黙らせることが可能だ。否、人間でなくとも、黙らされた精霊が彼の肩に乗っている。
大天使及び大精霊のお墨付きで、細川の総合魔法適性は歴史的に稀有なほど高い。
精霊術師の平均契約数は八。対して細川は、集落ひとつの精霊、九六と契約を交わしている。平均と比較して、実に十二倍。『白兎』と比べれば、契約数がそのまま倍率だ。精霊の常識と比較しても、実際正気の沙汰ではない。
精霊は長命種であり、大精霊は千年単位で生きることも多い。誰にも明かしていないことだが、ライもゆうに五百年生きてきた精霊だ。それでも、集落全ての精霊と契約した人間の話は聞いたことがなかった。通常は契約数が二十を超えた時点で吐血、死亡しておかしくない。それを彼は、命を削るだけで済ませてしまった。ほとほと、細川の適正高さには呆れる。
「ちなみに、『冷鳴』さんはどうなんです?」
ライの意識が、細川の声によって現実に引き戻された。
「オレか? 笑わば笑え、十三だ。不吉だろう?」
『冷鳴』はそう言って、ネクタイの裏からペンダントを覗かせた。
#3 襲撃者代理
火炎の弾が飛んだ。
被弾したのは、文字通り小さな人型の何かだ。正体は下級悪魔と聞いているが、炎に包まれ、ほどなくして消滅する。
学校の屋上からそれをやってのけた射手は、炎が消えたのを見届けると銃を下ろした。
金色に輝く魔石銃だ。イギリス軍制式採用の狙撃銃L96a1を模したそれは、しかし根本の部分で実銃と何から何までかけ離れている。
彼は仲間内で、密かに『魔石細工師』と呼ばれているらしい。動力源から熱魔石ライフルと命名されたという銃の製作者にして使用者、所有者の細川裕は、どこへともなく銃を仕舞うと、軽く息をついて呟いた。
「最後の一人、下級悪魔掃討完了」
そして、背後でそれを見ていた少女に振り返ると、
「前哨戦は終わった。そう伝えておいてくれ──コードネーム『影兎』」
成瀬七実は、そっと横髪に隠れたスイッチに指で触れた。
「そろそろだと思ったよ」
いつもの場所、いつものパターンで、成瀬は『白兎』と向き合った。『白兎』は先に個室へ入り、ティーカップを傾けながら成瀬はを待っていたらしい。彼女が紅茶を飲みながら報告を受けるのはいつものことだが、最近では回数を重ね、ようやく成瀬にもその余裕が生まれてきた。
「ずいぶん色々な道具を持っているんですね、あの男は」
成瀬は、細川の使っていたライフルを脳裏に描いた。
「拳銃は見たことありましたけど」
「キミも私も、一度銃口を突きつけられているからねーぇ」
「……その情報、あまり他人に漏らさない方が良いような」
「そうだね、あまり人に言わないように頼むよ」
二人は、微苦笑を交換することで話を区切ることにした。
「しかし、予想より早かった。もう少し下級悪魔の掃討には時間がかかると思っていたのだけど」
「『氷人形』のほうも、既に片付けたと『魔眼』から話は聞いています。魔法に触れたことのない私にはそれがどれほどの早さなのか、少々検討はつきかねますが」
「かなり早い」
「ですよねー」
彼女たちは、紅茶を飲みほし次第、自然に散開した。
……細川は『魔眼』というコードネームを与えられているが、これは彼が、スパイチーム『幻影』のメンバーであることを示すものではない。彼自身は協力者のひとりに過ぎないが、共和国では協力者にコードネームを与えることは、よくあるのだそうだ。スパイ本人が敵に捕縛、あるいは殺害されても、協力者の情報を渡さず、彼らを保護するためであるらしい。正しく『幻影』の構成員である『白兎』の言である。
細川は、今のところ『白兎』と『冷鳴』の二名しか接点がない。より正確に言えば、細川は『白兎』の協力者として雇われている。そして、機密性を維持するためと称し、彼女さえも連絡先を細川に教えていなかった。細川と『白兎』の間には、『影兎』の成瀬を伝言屋として置くことで成り立っているのである。
ちなみに、成瀬七実という少女、細川の友人立花勝哉の恋人だ。彼らといい川端姉妹といい平井姉妹といい、細川の周りには何故かあみだくじのような関係図が多い。網製ハンモックに寝転がっているような彼だった。
手荷物を仮想空間に放り込み、細川は手元に携帯電話と精霊術師のペンダントのみを残して、高校の敷地を出た。この日は、匿名希望という人物から呼び出しを受けていたのである。
以前、『白兎』と初めて会った場所でもある。暗い路地裏だ。待ち合わせには、ここを指定されていた。現れたのは──。
「おう、来たな、『魔法使い』の兄ちゃんよ」
どうやら不良だったらしい。見たところ、年齢は中学生くらいだろうか。細川は、一瞬で相手の目的を看破した。なんのことはない。『主人公体質』と仮称する、ただの直感だ。金髪黒シャツ短パンの、テンプレートスタイル。それが細川に、その正体を告げたも同義だ。そんな少年が、わらわらと三人ばかり。
「………」
「聞いてんのか?」
ついでに言葉の崩し方がぎこちない。細川は、ついため息をついた。呆れてものが言えないとはこのことだ。読書家である手前、彼の語彙はそれなりに蓄えられているのだが、一時的に枯渇する機会に事欠かない。
「無視してんじゃねえよ、おい」
「……話は聞こうか?」
額を押さえて呆れる素振りを寸前で堪え、細川は言った。即ち、遺言を聞くこと──とは口にしない。実際遺言になるかどうかは話次第だ。死にはしないだろうが。
「やっと分かったか。てめえを連れてこいって指示されてんだよ。大人しく着いてこいや」
「拒否したら、どうする?」
「殴り倒してでも連れていく」
「そうか。ではこちらも少々荒っぽい手を切らせてもらおう」
チンピラだか不良だか分からない少年たちが反応する暇を与えず、細川が指を鳴らす。すると、待機していた精霊たちが少年たちに向けてレーザーを射出。それぞれ肩を貫かれ、少年たちは金髪のウィッグを落として倒れ伏す。
「十秒以内に出てこい」
細川は、隠れて機を狙っていたであろう少女に言った。
「出てこなければ、一人ずつ意識を奪っていく」
「……正直、引くレベルっすよ、先輩」
積み重ねられたエアコンの室外機の影から、零火が姿を現した。手には氷のナイフを握っている。細川がチンピラ役に気を取られている隙に、降伏を誘うつもりだったのだろう。想定が甘かったと言わざるを得ない。
「なんなんすか、これ。私も確かに雪女ですけど、先輩の方がよっぽど化け物じみてますよ」
「褒められたと思っておこう」
細川は腕を振るい、氷塊を放って零火が手に握るナイフを破壊した。そうしておいて、軽く論評してみせる。
「他人を仲間に引き込んだ手は悪くなかった。だが、まだ工夫が足りないな」
横を抜ける際、呆然とする零火に細川が告げた。
「これでは、お遊びにもならない」
「なんなんだよあれ!? 全く相手にならなかったじゃねえか!」
「平井がなにかする前にバレてんじゃねーか、化け物だな、ありゃ!」
「なんなの? 魔法が使えるとは聞いてたけど、透視能力でも持ってんの?」
「お遊びにもならなかった」事実を受止め、チンピラ役を引き受けた少年たちが各々心情を吐き出した。正体は細川の勘に違わず、ただの中学生。いまひとつ注釈を加えるのであれば、雪女に対し忌避感を持たない、零火の善良な同級生であった。
当の雪女はといえば、
「なんで作戦が通らないのよーっ!」
頭を抱え、秘密基地のような場所で唸っていた。要するに、襲撃後珍しくもない光景だ。平常運転である。奇策を用意したにも関わらず、あしらわれたことに憤っているらしい。
「というかあれだよ。レーザーやら氷やら、遠距離攻撃出来るやつに素手で突っ込むのが間違ってんだ」
「いやでも、平井が氷で弾幕ぶっぱしても倒せねえんだろ? 詰んでね?」
「今度はどうする? どうやって挑めばいい?」
零火だけでなく、少年たちも細川に軽くあしらわれて一抹の悔いを残すことになったようだ。潔く諦める、という選択肢はない。より手の込んだ襲撃をかけ、なんとしてでも降伏を引きずり出してやりたい!
「あの化け物をどうやって追い詰めるかだよなあ」
「一度使った手は使えないよなあ。警戒されるから」
「なんか弱み握れないかな。力任せに突っ込むより現実的な気がすんだけど」
「いやでも、人だったらどうするんだよ」
「事情話して内通者にするとか?」
「あ、それいいかも」
「一回素直にヒント貰いに行かねえか?」
「いや、それは何回か襲撃してだめだったらにしようぜ。っていうか、ヒントくらい平井が貰ってそうな気もすんだけど……」
三人の視線が、零火に集中した。彼女は部屋の隅で縮こまっていたが──
「…………浮かんでた風船が割れるようにってアドバイスなら貰ったわよ」
「「「……はあ?」」」
真っ当な反応だろう。少しも頼りにならない助言に彼らは閉口したが──、
「あ、でもそれなら」
ふと、一人がぱっと表情を明るくした。自然、残る三人の意識が彼に集中する。
「なあ、俺一個思いついたんだけどさ……」
その内容は、事実で記すことにする。
その作戦は、役に立たないアドバイスから『クラッシュバルーン作戦』と名付けられた。それを実行すべく、発案者の沢田は行動を始める。彼が、今回の要だった。
襲撃には、一日一回という制限があるらしいから、この計画は立案二日後に決行される運びとなった。木曜日だ。ちなみに前日には、零火が別の人物と共闘して連敗記録を更新したそうである。決して弱い協力者ではないそうだが、化け物じみた魔法使いには適わなかったらしい。
沢田は、細川の自宅付近をうろうろしていた。彼の帰宅を待つためだ。いきなり奇襲をかけるのではなく、まずは友好的に接触し、警戒を緩めたところで襲撃するのだ。物事には段取りというものがあるのである。
──しかし、一向に現れなかった。
細川宅の前に、魔法店と看板の架かった電話ボックス大の箱がある。入ってみると、一瞬意識が捻れる感覚があって、一瞬の後には景気が変わっていた。どこか室内に送られたらしい。魔法とは便利なものだ。そして何故か、そこに細川はいた。
応接室のように配置されたソファに腰掛け、読書に勤しんでいたらしい。いつの間にか帰っていたのか、しばらく前からそこにいたことが何となく察せられた。彼の隣には、狸が丸くなって寝ている。……この程度で驚いたら負けだ。相手はあの化け物である。
奥では未就学児にも見える少女(可愛い)と、どことなく零火に似た少女(寒くもないのに厚着?)が向かい合い、ボードゲームに興じていた。
平和な光景だ。あるいは自分は、平和な花園を乱そうとする盗賊なのかもしれないと思い、沢田は慌てて頭を振った。細川は、そんな沢田の存在に、直ぐに気付いたようだ。意識は本に落とされていたと思ったが、やはりこの程度で驚いたら負けだろう。何と勝負しているのか、という問いは、このとき沢田にはない。
細川は、右手に持っていたマグカップを静かにテーブルに置いた。よく見ると、中身は紅茶であるようだ。紅茶はティーカップで飲むものと思ったが、そうでもないらしい。沢田はコーヒー派だ。
「今日は休業日のつもりだったんだがな……ライ、いつまで寝ているんだ」
「んんー……ユウに言われたくはないよ」
「えっ」
のそり、と身動ぎしたのは、狸だ。声が聞こえてきたのと合わせて考えると、タイミング的には狸が喋ったのだろう。流石にこれは、驚いてもいいはずだ。
「気にしないでくれ、こいつはいつも寝ぼけているんだ」
絶対そうではないだろう。気にするなと言うならば、寝ぼけていることではなく狸が喋った点について言及すべきだ。言われて理解できるものでもないと思うが……。
「あ、あの……」
「要件なら座って話すといい」
「いえ、そんなことは……。あの、一昨日は急に絡んですいませんでした」
「…………」
やはり怒っているだろうか。細川は、一言も喋らない。この作戦もだめなのだろうか。
「許されないのは分かります……分かるつもりです。でも──」
「──いや」
ようやく聞こえた声は冷ややかだ。
「意味がわからない」
愕然とした。よもや記憶に残らないほど、下手な襲撃だったとは思いたくない。
だが、そうでなかったらしいというのは続く一言が証明した。
「君と一昨日の襲撃に、なんの関係がある?」
「俺……自分は、一昨日の襲撃に参加した一人です」
「……なるほど、ようやく理解した」
考えてみれば、一度会っただの人間の顔を記憶しておくのも無理な話か。しかもそのとき、沢田たちはウイッグを被っていたのだ。印象的なレベルで、別人に見えても仕方ないのかもしれない。
「安心するといい。あの襲撃は、契約に保証された行為だ。君を協力者の一人として巻き込んだのは、むしろ零火にとって成長だ。あいつには、もう少し味方の利用を覚えさせたい。味方を三人増やしたところで、それを受け付けないほど、俺は狭量ではない」
「は、はあ……」
器の広い人物ではあるのだと思う。
「で、今日はお仲間と一緒ではないのか? あと二人はいたと思うが」
「いや、あいつらは微塵も罪悪感を感じていないようで……」
「そうか」
正確には、沢田も感じていない。今のところ、順調に騙せているようだ。
「ところで君、俺の方に寝返る気はないか?」
思考が、停止した。
「──────は?」
「なにか不思議なことを言ったか?」
「いや、え、その……は?」
「もう一度言おうか。君、俺の方に寝返る気はないか? 現状、手はいくらでも欲しいところだ。無論、君にも利点はある。なにかトラブルが生じた際、君に非がなければ、俺は君に味方しよう。些細なことでも相談に乗るし、解決のために力を貸そう。魔法の万能さを利用して、君の日常をより良くすることができる。俺と手を組めば、大抵のことには物怖じせずに済むだろう。──どうかな」
すぐには、答えが出なかった。
平井零火ではなく、細川裕の陣営につく。
その考えは、一度も脳裏をかすめなかった。即ち、裏切り行為だ。考えろ。どちらに勝算があり、どちらに利益がある──?
「すぐに決められないのなら──」
細川が立ち上がり、裏口へ歩いていく。やや躊躇った末、沢田もそれに続いた。
外は、呆れるほど広い空間だった。何もない。数歩歩いて振り返ると、魔法店と思われる箱の後ろには、巨大な屋敷があった。再度前方に視線を戻すと、二百メートルほど先に巨大な氷の塊が出現していた。大きさは……ちょっとよく分からない。
細川の手に、いつの間にか拳銃が握られている。服を見直しても、銃があったと思われるポケットは見当たらない。
銃の照準が定められる。静かに引き金が引かれ、音速で放たれたものは、銃弾ではなかったように思う。でなくては、着弾した氷が爆ぜた理由の説明がつかない。
呆然とする沢田の肩を叩き、
「いい返事を期待しているよ」
去り際一言残して立ち去っていく。
しばらくしてから、沢田は意識を現実に取り戻し、細川を追った。ポケットから取り出したカッターナイフを振りかざし、
「お遊びにもならないな」
それが弾き飛ばされた。原理は、全く分からない。
「……油断できない人だ。やはりもっと早く倒さなくちゃいけなかった」
「覚悟の据わったことだ」
「どうせ俺一人じゃ倒せないんでしょう? 平井ですら、あなたが相手ではあれだ。なるほど、勝てるわけがない」
吐くように言葉が出る。全く、この化け物は想像以上の怪物だ。
「ただの人間じゃ、俺を倒すことはできないさ。ましてや君みたいに血の気が多いと、俺の敵にさえなれないよ」
宣告とは、かくも冷酷なものである。




