6 感情に溺れる
膝に手を当て喘ぐ私を乗せ、電車は警告音をひとつ鳴らして発車した。
顔を上げてみた窓の向こう……正門の辺りに、達弘の姿はない。
ひとまずは振り切れたと考えていいだろうか。
呼吸を整え車内をぐるり見回す。
髪をアップにし、涼しげなシアーシャツを身に纏った女性がチラリと私を見ては目を逸らした。
ポロシャツを着たおじいさんも襟を立てたりなどしていないし、ママと手を繋いで立つ女の子は私と同じくキャミソール姿だ。
つば広の帽子やアームカバーを駆使して日除けする人もいるが、いかにも美に関心が高い人といった感じで、やや垢抜けない理学部の学生たちとはタイプが違う。
今は夏だ。
この田舎で流行りの最先端を行く高校生の唯人も、いつだって涼しげだったじゃないか。
校則や会社の規範に縛られることなく自由な格好を楽しめる大学生が、屋外でもないのに揃って首を隠しているなんて不自然だ。
立て襟やハイネック、達弘みたいな襟足の長い髪型であふれていた学内が、いかに異質な空間であったか改めて実感する。
ふと乗客の中に見知った顔を見つけた。
襟ぐりの伸びきった土気色のシャツを着て膝の破れたカーゴパンツを履いた、無精髭をたくわえた浅黒い顔の男が、ロングシートの中央あたりに座っている。
目があった瞬間、相手はゲッと頬と歪めた。
「もしかして、タッタ?」
高校まで一緒だった、幼馴染の海堂竜太だ。
正面に立つと、タッタは目を細め済ました顔を作って、そっぽを向いた。
「やっぱタッタじゃん。何でいるの」
タッタはギロリと私を睨みつけ、ボソボソ文句を言う。
「夜勤明けだよ。人前で、その呼び方はヤメロ」
タッタという呼び名は、共に通っていた空手道場のおばあちゃん先生がつけたあだ名だ。
語呂が良いせいか、後から入ってきた年の離れた弟たちにも受け継がれている。
私がところ構わず呼びつづけたせいだとタッタは責めたが、広まったのはそれだけしっくりきてたからだろう。
小中学校はもちろん高校ではじめて一緒になった美夏や先生たちまで、みんなそう呼んでいた。
卒業後どこで働いているのか知らないけど、今周囲で彼をそう呼ぶ人はいないのかと思うと、少し寂しい。
タッタは山猫みたいな大きな目で私の姿を上から下までスキャンし、ため息をついた。
「ったく、小汚ねえ格好して駆け込み乗車かよ。こどもと変わんねーな」
大学生にもなってと呆れたように口を歪める。
小汚い? キャミソールにショートパンツの何がおかしい。まったく夏らしいじゃないか。
「何言ってんの。タッタこそ、ちゃんと鏡見てる?」
「俺の格好のどこが悪ぃんだよ」
開き直っているが、それらはあまりにもヨレヨレで、間違いなく服としての寿命を超えている。
私もたいがい服に関心が薄いが、タッタは輪をかけて無頓着だ。
さすがの私もそこまでの状態のものを着て外に出る気にはならない。
タッタは自分の胸元を見下ろし呟く。
「……まぁ、どっちもどっちか」
「どこが。雲泥の差だよ?」
「ところで、お前なんでいんの。こんな時間に珍しいな」
本当ならいまごろ講義室で授業を聞いていたはずなのに。
講義の後は学食でランチを囲んでいたかもしれないのに。そう思うと急に胸が熱くなった。
タッタ相手にダメだよ。何も知らないのに、びっくりする。
意思によらず、感情が勝手に溢れる。張り詰めていたものが、ほっと緩んでしまう。
「げ。なんで泣くん。ちょい、わけわからんすぎる」
「あれっ? おかしいな」
テンパるタッタの挙動に促され、頬に触れると涙でぐっしょり濡れていた。
手の甲で拭いながら、困惑する。
「マジか……勘弁しろよ」
ぼやきながらもポケットをひっくり返す。
出てきたしわくちゃのハンカチを戻し、鞄からティッシュを出した。
口は悪いけど優しいやつだ。
「ありがと」
目を閉じるとつい先ほど講義室で起きた、信じ難い出来事が浮かんだ。
首に手を当てこちらを見つめる、美夏のいつになく真剣な眼差しが。
ーー痛くないように、シテあげるねーー
美夏……どうして。
「……タッタ。去年、金魚掬いのところで会ったよね。よさこい、じゃなくて鏡川の花火大会ん時だっけ。タッタは、美夏と美夏の彼氏と一緒でさ。あの時の美夏、大人っぽい紫色の桔梗柄の浴衣着て……」
「待て、いきなり何の話だよ。相変わらず唐突だな」
ぽいをもってしゃがみこんだ美夏の、白いうなじが色っぽかった。
少なくとも、大学一年の夏の時点では美夏の首にジッパーなんてものはなかった。
頭の中のカレンダーをめくって美夏の姿を探す。
「浮かんだまま並べねーで、何が聞きたいのか教えてくれ」
タッタの言葉をよそに、ひきつづき私は頭の中を旅した。
進学のため上京した文系コースの彼と遠距離恋愛継続中の間、美夏の首にはいつもペアネックレスがかかっていた。
その頃も日焼けに気を使って上着を持ち歩いてはいたけど、美夏は基本南国の娘らしいファッションを好んでいたはず。
変わったのはいつだ?
「タッタ、ごめん」
困惑するタッタの顔を両手で挟み、有無を言わさず俯かせた。
首の後ろにジッパーは、ない。
ああ、タッタは大丈夫。安心していいんだ。
タッタの頭に頬を寄せ、うなじに触れて確かめる。
「なにすんだよ、変態。さっきからやることなすことどーかしてんぞ」
感慨に耽っていると、むりやり両手を引き剥がされた。
私の手首を掴むタッタの顔は、耳の先まで真っ赤だ。
「タッタ。今、時間ある? 私、話したいことがいっぱいあって」
「あとは帰って寝るだけだ。付き合ってやってもいいぞ」