5 無我夢中で走る
竦んで動かない足を無理やり引き抜くようにして、講義室を飛び出した。
戸口のすぐそばだったのが幸いした。
階段を駆け下り、赤レンガ広場を駆け抜け、大学図書館前の広い通路に出る。
誰も追ってくる気配はない。
それでも怖くて、とても学内にとどまる気にはなれなかった。
まだまばらであったとはいえ、講義室内の学生が美夏の言葉に一斉に首に手を当てたのだ。
引き下ろされるジッパーの乱れのない音を私は確かに聞いた。
克己の首に揺れるジッパーを見た。
誰がなんと言おうと、間違いなんかじゃない。
美夏、克己、どうして。
「あっ」
夢中で走っていたはずなのに、気づくと眼前に真っ黒なアスファルトが迫っていた。
「すみません、大丈夫ですか?」
声の先を見上げると、黒のハイネックを着た青年が倒れた自転車もそのままにして手を差し伸べてきた。
両方の手のひらににジンと滲むような痛みを覚える。転んだんだ。
しばし惚けて、彼の後ろでカラカラ音を立てて回転している車輪を見つめる。
考え事に夢中で交差点に飛び出し、東門の方から直進してきた自転車とぶつかってしまったのか。
「私こそ、急に飛び出したりして……」
青年の服装に目が釘付けになる。
どうして、こんな真夏にハイネック?
思い返せば克己は、マッチョな体型に似合わず気取ったふうにシャツの襟を立てていた。
美夏も日焼けを嫌がって首にスカーフを巻いている。
達弘も襟のあるシャツを好んできていたし、襟足を長く伸ばしていた。
これまではサークルでフィールドに出るから肌を出さないんだと思って、疑問を持たなかった。
でも、学内でまでそうする必要はない。
もし、首の後ろのジッパーを隠すためだとしたら。
「ひっ」
「気をつけて」
顔を青くして足をばたつかせる私を気遣ってか、青年が腕を取って支えようとする。
「触らないでっ」
彼を突き放した勢いで腕に引っ掛けていたトートバッグが落ち、がしゃんと音を立てる。
首に手を当てた講義室の学生たちはどうだ?
襟のついたシャツを着ていた子が多くなかったか。
夢中で周囲を見回した。
首を確認できない人が相当数いるのに驚く。
ここはしょっちゅうスコールのような雨が降る、高温多湿な南国、高知なのに。
図書館の本を鞄に入れてるメガネの女性も、掲示板を確認しているキャップを被った男性も首が確認できない。
それから朗らかな笑顔をたたえ、広場からこちらに向かってくるあの男性も……。
「おーい、有希ぃ」
私の名を呼び、手を振って近づいてくる。
聞き馴染みのある間延びした声。達弘だ。
私はバッグを引っ掴むと、転がるようにして達弘が来るのとは逆方向、正門の方に向かって走り出した。
「あの……」
後ろから自転車の青年が呼び止めるが、かまうものか。
一刻も早く家に帰らなければ。
ジッパーのことなど何も知らない、父や母、弟たちのいる場所へ。
私のホームへ。
ちょうど正門のむこうに、文殊通り行きの路面電車が入ってくるのが見える。
大学前乗り場は門を出てすぐだ。
ワシントン椰子の並ぶメインストリートを駆け抜け、正門を飛び出した。
「乗ります! 乗ります!」
横断歩道を渡る小学生のように耳の横で手を伸ばし、大学前の乗り場に停まった電車に向かって合図する。
お願い、間に合って。
跳ね上がる私を見て、路面電車の横をすり抜けようと減速していた白いシビックが停車した。
運転手が道を渡るよう手で合図を送る。
私は夢中で電車に飛びついた。
閉まりかけていた後扉に追突する。
「危ないですから、車体から離れてください……扉開けます」
運転士は少し怒ったような声でアナウンスし、後扉を私のために開けてくれた。