23 タッタの作戦
Googleカレンダーを開いてみると、少し先だがレポートの提出があるのに気がついた。
いつ大学に行けるようになるかわからないが、できるだけ遅れはとりたくないものだ。
課題となっていた本はすでに手元に届いている。
要点をノートにとりながら本を読んでいると、タッタがリビングに降りてきた。
「あれ? まだだいぶ早くない?」
「ああ。俺、ちょっと先に行くわ。店は笹川で予約取っておいたから、お前は後から奴と合流してから入ってくれ」
「うん……」
頷きかけて、ふと疑問が浮かぶ。
「あれ? でもタッタが先に入ってるんなら予約の必要なくない?」
タッタは正面の椅子を引いて腰掛けると、顎の無精髭に手を当てて説明し始めた。
「それなんだが、作戦がある。まず店で俺を見ても知らん顔して案内された席に着いてくれ」
「う、うん」
「設定はこう。笹川はジッパーの件を彼氏に相談したが信じてもらえず、浮気を疑われた。そもそも彼にとっては男女四人で花火してたことも面白くなかったのに、その男と会う約束をしたなどと言ったからだ。浮気じゃないことを証明するからランチに同席するよう頼んだが、今朝になってやっぱりいかないとラインが来た。そこから既読無視されている。場所は伝えてあるから来るかもしれないが、ちょっとわからないと」
話についていけなくて思わず口をぽっかり開いて、タッタと自分の顔を交互に指差す。
「……カレ、カノ……?」
「設定上な。特に俺と演技する機会はないから深く考えなくていい。というわけで連れは来ていないが、自衛と潔白の証明のためにスマホのボイスレコーダーを使わせてもらうと宣言するんだ」
つまり、私は三原達弘と合流して店に入り二人で話す、ということか。
「ってことは……タッタは来てくれないの?」
「ばーか。先に行ってるって言ったろ。仕切りの隣で勉強してっから安心しろ。隣ならよほどうるさい客でもいない限りリアルタイムでも声が拾える」
「ああ、そっか。そゆことか」
近くにいてくれるのだと分かって心から安堵する。
「俺の顔は割れないほうがこれからも動きやすい。それにお前に男がいるとなったら、奴はひとりで家を訪ねて来たり、どこかへ誘い出したりしにくくなるだろ?」
「……なるほど」
私に彼氏がいるとなると、達弘にも二人きりになるのは遠慮しなければという意識が働くはず。
存在を仄めかして圧をかけつつ、顔を知られるリスクを回避する。
さすがタッタは頭が回る。
「普通は彼氏に誤解され、恨まれる事態は避けたいからな。お前に気があるなら話は別だが」
「えっ」
頭にパッと達弘の白い顔が浮かんだ。
——一緒にいてくれないかな。これからも一番近くに——
はっきり好きだと言われたわけじゃない。何かの勘違いに決まってる。
でも、もし……。
「……もし、その、普通じゃなかったら?」
「あ?」
「いや、例えばだよ。例えば。なんかほら、怖いじゃん。想定外な反応があったら」
タッタは胸の前で腕を組み、ちょっとだけ考えるそぶりを見せたあと、きっぱりと言った。
「もしもお前に気があるなら、ここぞとばかりに迫ってくるかもな」
「せ、せまっ……!?」
のっぴきならない答えに怯んでしまう。
花火をした帰り、コンビニ前で告白を聞いた時のいたたまれない感覚が全身に蘇る。
「彼氏と仲違いしたにも関わらず自分との約束を優先したことを、自分に気があるなどと都合よく解釈するタイプもいる」
残念ながら、達弘がグイグイ来る感じは容易に想像できた。
上池もきっとそのタイプだ。フラれても信じないとか強すぎる。
二人とも気弱そうな顔しているくせに、人は見かけによらない。
どうしよう。そんな展開になったら……。
「タッタがもし達弘の立場でも、そうするの?」
「いや……たとえ気持ちがあっても、そういうやり方で手に入れた相手には不信感が残ると俺は思うが。まぁ人によってはチャンスと捉える向きもあるんじゃないか? 単に欲望を満たすためだけなら」
「欲望を満たすって……」
目の前の幼馴染の恋愛を想像しそうになって、一瞬で打ち消した。
なんか、無理だ。そういうの。
考えたくない。
「はー。やっぱ、いいや。なんか生々しい」
「なんだそれ。自分でふっといて、ガキかよ」
タッタが大人になる。
美夏や、上池や、克己や、達弘みたいに、誰かに恋をして、欲望する。
いや、きっともうしてるんだ。何度も。
私が知らないだけで。
私の身体は女としては不十分だ。
未だ一度も生理を経験したこともなく、ちょっと背が伸びただけの薄べったい身体のまま大人になってしまった。
私は、誰とも恋愛なんてとてもできない。
しようとも思えない。したくない。
それなのに、ひとり置いていかれるのが怖い。
「だね。私、ガキなのかも」
「見た目どおりだな」
私の持っている引け目など知る由もないタッタの素直な言動に、胸がちくりと傷む。
ちゃんと冗談にして返さなきゃ、と拳を作り振り上げる。
「タッタ、ムカつく」
「ムカつく! じゃねーよ。あぶなっかしい。お前、免疫ないにも程があるわ。雰囲気に飲まれんなよ」
声真似のつもりかわざとに高い声で復唱し、タッタは私の左頬を軽く摘んだ。
驚いた。
タッタから私に触れるなんて。
びっくりしすぎて顔を凝視していると、タッタはすーっと手を離して視線をあちこちさせる。
「なんだよ。ガキをガキ扱いしただけだろ」
「あは。あはは。なにそれ、ひどい」
もしかして、さっき部屋で散々タッタを責めたから?
気にしてたのかと思うと、妙に頬が緩んでしまう。
タッタの言うとおり、私は心までガキなのかもしれない。
触れたいし、触れて欲しかったなんて、まるで幼い子どもそのものだ。
タッタはムッと眉を寄せた難しい顔をして、テーブルに肘をついて大きな手のひらで口元を覆った。
指の隙間からチラリと白い八重歯が覗く。
「心配してやってんのに、脳天気に笑いやがって」
険しい目つきや言葉と裏腹に、声が笑っていることにホッとする。
「ごめんごめん。でも真面目な話、実際そっち方面本気で苦手だから、そんな展開になったら手に負える気がしない。正直一人だと超不安」
緩んだ頬を引き締め、素直に相談する。
達弘と二人きりになったあの日も、その場から逃げ出すことしかできなかった。
もしもそんな展開になったら、うまく対処できる自信はない。
「何かおかしな様子があったらすぐ動く。心配するな」
真正面から無駄に鋭い眼光を向けられてドキッとした。
知ってる。
睨んでるわけじゃなくて、元々目力が強いんだ。
この目のせいか、子供の頃から黙ってても生意気だと絡まれたり、後輩を変にビビらせたり、泣かせたり、損ばかりしてたけど、全然違う。
安心させようとしているのだと私にはわかる。
私の幼馴染はほんとうにいい奴だよ、となぜか誇らしくなる。
「ほんと、タッタは面倒見がいいって言うか、すごいね。こんないい奴なのに、なんでモテないんだろーなー。……あ、でも、卒業したあと誰かと付き合ってたんだっけ」
「は? なんの話だ」
「上池が言ってたじゃん。自分が美夏に未練たらたらなのと、タッタも似たようなもんだったって。あれってそういうことでしょ?」
しまった。フラれて終わった過去の恋の話なんて地雷だったかも。
気づくとタッタはがっくりと肩を落とし、はあっと大きなため息をついていた。
「……おまえさ、マジで……。俺、もう行くわ。勉強あるし。ゆっくり行けばちょうど開店の時間になる」
椅子を引き、洗面所借りる、と勝手知ったる様子でリビングを出る。
怒ってるな。っていうか呆れてるのか。
それになんか、はぐらかされた。
上池には気軽に相談してたみたいなのに、私にはなにも教えてくれない。
私はタッタの中の上池の場所には行けない。
付き合いは私の方が長いのに。
上池に嫉妬している自分がいるのを自覚する。
「あ。顔洗う? 新しいタオルが洗面台の下にあるよ。適当に出して使って」
タッタの背中を追いかけるように明るい声で声をかける。
返事はないが、引き戸を開ける音がして伝わったことはわかった。
やだなぁ。
上池なんかに嫉妬して。
別にタッタが誰を信用しようが、そんなの彼の自由じゃないか。
だいたい自分だって、達弘に告白されたかもしれないことを話し出せないでいるくせに。
ついていた寝癖を整えて出てきたタッタは、そのまま黙って玄関へと向かった。
慌てて追うと、靴を履き終えた彼が改まった顔で振り返る。
「悪いが、唯人か真人に寝床のこと頼むわ。仮に俺に彼女がいたとして、他の女のベッドにいたと知ったら面白くないだろ。さすがのお前だってもうわかるよな? そういうことはしたくない」
「あ、うん。そっか……そうだね。話しとく」
私だってタッタのことを大事にできたらと思っている。
なのに私の思いやりは全くの空回りで、見当違い。
考えなしなせいで、嫌な思いばかりさせてしまう。
こんなだから私は、彼の大事な場所に入れてもらえないんだろうか。
「あーもう。わかりゃいいんだ。わかりゃよ。変な顔すんな」
タッタは私に向かって伸ばしかけたように見えた手を引っ込めて、頭を掻いた。
せっかく整えたのだろうに、寝癖のついていた髪がまたちょっとだけ跳ね上がってしまう。
「例の三原達弘とは店の近くで落ち合えよ。できるだけ二人になるな」
「わかった。そろそろ連絡取ってみる。一時間半前か。私も支度始めようかな」
「んじゃ、後でな」
玄関扉が閉まると、家の中がシンとなった。
支度と言ったって美夏みたいにきれいに化粧するわけでもないし、着替えだって朝タッタと話すために如月まで出た時にすませてある。
スマホを手にし、ボイスレコーダーを使うなら家を出るまで充電しておいた方がいいかと考え、トボトボ階段を上がった。
部屋のベッドは、湿気を飛ばすように掛け布団があげてあって、その上に貸したタオルがきちんと畳んで置かれていた。
「あ〜もう、めんどくさいよ」
勢いよくベッドに寝っ転がる。
仰向けになって腕で目の上を覆い、胸いっぱいに息を吸うと布地からほのかにタッタの匂いがした。
私はタッタのこの礼儀正しさがイヤだ。
一切の甘えがなく、くっきり線を引かれているのが寂しい。
後始末してくれて当然といった態度で、ベッドをぐちゃぐちゃにしたまま出て行かれるよりいいに決まってるし、妙な甘えがあるよりきちんとしていたほうがいい関係でいられる。
寂しがるほうがおかしいと自分でもわかってるのに。
ムカムカした気持ちを紛らわせるように、スマホを線に繋いでラインを立ち上げた。
達弘の使っている可愛いウサギの写真のアイコンをタップして、一気に文字を打ち込む。
——もうすぐ時間だね。分かりにくいと思うから、店の前で立ってるよ。近くまで来たらラインして——
これなら二人になる時間も短くてすむし、すれ違うこともないだろう。
もしもタッタが窓際に座っていたなら私の姿を見つけ、やってくる達弘の顔を密かに確認できるかもしれない。