22 おやすみ
タッタは家でシャワーを浴びてきたらしく、髪を濡らしたままやってきた。
ちょうど両親も仕事に出たところで、家には誰もいない。
「朝ご飯は?」
「食べてきた。親が準備して待ってるから」
タッタは自分で玄関の鍵を閉めると、来客用スリッパに足を通した。
そういえば、私から奪って行ったチキン南蛮弁当はどうしたんだろう?
普段、彼が朝食でどの程度食べてるのか知らないけど、合わせると相当な量になるはずだ。
そもそも、あの弁当は朝から食べるには重すぎる。
食洗機の音だけが響く誰もいない台所を見回し、階段に足をかける。
「お母さん、ずいぶん待ったんじゃない? 悪かったね。朝から付き合わせて」
「いや。むしろ英断だ。遠慮されんのが一番困る」
私もタッタに遠慮されると困る。
人生の大事な時期だというのに、無理してほしくはない。
させてしまっているのは自分なのだが。
「あんたこそ、自分のことちゃんと優先しなよ。親になんて言って出てきたの。受験生なのにって怒られなかった?」
「なーんも。親は食ったら仕事だし。俺が風呂入ってる間にいなくなる。それに、危なっかしいお前と違って俺は親に信頼されてっからな」
「父親を追って貝島まで暴走しといて、よく言う」
「……勉強とか仕事とか、やるこたぁちゃんとやってんだろ?」
どうだろうか。
むしろ身近な人間のためにペースを崩されてばかりに見えるが、黙っておく。
無理してほしくないのは本当だけど、他に頼る人がいない私に何かを言う資格はない。
タッタに関していえば、余計な心配をかけないためにも素直に頼ったほうがまだマシなんだと思う。
私の単細胞が治らない限り、どうせ見抜かれてしまうんだから。
階段を上がり切ると先に部屋の扉をくぐり、タイマーに従って二階を走り回っていたルンバのスイッチを切る。
「今日なんだけど、真人たちが家を出る時間に間に合わなくて、何も話できてないんだ」
私が家に着いた時には、弟たちは二人とも学校に出てしまっていた。
うざったい奴らだが、声も聞かずに一日が始まるのだと思うと寂しい気がしないでもない。
ルンバを片付け、弟たちのスペースとを区切る間仕切りを締める。
「別に使わないから、私の部屋で寝なよ」
「それはちょっと」
部屋の入り口に立ったまま、タッタは顔を引きつらせた。
そこまで嫌そうな顔しなくてもいいのに。
なんかちょっとムカつく。
不満を悟られないように気にしていないふうを装い、話を進める。
「っていうか、あいつらの部屋めちゃくちゃだし。ちゃんと許可取ってからじゃないと、勝手にはさすがに悪いよ」
「これから毎日来るぞ。帰ったら誤解のないように話しといてくれ」
誤解のないように話すも何も、ジッパーについて家族にはまだ何も話せていないのだ。
自分の身を守るために理解しておいてもらわなくちゃいけないとわかっているけれど、普通に話しても笑い飛ばされるだけなのは目に見えていた。
昨日のラインで達弘は、私に納得してもらうために見せたいものがあると言っていた。
危険が迫っている証拠を見せることができれば、家族にも少しは信じてもらえそうな気もする。
話はその後にしようとうっすら考えていた。
「わかった。近いうちにちゃんと話す」
「今日、学校から帰ってきたらな」
言葉を濁すとタッタが具体的な日時を示して念を押した。
私はハイハイと適当に相槌を打ち、話を戻す。
「それはそれとして、真人なんか平気でベッドでお菓子食べてて汚いし、反対に唯人は毎朝コロコロかけてくぐらい潔癖で気を使うし、これからも私のベッドにしといたら? 私は夜寝られるなら、昼間に誰が使おうとかまわないよ」
「……いや、寝袋買ってくるわ」
「気にすることないってば」
「いや。だって、寝汗かくし、たまに酒臭いこともあるかもだし」
「そんなことが気になるわけ? あんな身なりしといて、意外!」
寝汗なんかどこのベッドで寝たってかくじゃないか。
真人や唯人相手なら許されると思い、私相手だと躊躇するのは女だからなのだろうか。
私なんかを女扱いする必要ないのに。
タッタはまだ濡れている髪に手を入れてわしゃわしゃとかき乱す。
「うっせーな。わかったよ。部屋使わないんならさっさと出てけ。俺は寝にきたんだ。飯屋の日取り決まったらラインくれりゃいーから」
「待って。ドライヤーだけはかけて。いま持ってくる」
犬にマテをするように顔の前に手を開いてみせ、急いで階段を駆け降りる。
枕がびしょびしょになるのはさすがに衛生的じゃない。
匂いを気にする繊細なタッタのために、一階の洗面所から枕に巻く用のバスタオルも一緒に持ってきてやろう。
適当なカゴに要りそうなものを一式入れて持ち込むと、私は自室からスマホと本を持って弟たちの部屋へスーッと消える。
「いいか。おかしなことあったらすぐ叩き起こせよ。知らずにのんきに寝てましたってのが、なにより堪えるんだからな」
「わかってるって。いいから早くドライヤーかけな。貴重な睡眠時間が減るよ」
間仕切りを締めるとすぐにドライヤーの音が鳴った。
一階に降りたほうがいいのかなと思うけれど、今はまだタッタの気配を感じていたい。
布団へもぐる音や寝息なんかを近くで聞いていたかった。
真人のいびきや、父が庭木に水をやる気配、唯人の骨伝導イヤホンからの音漏れや、香ばしい匂いをさせながら母が揚げ物をする音なんかのない、空白の家にいるのが怖かった。
ドライヤーの音が消えてしんとする中、スマホのバイブが鳴り、慌てて通知を開く。
これじゃタッタは眠れないだろうか。
目に飛び込んできたのは達弘のラインだった。
——廿代町。場所はわかるよ。ランチ時間帯希望なんだね。急だけど、今日の講義は四限からだから昼間空いてるんだ。当日で悪いけど都合つくかな——
タッタが来る前に送っておいたラインの返信だった。
慌てて、ノックもせずに間仕切りを開く。
「寝てるとこ、ごめんタッタ。達弘から返信きた。今日のランチ時間帯が都合いいって……って、あんた何してんの?」
タッタは私のベッドではなく、腕を枕にして床に転がっていた。
寝汗対策のつもりか、床には律儀に私の持ってきたバスタオルが敷いてある。
カーテンを引かれた部屋に、開いた間仕切りの向こうから光が差し込み、タッタの手元に置いてあったスマホを照らす。
「オーケー。アラームかけとくわ。三時間は寝られんな」
タッタはスマホをいじるとくったり肘に頭をつけ、再び目を閉じる。
妙に腹が立った。
深く傷ついたのかもしれなかった。
「ベッドに入って」
「なんだよ。俺は、別にここで……」
「いいから入れよ。バカやろ!」
叫んで、タッタが載っているタオルをむりやりひっぺがし、枕の上に広げた。
この悔しい感じは一体どこから来るんだろう。
タッタはうんざりといった様子で起き上がり、ため息をつく。
「…………なにをそんなキレてんだ」
「寂しいだろ。いいって言ってんのに、勝手に線を引いて、遠慮して。まるで人間にカウントしてないみたいに避けられて。こっちが無茶言って頼んでんのわかってるから、できるだけ快適に過ごしてほしいのに……もう、なんなん?」
「いや、なんなんって、言われても」
「普通に受け取ってくれてもいいじゃん。そんなに私、気持ち悪い?」
自覚していない思いが口をついて出た。
出てから、タッタとやりとりする中で起きた、ちょっとした違和感が降り積もっていたことに気がつく。
私、そんなふうに受け取っていたんだ。
心配され、すごく親切にされてきたはずなのに、どこか外側にいるような感覚。
タッタはあぐらをかいてがっくり首を落とした。
「は?? 気持ち悪い? なんでそうなるんだよ」
「だって、タッタは私のものに触りたくないんだよね? 如月でだって、すっごい避けられたし。親身になってくれてることは、ありがたく思ってるよ。でも……」
電車や如月で手を振り払われた時も、相談する場所に誰もいないタッタの部屋を提案しそれとなく断られた時も、私は傷ついてた。
気づかないふりをしてやり過ごしていただけだった。
タッタが私にしてくれていることの親切さに比べれば、そんな些細なことなどどうでもいいことだと思っていた、つもりだった。
まさか、こんなに根に持っているとは。
タッタは梅干しを食べたような渋い顔をして、頭をぼりぼり掻いた。
「誤解だ。人間にカウントしてないとか、んなわけないだろ。むしろ適当に扱いたくないからこうしてる」
「適当じゃない……。つまり大事に扱っているつもりってこと?」
「そうだな。……人としてな」
そんなふうには考えてもみなかった。
でも思い返すとタッタはちゃんと口にしていた。
たとえ親しい相手でも、男と部屋で二人にならないでほしいこと。
深い意味もなく男に触れないでほしいこと。
いきなり心理的距離を詰め、簡単に車に誘い、密室で二人で会おうと提案する達弘とは正反対だった。
これが、相手を人として大事にしているからこその態度なのか。
「だったら、私にも大事にさせなよ。連日寝不足のタッタはちゃんとしたベッドで体を休めないとダメ。いいからベッドを使いなさい。人として大切にしたいならみんなそう言うはずだよ」
タッタはなぜか目を白黒させて黙り込んだ。
それから観念したように小さな声でわかったよと呟くと、大きな身体をベッドに潜り込ませる。
「短い間だけど、よく寝てね。達弘の件は正午現地集合で返信するから。……おやすみ」
「おやすみ」
私はスマホを持ってリビングへ降りた。