2 思わぬ言葉を聞く
片付けを済ませると、私たちは河原から十五分ほどの場所にあるキャンパスのサークルボックス棟へ向かった。
鍵の管理は学生に任されているから、あそこなら夜でも入れる。
一晩バケツを置いておいて翌朝外の洗い場で分別すれば、花火も綺麗に回収できるだろう。
自転車を押して坂を上がりながらゲームの勝者が下した命令は、ごく簡単なものだった。
「あんたたち。途中のコンビニでビール一本おごりなさいよね」
三人でビールを一本提供するのでオッケーってことだろうか。
美夏は寛大だ。
「ちょっと待て。命令はバケツ運びじゃねーのかよ」
重いバケツの運搬を受け持っていた克己が、不満の声を上げる。
「片付けは花火の後のお約束。当然のことでしょ? バケツは一つしかないんだから、あんたが運ぶしか仕方がないじゃない」
美夏は小学生に見間違えられる体型の私と、ヒョロリと背ばかり伸びた頼りなげな達弘とを見回して肩をすくめた。
「お前ら手ぶらじゃねーか」
「もってるぜ。ろうそくたてに、ライター。スマホの電池切れに備えて懐中電灯まで用意した」
それらを分担して持っているのは美夏と私だ。
達弘の自転車のカゴには残った花火や空袋が突っ込んである。
「達弘、お前男だろ?」
「うっさいわよ、克己。黙って運びなさい」
美夏が諦めの悪い克己を一蹴するのをおかしがって、達弘が悪ノリする。
「女王様直々の命令だよ。喜んで聞きな?」
「後で交代しろ。お前だって負けたろ」
「克己には勝った」
「そのうえビールもだぜ?」
泣きつく克己に、達弘は上から目線で恩を売る。
「仕方ないな。コンビニで交代してやるよ」
「ほぼ大学前じゃんか」
私は前でわちゃわちゃやっている達弘の襟元を覗き込もうと、首を伸ばした。一瞬街灯に照らされるが、長い襟足とシャツの襟に阻まれてよく見えない。
不注意が祟って、押していた自転車がふらつく。
「どうした有希、大丈夫か?」
「ううん、平気。あの、バケツ持ち変わるよ。克己が負けたのは私のせいでもあるんだし。ビリなのは一緒だし」
「ふらついてるくせに?」
負ける原因にもなったのに自分だけ何もしないのは悪いと思って提案したが、達弘が横槍を入れる
「有希は賭けに入ってなかったんだから障害物扱い。ぶつけた俺の負けだ」
「でも……」
断られるが、なんだか申し訳ない。
「バケツ、見た目より相当重いぞ。まともに自転車すら押せていない有希には無理だよ」
「そうだ。お前に持たせたら、俺が美夏に殺される」
さっきまでバケツを押し付けあっていた男二人は急に結託し、寄ってたかってできないと言う。
克己は達弘に絡んでいただけで、最初から女に持たせるという発想はなかったらしい。
美夏が振り返り威圧する。
「よくわかってるわね。有希に何かあったら絶対殺す。さあ乗って。行こう」
大学まではおおむね平坦だが、ところどころカーブもある。
提案したもののよくよく考えると無茶だった。
剛腕の克己でさえ何度もこぼしかけて減速している。
非力な私じゃ、自転車ごとひっくり返っていたかもしれない。
とはいえ、最初からできないと決めつけられるのは癪だが。
踏切まで出ると、途端に明るくなった。大学まであと一息だ。
越えたところで先頭を行く美夏がブレーキをかける。
「計画変更。あっちのコンビニで買い出ししていこう。元酒屋だからお酒の品揃えがいいのよ。せっかくだからつまみも揃えちゃお」
「待て。買うのビール一本じゃなかったのかよ」
克己を無視し、達弘が便乗する。
「ゴチになります!」
「はぁっ? お前は出す側だろ」
「だって、品揃えがいいんだもん。みんなで飲もうよ」
「んなの、理由になるか!」
邪魔にならない場所に自転車を止め、美夏が自動ドアの横で前で手招きする。
「いいから克己、行くよっ」
従順にも言われるがままに克己はバケツを下ろした。
勢いで黒い水が溢れ、傾斜に沿って流れる。
「やべ、こぼしちまった」
「有希と二人で片しといてやるよ」
「とかなんとか言って、払わせるつもりだろ。絶対後で請求するかんな!」
「公正によろしく」
達弘は澄ました顔で、ひらひらと手を振ってみせた。
店内に入るなり美夏は逃すまいとするように克己の腰に手を回した。
明るく華やかな美夏と強くて頼り甲斐のある克己の二人は、一見美女と野獣みたいにチグハグにみえるが、お似合いのカップルだ。
仲睦まじい二人を眩しいと思う。
高校の頃に美夏が付き合っていたのは、克己とは真逆のタイプだった。
細身で背が高く、すっきりとした顔立ちのスナフキンみたいに飄々とした感じの男だ。
部活や男友達を優先する人で、強気に見えて実は甘えたがりな美夏は、寂しく満たされない思いを抱えていたんじゃないかと思う。
あいつ、少し達弘に似ていたな。何を考えているか、どこか掴みきれないところが。
二人が棚の向こうに消えると、私は水面の揺れるバケツに目を落とした。
「汚いね。どうしよっか」
「まぁ拾えるものは拾ったし、あとはどうしようもないよなあ」
何か話さなくちゃと焦り、出てきた話題が一瞬で終わる。
口下手な自分に呆れた。
さっきまで軽口を叩いていた達弘の口も重い。
どうしよう。二人だと間が持たない。
白々とした灯りに浮かび上がる、表情の読めない平坦な横顔をチラリと見る。
……立てたシャツの襟に隠れた首元が見たい。
「お酒、いくらくらいだろうね。小銭持ってたかな」
私は財布を確認するふりをして斜めがけ鞄を探り、わざとに懐中電灯を落とした。
キーホルダータイプの小さなそれは、斜面に沿って達弘の足元へと転がる。
狙い通り、達弘は拾い上げようと手を伸ばした。
俯いた首の後ろが、コンビニの明かりにキラリと輝く。
ジーンズやジャージに使われているようなどこにでもある銀のジッパーが、重力に従って垂れている。
これまでどうして気づかなかったのか不思議になるくらいはっきりと、それは、そこにあった。
「気をつけな。壊れるよ」
差し出された懐中電灯を受け取る。
「ありがとう……そういえば、達弘ってさ。確か金属アレルギーって言ってたよね」
「そうだけど。なんで?」
「あっ、いや、わりと酷い方なの? ネックレスとか指輪とか、つけられないくらい」
ひとつ開けたシャツから覗く首元には、チェーンも何も見えない。
「無理だね。指輪するとミミズ腫れになるくらいには酷いよ。懐中電灯触るくらいはなんでもないけどね」
実は、首のあれはちょっと奇抜な形をしたネックレスのアジャスターだったりしないか? なんて妄想も一瞬で絶たれてしまう。
いや、あれは首の肉に直に張り付いていた。体の一部であるかのようにしっかりと。
達弘が細い目で私の顔をまっすぐ見つめる。
「……だからプレゼントならアクセサリーじゃないのがいいかな」
「へっ?」
どういうことかわからず瞬きを繰り返す。
達弘は気まずそうに頭を掻き、目を逸らした。
「あれ。もうすぐ俺の誕生日だから探り入れてくれたのかと思ったんだけど。……違った、か」
間近で見ると、淡白だが鼻筋の通った綺麗な顔立ちをしている。
達弘のことなんて、これまでなんとも思ったことなかったはずなのに、妙にドギマギした。
「そっか。誕生日、七夕だったっけ」
「覚えていてくれたんだ」
「まあ……」
笑顔を向けられ困惑する。どう振る舞っていいかわからない。
達弘は違和感をもっていないのだろうか。
今だって私は場違いな気持ちでいっぱいなのに。
明るく人気者の美夏、快活な克己、そして誰とでも打ち解けられる達弘の間で私は異質だ。
美夏に誘われたのでなければ、インドアの権化のような私がこんなフィールドワーク中心のサークルになんて入ってない。
私たちはただのサークルの同回生。
しかも私は二回生の今になって割り込んできた新参者だ。
確かに探りを入れたように聞こえたかもしれない。
だとしてもそんな相手からネックレスや指輪なんて意味深な物を贈られるなんて私には発想できない。
すごい自信だと思う。
「やべ。イタイな、俺。……でも、もし誕生日に何かもらえるんだったら、有希がいいな」
「えっ?」
「誕生日にくれるなら、有希がいい。一緒にいてくれないかな。これからも一番近くに」
その言葉がどういう意味を持つのか考えようとすればするほど、頭の中が真っ白になった。