17 交渉する
冷蔵庫から出した冷えた麦茶を喉に流し込み、学校から自分の通った道のりを思い返した。
たぶん鍵は自転車とぶつかった時に落としたんだ。
運転していたあの黒いハイネックを着た青年が拾ってくれたんだろう。
ちょうどそこにいかにも知り合いといった様子で私の名を呼んで近づいてきた男が来たから、落とし物を託した。
それにしても、どうして家にまで……。
階段を上がり部屋のベッドに腰掛けて、一息ついたところでスマホがなった。
画面には達弘からのLINEが届いたと通知が出ている。
——落とし物を弟くんに手渡しています。家の鍵です。俺、昨日サークルボックスで潰れちゃってスマホの電源が切れてたので、連絡が遅くなりました。ごめんなさい——
気取った顔が目に浮かぶような丁寧な文面だ。
こっちが尋ねたいだろうことを先取りして言い訳してある。
既読がついてしまったが、何と返したものか。
とりあえず「ありがとう」と唇を肥大させた棒人間のスタンプを送る。
可愛くて気に入っているが、周囲にはウザくてキモいと不評な動くスタンプだ。
——なにこれww——
すぐに反応が返ってくる。
達弘でもwwとか使うんだ、なんて変なところで感心しているとすぐに続けてメッセージが入る。
——ところで初めて見たけど弟くん、すごく有希に似てるね。かわいい。中学生?——
その通りだが、かわいいなんて言われてもどう反応していいかわからない。
むしろ動くとさっき送ったスタンプに似ている気がするけれど。
——中一。全然似てないよ。スマホもないのによく家がわかったね。結構込み入った場所だと思うけど。美夏に聞いたの?——
——そんなとこ。別に迷わなかったよ。俺、一回通った道は忘れないタイプだからね——
はぐらかされた。
その上お前の家は覚えたぞとプレッシャーをかけられているような気がする。
——弟くん、確かにちょっと違うね。でもなんか無防備なとこが似てる。着替え中だったみたいで、玄関までYシャツのボタン外したまま走ってきたよ。インターホンにも出ないで、無防備だよね。待たせときゃいいのに——
ああ。目に浮かぶ。
私も昔パジャマをインし、すごい寝癖のままで玄関を開けて、親に叱られたことを思い出す。
昔というか、そこそこ最近までそうだった。
唯人みたいに小さい時から対外的なことをちゃんとできた子もいるけど、私や真人は全くそうじゃなかった。
礼儀作法も敬語もTPOまで全部苦手分野で、かしこまった場での立ち振る舞いは空手のおばあちゃん先生に扱かれてどうにか人並みに身についたけれど、日頃はとんでもなく気が抜けている。
一応大学ではそれなりにしているつもりだったんだが、案外本性はバレているものだな。
——すみません。伝えときます——
——何そのかしこまった言い方。有希らしくもない——
達弘は多分唯人と同じタイプの大人びた子供だったんだろう。
隙がなく、細部まで身ぎれいで行儀の良い子。
しゃべれば年相応なのに、かしこまった場ではそういう部分をきちんとしまっていられる子。
早く大人の仲間入りをしたいと望み、人にどう見られるかを自然と気に掛けられる子。
みんな大人に向かって成長しているはずなのに、私には大人になる才能がなかったんじゃないかと思う。
——ところで、話変わるけど、近いうちジッパーについて話さない? 有希に見せたいものがあるんだ——
いきなり確信をついた内容に、しばしフリーズしてしまった。
一旦スマホをベッドに置き、目を覚まそうと思い切り両頬を叩く。
トイレから戻ってきた真人がドアを開け、ギョッとした顔でこちらを覗いた。
「ねーちゃん……大丈夫?」
しまった。間仕切りを締めておけば良かった。
話しかけてくる真人に手を振って締めろとジェスチャーする。
真人はアメリカ人みたいに両方の手のひらを上に向け、肩をすくめるしぐさをし、間仕切りの向こうへ引っ込んだ。
こいつのどこがかわいいもんか。
ちっともいうことを聞かないんだから。
気を取り直してスマホを手に取る。
——首のジッパーについての話だよね? ——
あえて首の、と強調してみた。
送信ボタンを押すとふうっと深く息をつく。
はぐらかされたが、私の家の場所を知っている人は美夏を置いて他にいない。
今朝、私と美夏たちの間で起きたことも、達弘はきっと伝え聞いている。
いまの美夏が頼れる相手は、私やタッタ、上池や秋幸さんなんかじゃない。
同じ境遇にあり、すんなり悩みを共有してくれるジッパーを持つ人間の方なんじゃないか……そう考えかけて首を振る。
再びスマホが鳴る。
——そう。会って話したい。込み入った話になるし、見せなきゃ納得してもらえないと思うから。できればうちの学生がいるところは避けたいんだ。車出すから、海沿いでもドライブしない? 仁淀川の河口の方。桂浜でもいいよ——
達弘の飄々とした表情が目に浮かび、ぶるりと身震いした。
頭より先に身体が拒否反応を示している。
私は昨日達弘の首にジッパーがあるのを見たし、告白までされた。
まだそれについてなにも聞いていないし、なんの返事もしていない。
そんな相手の車に乗るなんて無理だ。
場所だって悪い。
海沿いの道は人目がないだけでなく、防風林に隠れてラブホテルが乱立しているのだ。
誰にも言ったことはないが、私は未だに生理が来ていない。
生まれてこのかた一度もだ。
信用できないのかと怒るかもしれないけど、そんな身体でもなにかされれば傷つくし、妊娠の可能性だってゼロじゃない。
怪しげなジッパーがあるかもしれないなら尚更無理だ。
相手が誰であれ警戒するのは当然だと思うが、達弘はそんな恐怖を経験したことも想像することもないんだろう。
自分がそんな目に合うとは思わないから。
だから他意なくこんな提案ができる。
冷たい気持ちでそんなことを考え、メッセージを打ち始める。
——ジッパーのことは聞きたい。でも人気のないところは嫌。場所はこっちが指定する——
そこまで打ってタッタの顔が浮かんだ。
私は一人じゃないんだ。
知ってる人がたくさんいるんだとアピールする。
それは相手を巻き込み危険に晒すことと同義なのだが、知っているのが私一人だと思わせると負ける。
——あと、昨日のうちに何人かに相談しているんだ。そのうちの一人を立ち会わせたい。そいつと連絡がつき次第ラインするよ——
送信ボタンを押すとしばしの間があいた。
それから了解というピンクのうさぎがウインクしているスタンプが届く。
意外とかわいい趣味をしてる。
普段サークルのグループラインではデフォルトで入っているスタンプしか送ってなかったから、そういうのに興味がないんだと思ってたけど。
頭の隅で達弘の色の白い平安顔を思い浮かべる。
——連絡待ってます——
この短い返信を最後にやり取りは終了した。