v1.0.6 心の準備
午前中の授業は、まるで頭に入らなかった。
だって、今日は昼休みに七橋さんと屋上で会う約束があるわけで。
当然、脳内はその時のシミュレーションのために全てのリソースを使い切っているわけで、そこに授業などといった些事の入り込む隙はない。
最初にどんな話題から始めたらいいか、どんな事を聞かれたらどう答えるのがいいか、どんな口調で話せばいいか、脳内で緻密かつ大胆なシミュレーション及びイメージトレーニングを行い、パフォーマンスをベストなコンディションにリーチできるようにアジャストし、七橋さんとのリレーションをグロースさせることがマストであり……ってどこの御社を破滅させそうなコンサルだ俺。
もう、何がなんだかわからない。脳の中が混乱の極みだ。
全然まともに喋れる気もしないし、挙動不審になる予感しかしない。
ヤバい。
何がヤバいって何もかもがヤバい。
っていうかそもそも会話ってどうやるんだっけ。
口ってどう動かしたら喋れるんだっけ。
どうやって動いたら歩けるんだっけ。
屋上ってなんだっけ?
俺ってなんだっけ?
人間ってなんだっけ?
存在とは?
真理とは?
……
と、思考が無限の回廊に囚われ始めた頃、午前の終わりを告げるチャイムが鳴った。
え……もう?
あれだけ脳のリソースを使ってシミュレーションした割に、なんの成果も上がっていない。
一体どんな風に、何を話をしたらいいのか。
それがまるで分からない。
だって、ここ3年以上もろくに会話らしい会話してないし。
会話らしい会話といったら、ゲームの中で選択肢選んでただけだし。
そんな俺がまともな会話をシミュレーションとかできるわけないし。
……ほんと、せっかくのARグラス時代なんだし、リアルの会話にもあんな選択肢出るようになってほしい。今だったらAIとかフル活用したらあれくらいの事はできるでしょう……?
……そういうアプリってないのかな。帰ったら探してみよう。
って現代テクノロジーに依存する気満々になってる場合じゃない。
よし……行こう。
お腹も痛いので、一旦トイレに寄って、出すものを出す。
階段を上り、屋上に続く扉を前にして深呼吸。
すーはー
すーはー
よし。
扉に手をかけ、ちからを入れ……ようとして手が止まる。
……ん、ちょっと待て。
昼休みといえば「ダーリン一緒にご飯食べよー」ってミントが一番よく登場するタイミングだ。
七橋さんとの会話の途中でミントが出てきて、何かイタズラされたり、邪魔をされても困る。
ARグラスは外しておこう。
一応、学校のルールとしては、学内にいる間、ARグラスは常につけておく事になってるけど、昼休みの少しの間くらいは許してもらえる、はず。
俺はARグラスを外して胸ポケットに入れ、あらためて屋上に続く扉に手をかけた。
そして、やたらとバクバクする心臓をなだめつつ、扉を押した。




