v1.0.4 メール
しかしミントが駄目だと言ったからといって、諦めきれるようなものじゃない。
だって、これからの学校生活が賭かっているのだ。
「ダークナイト君」呼ばわりされて冷たい目で見られる学生生活を送る事になるか否か。それを決める重要な分水嶺。それが今だ。
なんとしてもこのタグを、他の子達と同じ、正しい自分の名前と普通の色のステータスに戻さねばならぬ。
今から隣町の書店へ行くのは時間的に厳しいので、近所の図書館に駆け込んで、コンピュータ書コーナーでタグについて調べまくってみる。
しかしどこにもタグの変更方法なんてものは載っていない。というか、そもそもARグラスについての本が少なすぎる。あるのはせいぜい俺のような初心者とか、お年寄り向けの本ばかりで、高度な事がかかれた技術書とかそういうものはない。
……まあ、ARグラス使うような人達だったらWebとか電子書籍とかで調べるだろうし。紙の本なんて、初心者と年寄りくらいにしかニーズがないのも当然なんだけど。
とりあえず図書館所蔵の何冊かの入門書に目を通してわかったのは、ミントが「先進校アプリの設定」と言っていた通り、タグの機能はどうやらARグラス固有の機能じゃなく、学校アプリの機能で出ているものらしい、ということだ。なので図書館にあるような一般向けの書籍やARグラスのヘルプには当然タグについての情報はないし、学校側に尋ねるのが正解、という事らしい。
仕方ない。このタグのことは、いずれ学校で先生に聞くなりしてみよう……。
そんな結論が出たところで、俺はコンビニで晩飯を調達しつつ家に戻った。
家に戻ると、中から「おかえりー」という声がする。
反射的に「ただいまー」と返すが、返しながらえもいわれぬ違和感を感じる。
俺、一人暮らしのはずなんですが?
部屋のほうに視線を移すと、そこには案の定ミントの姿がある。
そして、図書館に出る時に確かに消したはずの部屋の電気がついていて、
「愛しい彼女の待つ明るい部屋に帰ってくてるって、いいでしょ」
そうのたまうミントさんのとてもいい笑顔が俺を迎えてくれた。
……えっと?
ミントが部屋にいるの事にはこの一週間でさすがに慣れたけど、なんでミントさんが俺の部屋の電気つけたりできてるんですかね……。
そういえばこの部屋の照明やエアコン、スマホとかARグラスで操作できるって部屋の契約の時に言われた気がするのだけど、つまりこの子は俺のARグラスだけじゃなくて、俺の家のそういうのまでハックしてるっていう事?
……ミント、やはり恐ろしい子。
「図書館で何してたの?」
「……あ、ああ、調べ物」
「ダーリンほんと紙の本好きだよね」
「ま、まあな」
俺が図書館に行ってた事もバレてるし、色々と釈然としない。
釈然とはしないが、こういう釈然としなさにバカ正直に全部付き合っていると日が暮れる、というのはこの一週間でよく学んだ。
とりあえず色々な疑問やモヤっとした気持ちは横に置いておいて、「もうちょっと野菜とかもちゃんと食べないとだめだよ」とオカンみたいな事を言うミントを横にコンビニ飯をかっ込み、さっさと勉強机に向かうことにした。
今日はいくつか面倒そうな宿題が出ている。
タグの事とか、ミントの事とか、色々気になる事はあるけど、ひとまずはこれを片付けるのが急務。
漆黒の騎士というタグによって突如眼前にもたらされた、明日からの学生生活を侵食する薄暗いビジョンを必死に振り払いながら、まずは数学の宿題に取り組む。
数式を見ていると、どうしても数学の担当教員、杉崎のあの俺を憐れむような目が思い浮かぶ。
ま……負けないぞ……。
幾多のメンタルブレイク系攻撃を受けながら、血反吐を吐くような気分で必死に数学の問題を解き進めていく。
ARグラスの操作に多少手こずったりしつつ、なんとか今日の宿題の範囲は片付いたな、と思ったその時だった。
耳元で「ポーン」とやや聞き馴染んだ音がした。
この音は……と、視線を視界の右下のほうに向ける。
そこにはメールアイコンがふわりと浮かんでいて、そこに赤いポッチがついている。
やっぱりメールの着信か。学校からのお知らせとかかな。
そう思いながらメールアイコンをタッチすると、ふわりとメールアプリのウィンドウが空中に浮かんだ。
届いたメールは――
タイトルは「こんばんは」
差出人は……七橋杏南!?
委員長からですと!?
そういえば今日話した時にメッセージ送っていいか、みたいな事聞かれたけど、まさか当日の夜に早速来るとは思わなかった。
これってアレだろうか。書籍『初対面の人と仲良くなる99の方法』第3章8節、「会ったその日にメールを送ると印象と好感度がアップする」ってやつですか?
……うん、間違いなく俺の中で七橋さんの印象と好感度がうなぎ登りなので効果は覿面だ。いつか機会があったら真似よう。
……あれ、でもこれって、もともと好感度の高い美少女であらせられるところの七橋さんだからこそ効果的なのであって、俺みたいなのが真似ると「うわっ……必死だなこいつキモっ」ってなるだけなのでは?
うん、そうですよね。蓋しイケメンに限りますよね。危ない危ない。
よかった。この先の未来、俺から気持ち悪いメールを受け取る人はいないんだ。世界はまたひとつ救われた。
……ってそんな事はどうでもよくて。
とりあえずメールの中身中身。
俺は指を伸ばして、七橋さんからのメールをタッチ……しようとして、手を止める。
ちょっと待とう。
これまで、俺は散々ミントにはメール経由で好きなようにされてきたわけだし。
このメールがそういうものでない保証はない。
とりあえず深呼吸して、嘘のメールだったりしたときの心の準備をしてから開こう。
すー、はー
すー、はー
よし。
改めてメールをタッチして開……こうとして、またしても手が止まる。
そういえば、これってミントに丸見えになったりするんだろうか。
もし、本当に七橋さんからのメールだったとして、メールがミントにのぞき見されたりして、俺はともかく七橋さんにも迷惑かかったりするのは困る。
うーむ。
「そのメールはボクが送ったのじゃないし、ボクには見えないから安心していいよ」
背後からミントの声がした。
振り向くと、いつの間に着替えたのか、ミントはパジャマ姿で床に寝っ転がって、タブレットのようなものをいじっている。
……この子完全にうちに住んでる感じになってるけど、何だろうねこれ。
「……こうしてメールを開こうとしてるのがバレてる時点で、まるっきり信じられないんですが」
「ダーリンが少しは用心深くなってくれたみたいで、ボクは嬉しいよ」
ミントはなんだかやたら満足そうにうんうん頷いている。
「ボクにはメールが届いてるのと、ダーリンがメールアプリを立ち上げた事はわかるけど、そのメールの中身は読めないよ」
「そうなのか」
「うん、今回のは網膜鍵暗号……ええと鍵のかかったメールだから」
「その言い方だと、鍵がかかってなければ読める、って言ってるみたいに聞こえるんだけど?」
「うん、ちゃんと鍵のかかってないのは、見えちゃうこともあるよ」
「鍵をかけるかけないとかそういうのって、俺のほうでどうにかできるのか?」
「んー、それは送る人次第」
「へぇ……」
なるほど。手紙を送る側の人がちゃんと「親展」とか書いてしっかり封をしておかないと、他の人がうっかり開いて読んじゃっても文句は言えないよ、ってことなのかな。
「でも、別に鍵なんてかかってなくても、ダーリンのメールとかを勝手に覗いててあーだこーだ言うつもりはないもん」
……あー、いるよねー。
自分のパートナーのメールとか確認しちゃう系の人。
そういう人に限ってパートナーが浮気性だったりするのはどういう世界のマジックだろう。
「それくらいは弁えてる素敵なパートナーだから、ダーリンはボクのことをもっと好きになるといいと思う」
「人のARグラスに侵入して好き放題やってる奴が言っても何の説得力もないぞそれ……」
とにかく、このメールはミントにも読むことはできないわけか。
そういう方法もあるんだな。
あのミントの言う事だし、すべてを信じるわけではないけど。
とりあえず今はその言葉を信用してみることにしよう。
というわけであらためて、七橋さんからのメールをタッチして、開いてみる。
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御久仁君
こんばんは、七橋です。
今日は突然話しかけちゃってごめんね。
メッセージ送ろうとしたんだけど、御久仁君ってメッセージは使ってないのかな?
なんだかうまく送れなかったので、メールしました。
やっぱり御久仁君って、IT強いよね。
そんな御久仁君を見込んで、一つ相談したいことがあります。
もしよかったら明日の昼休みに、屋上で少しお話できないでしょうか。
七橋
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おお……内容からしてこれまごうことなき七橋さんからのメール。
さすが七橋さん、文面からも漂う人柄の良さ。
先程まで脳裏にこびりついて離れなかった杉崎の憐れむようなねちっこい顔が浄化され、七橋さんの柔らかな笑顔が脳を支配し、脳内が幸せ物質に満たされる。
たった一通で、暗澹とした俺のこの夜を穏やかな幸せな時間に塗り替えてしまうとは、七橋さんマジ女神。
「メッセージ」っていうのはよくわからないけど、何かのチャットとかそういう方向のアプリだろうか。ARグラスは授業とか学校のこと以外で使ってないので、もちろんそういうものは触ってないし、七橋さんには申し訳ないことをした。
……あれ、でもこれってもしかして七橋さんとのやりとりの機会を一つ失ったんだろうか。
何か惜しい事をした気がするので近いうちにそのメッセージとやらについて調べておこう。
しかし、俺がITに強いっていう誤解はやっぱり解けてないらしい。
この誤解を解くためにも、明日の昼休みは、万難を排してでも屋上に伺わせていただくことにしよう。
「ダーリン、また表情緩んでる」
「わ、悪いかよ」
「べっつにー」
そう言いながら顔の下のあたりを指さしてなぞる仕草をするミント。
ははーん、要するに「他の女にうつつを抜かしてると、お前のタグはこのままだぞ?」ってことですね?
……俺に明るい明日はないのか畜生!




