v1.0.1 七橋さん
朝のHRを終え、今日の一限目は数学。
いかにも堅物でございます、という雰囲気の眼鏡(これもARグラスらしい)をかけた、杉崎という教師の授業だ。
正直、この先生は苦手だ。
授業は外見通り、やたら堅苦しい、ユーモアのかけらもない内容だし、そのくせ生徒がつまらなそうにしていたり、寝そうになったりしているとネチネチと嫌味を言ったりする。
あと、なぜだか知らないのだけど、俺をやたら可哀想なものを見るような目で見てくるので、それもあわせて何とも居心地が悪い。
ARグラスを通して見る教科書がそれなりによくできているお陰で、授業の内容そのものはなんとか理解できるのだけど、それはあくまで教科書のお陰であって先生の力によるものではない。
だったらこの先生いらないんじゃ……と、どうやら他の生徒達も思っているらしい。
横を見ると授業中に授業とは関係ない事やってそうなクラスメイトが多数いる。
ちなみに俺はというと、ARグラスを使った内職のしかたなんて知らないので、ひたすら教科書のページを繰っては「おお……この教科書よくできてるなぁ」と地味に感心する作業を続けている。
だってグラフが空中でにゅーんって伸びるのとか、正四面体とか正十二面体とか色々な立体の模型やら展開図やらをぼんやり眺めるのめっちゃ楽しいし。AR教科書万歳。
そんなこんなで一限を終え、休み時間になると、また悶々とした時間が始まる。
学校が始まってもう一週間にもなるわけだし、このタイミングで未だに誰ともコミュニケーション取れてないのはヤバい。
できれば誰かに話しかけたりしたいし、話しかけられたりしたい。
でも、相変わらず周囲はARグラス巧者だらけで、どうにも話しかけづらい雰囲気なのは変わらない。
ほんと、一体どういうタイミングでどう話しかけたらいいんだろう。その難問の解決の緒は未だに一つも見えていない。
……ので。
仕方なくまた本を取り出して読み始める。
今日は、週末に古本屋で仕入れた10年以上前のライトノベルだ。
主人公が何度も死に戻りながら難題を解決していく話で、結構な鬱展開なんかもあるので、学校で読むには注意を要する。
しかしこの程度の鬱展開でへこたれる俺ではない。
なぜなら学校生活そのものが鬱展開だったからだ……ってほんと救いようがないな俺の人生。
それにしてもこの青髪の女の子はなんていい子なんだマジ天使……。
などと感涙にむせんでいると、誰かが自分の席の横に立ち止まる気配がした。
同時に、頭上から、
「へぇ、紙の本なんて珍しいね」
という、鈴を鳴らすような声がした。
(へ……?)
今、なんて聞こえた?
これはもしかして、もしかする?
苦節4年、ついに「今時紙の本を読んでいることでツッコミ入れもらい、それをきっかけにお話」メソッドが成功の日を迎えたというのか……!?
しかも、この声は――
慌てて顔を上げると、そこには顔立ちの整った、やわらかな雰囲気の綺麗な女の子が立っていた。
このきりっとした、でも優しそうな穏やかな目、きめの細かい白い肌、綺麗な長いストレートの黒髪に、おしゃれなARメガネ。
間違いない。俺がこのクラスで唯一しっかりフルネームを覚えている女の子。
クラス委員長にして男子人気ナンバーワン(推定)の、七橋杏南さんその人じゃありませんか。
……ってちょっと待てよ。
こんな俺みたいな、役名で言ったら「生徒F」くらいのモブキャラに、あの七橋さんが話しかけるなんて事、あり得るか?
もしかしてこれはミントの仕掛けた罠で、実はARグラス上に表示されてる映像とかそんな事は……。
慌てて確認してみるけど、七橋さんは透けてもいないし、メガネのレンズ外のところから覗いて
みてもやっぱりそこにいる。どこからどう見ても、ARグラス上の映像などではない。
つまり、確かに目の前に立ってるのは、まごうことなき本物の七橋さん――
――ああ、何ということでしょう。こんな素晴らしい機会を私に与えてくれるとは。ありがとう世界。
「ん? 私の顔、なんかついてる?」
リアルかどうか疑うあまり、凝視してしまったせいだろう。七橋さんがだいぶ怪訝そうな表情になっている。
「あ、いや……」
さすがに「偽物じゃないかと疑った」とは言えない。
どうせなら「君が美しすぎてつい見惚れてしまった」くらいの事が言えたら……うん、それはそれでファーストコンタクトとしては猛烈にキモいな。
「何読んでたの?」
七橋さんが少し前屈みになって、顔を近づけてきた。
刹那、ふわっと香る、何か清潔な感じの香り。
ああ、あるんですね、こういうの、実際。
ラノベとか恋愛ゲームの中だけの話だと思ってましたよ。
ああ、リアルって素晴らしい。
中にハッカーが潜んでるどこぞの3Dキャラと比べたら天と地ほどの差がある。
そりゃ、ミントだって十分かわいいし、ディテールは細かいし、未だに距離が縮まるとドキドキしたりすることもある。
でも、本物の3次元の女の子と比べたら……そりゃ全く別物だ。
「あ、ええと、古い……小説」
ライトノベル、っていうのは何となく伏せておく。
……読んでたページがちょうど挿絵のあるところだったから、すっかりバレてるような気もするけど。
「へぇ、私も小説読むけど、古いのはあまり知らないから、面白いのあったら教えてほしいな」
「あ、うん……」
「話すの初めてだよね」
「アッハイ」
「……なんでそんな畏まってるの?」
緊張のあまり忍びの者を殺しそうな返事をしてしまった俺に、七橋さんは少しおかしそうに笑顔を浮かべて、
「御久仁君って、なんかちょっと怪しいよね」
と仰った。
……あーそうですよね怪しいですよねキモいですよねマジで視界から消えたほうがいいですかね死にたい。
……ん? ちょっと待て?
今、七橋さんが俺の名前を口にしたような。
え、もしかして七橋さんのような天上人がこんな俺のような生徒Fの名をちゃんと把握していらっしゃる、と?
なんと畏れ多い事でしょうとてもいい冥土の土産ができましたので可及的速やかに果てたい。
「いつも独り言ぶつぶつ言ってるし」
それは多分ミントとの会話で……ってそうか、あれ、全部独り言ブツブツ言ってる変なやつに見えるわけか死にたい。
「冗談冗談。今は音声入力とかあるもんね」
「……」
ど、どうやら軽くからかわれただけだったらしい。
なるほどこれが天上人のhumorというやつか。危うく舌を噛んで最後の命の炎を燃やすところだったぜ。
……でも……今のは思ってなければ出てこない種類のからかい方だったし、少なくとも10割くらいは本音だろう。
こんな美少女委員長に怪しいとかキモいとか思われながら過ごす高校生活。
……あれ、それってなんか意外と悪くないんじゃ……。
って待て待て。そんな人として何か誤った方向の扉を高校生の時点で開いてはいけない。
そういうのは開くにしても30代くらい、魔法使いになった以降だ。
などとあれこれめまぐるしく考えていると、七橋さんは意外なことを口にした。
「ところで御久仁君って、IT強いよね?」
「え……?」
全く意味がわからない。
一体何をどう見たら俺がIT強そうに見えるんだろう。
この俺がIT強者だとしたら、この世界は少年漫画の末期くらいのIT強者インフレが起きてて、俺のIT戦闘力が6千で俺ツエーしてたら目の前の七橋さんのIT戦闘力が53万、みたいな事になってると思う。
それともこれ、またしても天上人的なユーモアの一種で笑いどころだったりする?
俺くらいのぼっちになると会話の事例が極端に少なく、会話に登場するユーモアを適切に理解して笑う技術はないのでその点細やかなご配慮を願いたいところなのですが。
しかし七橋さんはそうやって戸惑う俺の沈黙を、肯定と受け取ったらしい。
「タグも変だし」
「タグ?」
「どうやって変えてるの? それ」
「……? っていうか、タグって何?」
「えっ?」
「えっ?」
「ふーん……」
七橋さんの目つきが、なんだか鋭くなった。
あ……これ多分『この人IT強者なのがバレたくないのでしらばっくれたな』みたいな想像してる顔だ……。
それは完全に誤解なんだけど、しかしこの空気だと何をどう説明しても「IT強者なのバレたくない人」だと思われる流れなような……。
まあいずれ自分のIT戦闘力がゴミなのは周知の事実になるだろうし、気にせずにおこう。
にしても、なんでそんな誤解されたんだろう。
多分その「タグ」っていうのに何か誤解されるような要素があるってことなんだろうけど。
後でミントに聞いてみるか。
……と、あれこれ考えていると、無情にも休憩時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「……まあいいや。よろしくね、御久仁君」
「う、うん」
「あ、今度メッセージとか送ったりしてもいい?」
俺が全力で首を縦に振ると、七橋さんは小さく手を振って自分の席に戻っていった。
……はー、なんかえらく緊張した。
ほんの数分のやりとりだったと思うのだけど、会話って、こんなに疲れるものだったっけ。
それにしても……なんという事でしょう。
高校生活一週間目にして、早くもクラスメイトとの会話という一大イベントを達成できるとは。
しかも相手があの七橋さんだなんて、これはもう超級山岳をトップで登りきって水玉ジャージ着れるくらいの大金星だ。
ま、まあ、委員長だから、みたいな義務感で話してくれた部分もあるんだろう……っていうか話してくれたはその義務感がほとんどなんだろうけど。
ん……?
あれ、でもそういえば今の会話、自分はほとんど何も喋ってないような。
ほとんど「うん」とか「はい」とか言ってただけだし、一番長くて「タグって何?」だったような……。
いろいろ喋ってたつもりになってたけど、ほとんど自分の心の声だったし。
やっぱり相当怪しくてキモい奴だと思われたんだろうな……。
はあ、やっぱり死のう。ASAPで死のう。