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石段から滑り落ちて来た女の子が我が子だと避難させた車の中で知った私の腕から天彦が洸姫の髪を掴んで外へと引き摺りだそうとしたので、眼に力を込め天彦の動きを封じた。
なにがあったのか知らないけれど、手を上げるって何事だ。
しかもどうやらお屋敷から洸姫を追い出して石段に放置したのは天彦のようだ。
正武家屋敷の表門は正武家家人と稀人、惚稀人しか通られない。
だから間違いなく洸姫は洸姫なのに洸姫じゃないってなに言ってんの、この子。
私は車外に中途半端に出されてしまった泣きじゃくる洸姫を車内へと戻し、入れ代わりに外へと降りて固まる天彦の前に仁王立ちをした。
すっかり背も伸びて、私と同じくらいの目線だけど脳ミソはまだまだ中学生男子だ。
「自力で解除して反省してから帰って来なさい。その手は弱い者に暴力を振るう為にあるのかどうか。どんな理由があったにせよ許されることじゃないわ」
お役目着の天彦は私の言葉にぐぐぐと眉間に皺を寄せた。
既に解除しようと頑張っていたらしく、効果が現れている。
でもね、母の眼の力はまだまだ息子には負けないのですよ。年季が違うんだから。
くるりと吹雪の中に放置された天彦に背を向けて、私はいそいそと車に戻った。
後部座席ではまだ洸姫が泣きじゃくっており、胸が痛む。
どうしてこうなった。
この子が帰って来たってことは稀人の三人は確実に丘の上のお屋敷に居るはずで、澄彦さんや玉彦、南天さんだって居たはずなのに、誰も天彦を止められなかったのか。
それに……。
窓の外に見える天彦に視線を流して私は溜息が出た。
天彦は洸姫が帰ってくることをずっとずっと待っていた。
洸姫がお屋敷から去り、誕生日までの一週間、玉彦と私は天彦への説明に明け暮れた。
朝起きれば洸姫が居ないと泣き、昼はお屋敷中を探し回って泣き、夜は一人じゃ寂しいとむせび泣く。
玉彦と私は幼い天彦に対して、本当のことを重ねに重ねて懇々と話した。
洸姫はお屋敷から離れないともう本当に会えなくなってしまうかもしれないこと。
でも八年待ったらそんなことはなくなること。
そうして洸姫が去って七日目。
天彦はその日から一言も洸姫という名前を口にしなかった。
朝昼夕に私が用意していた陰膳を見てもどうして? と質問もしない。
四歳までの双子の写真を玉彦が本棚の奥に隠しても捜すことはなかった。
本能的に五村の意志を感じ取って、片割れの名を口にして存在を捜そうとすれば良くないことが起こると感じていたようだ。
五村には双子の片割れについて口にすることを禁じる触れを出したのを天彦も聞いていたからなおさら。
けれど母は知っていますからね。
ずーっと机の上にある、あの日渡すことの出来なかった赤い包装紙に赤いリボンが掛けられた、お揃いの箸置きが入った小箱のプレゼントの埃を毎朝修練後に几帳面に払ってるのを。
友達が来る時には触られないよう引き出しにしまってることも知ってますからね。
言わずとも忘れず、ずっとずっと洸姫を待っていたのに。
どうしてこうなった! 天彦よ! これではツンデレのツンではなくただの暴君じゃないの!
「比和子様」
運転席から一部始終を見ていた竜輝くんが私を呼ぶと顔を伏せていた洸姫の肩が分かりやすくびくりとする。
あぁ、私が母親だと気付いたんだろう。
私の予定ではもっともっと落ち着いた場所で再会を果たすはずだった。
玄関でお帰りなさい、と八年越しに言おうと思っていた。
でもだがしかし。
全く想定外の出来事により予定は夢で終わった。まぁ私の予定なんて予定通りにいった例がほとんどないけどね。
「このまま帰るわ。天彦はあのままで良い。頭を冷やしてから帰って来るでしょ。放って置いたってこれくらいじゃ死なないわよ。それよりも早く帰ってお風呂に入れてあげないと。凍死しちゃうわ」
「承知しました」
そう言って竜輝くんが運転する車は一旦バックで下がり仁王立ちする天彦を避けると、山道へと向かった。
そして車内。
泣きながらも私を警戒して声を掛けるなオーラを醸し出す洸姫をどうしたものかと思う。
玉彦は既に洸姫との再会を果たしたのだろうか。
父親だと名乗りを上げただろうか。
出来れば両親揃っての再会が望ましかったけれど、そもそも今、お屋敷は一体どういう状態なのか。
考えたってあと数分もすれば判明するので私は考えることを止めた。
それよりもやっと。やっとだ。
「みんな帰って来たのね……」
八年前のあの日からずっとこの日を待ち続けていた。
窓の外の雪を見ながら私は誰にも気付かれないように浮かんだ涙を拭った。