そうしていれば良いのに
お月さまに住んでいたらしい……神さまが吸血鬼に食べられてから、とてもとても永い年月がすぎていた。
神さまはどんな味がしたんだい? なんて当たり前の疑問を聞きたいのは分かるけど、問題はそこじゃなかった。そうそう、神さまはメロン味だったとか。
メロン味の神さまが食べられ、世界は吸血鬼のものになってしまった。そして、なんやかんやあって、人間の世界に色んな吸血鬼が存在するように。
そう、男は目の前に座っている子ども達に絵本を見せながら口を動かし……とても楽しそうに笑っている。
男の目は赤くつり上がり、勾玉のような形をしている。そんな目を細め、誰かに笑顔を向けていた。
座っている子ども達の後ろ、ブルーシートの外に立っている女性が一人。男はそちらを見つめているようだ。
穿き慣れてそうなジーンズに青と白のボーダーの服。肌寒いからか、女性は薄手のジャケットも羽織っている。
笑顔を向けている男とは逆に、女性はなにかに怒っているのか……にらみつけていた。
「ははっ」
男は軽く笑うと、絵本の続きを子ども達に語りはじめた。
「ありがとう」
絵本を語ってくれた男からおやつをもらうと、小さな女の子はジャングルジムのほうにはしりだしていた。
「お姉さんもどうですか?」
考え事をしていたのか目を細め、顎に指先をくっつけていた女性が驚いている。
「え。ああ、ありがとうございます」
そう……お礼を言いつつも。女性は男からもらったおやつを見て、首を傾げている。
串にヘビのように黒くて長いチョコレートが巻きついている。特別なものを使っているのか赤い舌らしきものが口のほうから、ちろちろと動いていた。
これは……食べものなんでしょうか? とでも言いたそうな顔つきをしているが。お礼を言いながら女性は黒くて長いチョコレートみたいなおやつを受け取っていた。
「吸血鬼だったんですね」
「ええ」
男はうなずくと右手の人差し指で口を引っぱって女性に牙を見せつけている。
「あなたもでしょう? ぼくと違い、かなり高貴な血筋なようですが」
口を引っぱるのをやめて、鼻をひくつかせつつ男は女性に笑顔を向けていた。
「ああ。それはですね」
頬を指先でかきながら女性が言いあぐねていると、どこかから風切り音が。
風切り音にまじり誰かの名前を呼んでいる声が。男と女性の真上から聞こえてきた。
「はあ。またか」
黒くて長いチョコレートみたいなおやつを一口で食べると女性は串を声が聞こえている真上に思い切り投げた。
「吸血鬼さん。はなれていてくれますか」
はるか上空を見つめたまま……女性が声をかけている。男が言われた通りにはなれるのとほとんど同時に、なにかが勢い良く落下をしてきた。
風切り音が大きくなるたびに。女性を包みこむかのように、地面の影のほうもゆっくりと大きくなっていく。
「ふうう」
呼吸をととのえて、女性がかまえている。肩幅まで両足を広げ、右の拳をかためたまま落下してきているなにかを真っすぐ見つめている。
落下によって変形をしている黒い羽。つい先ほど……女性が思い切り投げた串をフリスビーのようにくわえている白髪の男が青い目を細めて、唇のはしっこを上げている。
「ヨミカちゃ」
白髪の男の顔面に……女性の右の拳がめりこんだ。鼻の骨がへしおれたのか、赤い血が飛び散っていく。
空中で黒い羽をばたつかせ、くわえていた串を地面に落としている白髪の男。鼻を両手で押さえて、がら空きになっているみぞおちに黒髪をなびかせている女性が左の拳を叩きこんだ。
口を大きく開けている白髪の男の身体が。くの字におれまがり、砂場のほうに勢い良く吹き飛んでいった。
が……黒い羽をすばやく動かし、ブレーキをかけて。白髪の男は地面に着地をした。
おれまがっていたであろう、男の鼻はすでにもとに戻っており、きれいに鼻筋が通っている。みぞおちのパンチも、それほどのダメージではなかったらしく女性のほうに堂々と近づいてきていた。
「今日もナイスパンチ。ヨミカちゃん」
「今日もしつこいわね。ストーカー」
笑みを浮かべて楽しそうにしている白髪の男とは裏腹に、ヨミカは露骨にいやそうな顔をしている。
「名前で呼んでよ、ヨミカちゃん」
「ストーカーをやめてくれるのなら、いくらでも呼んであげるけど」
「今のは……ヨミカちゃんなりの遠まわしなプロポーズ?」
うれしそうに白髪の男は言っている。
「どう考えても……ストレートな別れの挨拶だったんだけどね、今のは。と言うか、つき合ってすらないから」
白髪の男には、なにを言っても駄目な事が分かっているからかヨミカは視線を逸らして大きく息をはきだしていた。
額を指先で押さえて、ヨミカは絵本の男のほうに視線を向けている。が、子どもと遊ぶ事に夢中で気づいてないようだ。
「ねえ、ストーカー」
「なに? ヨミカちゃん」
いや。ストーカーで定着してても平気なのかよ……そうつっこみたそうな顔つきをしているヨミカ。
「あー、もう良い。ストーカーは、わたしが好きなのよね?」
逸らしていた視線を、白髪の男に真っすぐに向けている。なんだか、本当にプロポーズをしているみたいだな……とでも思っているのかヨミカの頬が少しだけ赤くなっていた。
「そうだね。強いて言うなら、大好き」
ヨミカの頬に触れようと思ったのか、白髪の男がすばやく右手を伸ばしているが避けられた。そのまま肩に触れようと考えたようだが、それも彼女に避けられている。
普段からのやり取りのようで……ヨミカは冷ややかに白髪の男を見上げていた。
「はいはい。その……口説き文句みたいなのは良いから。えっと、ストーカーがわたしを好きなのはよく分かっているけど」
「ヨミカちゃんは、おれをきらい」
ヨミカの言葉に重ねるように、白髪の男がうれしそうに言っている。
「そこまで分かっているなら」
「でも、おれはヨミカちゃんにほれちまっているから。どうしようもないんだよね」
恥ずかしそうにせず、真っ直ぐに白髪の男が自分の思いをヨミカに伝えている。それは彼の真剣な思いだったんだろうが。
「あっそ」
ヨミカに、その思いは届かなかったようであっさりとながされてしまった。
ほんの一瞬だけ……白髪の男に冷ややかな視線を向けてから、ヨミカは絵本の男のいるほうに歩きだした。
その後ろを、白髪の男が追いかけている。
「ついてこないで」
「ストーカーだからね、諦めて」
白髪の男が後ろからヨミカを抱きしめようとしたが、また避けられてしまう。
白髪の男に近寄り……顔面を殴ろうと拳をかためたがヨミカはすぐにやめてしまった。
「ん? 殴らないの?」
「子どもが見てるかもしれないから、今日はやめといてあげる」
「ふーん」
ほんの少し前に……殴っていたのは良いんだろうか? とでも思っているのか、白髪の男が不思議そうにしている。
「ヨミカちゃんらしい考えかただね」
「意味が分からないんだけど」
「ヨミカちゃんのそんなところも好きって事だよ」
「そう」
とつぜん、風が強く吹くと……黒髪をなびかせているヨミカが目を細めた。白髪の男がなにかをしてくるかもしれないと思ったようで身がまえているがなにもしてこなかった。
「平気?」
白髪の男がヨミカの周りを歩きながら……心配そうに言っている。
「うん。まあ、平気だけど」
「そっか。良かった」
「普段から、そうしていれば良いのに」
「ん……なにか言った? ヨミカちゃん」
「んーん。なんでもない」
白髪の男の質問に、ヨミカは首を横に振ると。再び絵本の男のほうに歩きだしていた。