レイン
よろしくお願いします。
運命の日は、まるで疾風の如く突然、誰にも予期されず訪れた。
噂はまるで伝染病のように、町にはびこっていた。
ねぇねぇ、知ってる?
知ってるって、何をだよ。
なんかね、地下牢から犯罪者が脱走したらしいよ。
はぁ?
何言いだすかと思えば、ゴシップかよ。
たかが犯罪者の脱走程度に、いちいち付き合ってられっかっての。
いやいや、ただのゴシップじゃないよ。なんでも、ただの犯罪者じゃなくて、何千もの人を殺した殺人鬼ってウワサさ。
逃げ出すときにも、たくさんの人を殺したんだって。
しかも、今も捕まってない。外出、控えようかな。
やっぱただのゴシップじゃねぇか。
俺も聞いたけどよ、『あのレイが脱走した』だろ?
あの殺人鬼はもう死んだって、前に噂になってただろ。つまり、どっちかの噂は間違いだったってことだ。
でも、もし今回の噂が本当だったら、結構危なくない?
どっちかの噂は間違いだってだけで、どっちかは正しいとは限らねぇ。どーせただの罪人か、あるいは貴族のペットのワンちゃんが脱走した程度だろ。尾ひれってのは、簡単につくからな。
危ないと思うんだけどなぁ……。
危ないからって、することは変わらねぇ。とっとと仕事だ、仕事。
はーい……。
ここは冒険者ギルド。
剣や盾、弓を携えた、ならず者たちの集いの場。今日も活気に満ち溢れたここでは、人々が活発に行き来している。
そんな中に、ある男と、女が入ってきた。
男は下も上も全身黒ずくめの、特筆すべきこともない割には目立つ格好。
女は黒いカーディガンとシャツというラフな格好。
二人は同じ色のはずなのに、人に与える印象はまるで真逆だった。
二人は、まっすぐ受付カウンターに向かった。
女の方が口を開いた。
「すいません、ギルドに、新規登録しにきました」
「二名ですね? 少々お待ちを──」
受付はそう言いながらメモを取るものを取り出し、「お名前は?」
女は口ごもった。
受付は不思議そうに、二人の顔を見ている。
「エレナです」
やがて、自分の胸に手を当て女が言った。
しかし、男はまだ名乗らない。
「どうしました?」
「……レイ」
男は、名乗った。
ギルドの喧騒が、嘘のように静まり返った。
***
いつものように起き、朝食をとり、いつものように会社に行き、売り込みをして、いつものように食事をとり、働き、いつものように帰り、寝る。それから、時折飲み会に行ったり、絵を描いたり、オンラインゲームをしたりする。
そうして、日常は過ぎていく。
異性というものに関わりがなかったり、まるで運動ができなかったりと、決して順風満帆な日々ではない。
しかし、その男、レンは幸せだった。
なぜならば、と説明するのが野暮なほどだった。
平凡な家庭に生まれ、はしゃいで幼少期を過ごし、中高ではバスケ部に所属し、偏差値55の大学に進学。そこからサラリーマンになった、平凡な彼の人生。
それらは、音もなく壊れた。
ある日、いつものようにベッドで目を閉じた。
その時、どんな夢を見たのか、彼は覚えていない。それほど深い眠りだった。
覚えているのは一つだけで、気が付くと知らない廊下にいたということだ。
両手を動かそうとしたが、動かない。首だけ傾けると、両手が金属製の手錠のようなもので壁に固定されているとわかった。両足もまた、固定されていて動かない。
なぜこんなところに、という疑問は浮かんでこなかった。
なぜならば、レンの前に人がいて、そいつが突然、彼に剣を向けたからである。
「死ね」
彼は不思議な体裁をしていた。
金髪碧眼で、黒い服を着ている。全体的に巨大で、筋肉が浮き上がっていた。手に携えた剣は光沢を放っており、おそらくほんものの金属であるように思えた。
そして、その剣を携えた男はレンに、剣を振った。
どこを傷つけられたのかさえ判断できなくなるほど、大きな痛み。
熱したフライパンに擦りつけたかのように、全身が熱い。
厳しいバスケ部に入っていたから、精神力には自信があると思っていた。
その彼でさえまともな思考、当然浮かんでくるはずの疑問が吹き飛ぶような痛みだった。
「死ね」
男は言う。
しかし、レンの意識が遠のくことはなかった。
「お前のような殺人鬼が、生きていてはならない。皆の幸福のため、正義の名のもと、死に晒すべきだ」
やけに明瞭に声が聞こえる。視界の隅で、また剣が振られた。
膨大で、表現しきれないほどの痛み。
しかし人は慣れる生き物なのか、段々と痛みの中でも思考が成り立ち始めた。
男は、何度も剣を振り下ろしている。
その度、「この殺人鬼が」「今まで殺してきた人々に謝罪しろ」と言っている。
斬られている間、不思議な事が起きた。
レンの中に、突然、これまでにないほどの怒りが芽生えたのである。
どうして自分が斬られなくちゃならないのか、痛くて痛くてしょうがない。
自分は何もしていない。
わけがわからない、理不尽だ。
俺のことを痛めつける奴全員、殺してやる。
しばらくすると、その男は去り、彼だけが取り残された。
それからしばらく、似たようなことが続いていくうちに、レンは気が付いた。
自分の中には、二つの記憶があるということに。
一つは、現代社会で、趣味を楽しんだり会社に行ったりして生きていた自分。
もう一つは、中世社会で、飢えては剣を振りかざし、何度も人を殺してきた自分だ。
より実感があるのは、前者だった。
今だって、冷静に自分の頭がおかしくなったに違いない、これも何かの夢ではないかと思考している。しかし精神疾患という一言で片付けるには、その殺人鬼が人を殺しまくり、牢屋に入れられ、こうして拷問される経緯までの鮮明な記憶を、彼は持ちすぎていた。
自分は何らかの要因で死に、異世界転生のようなものが起こり、殺人鬼の体に魂が入ってしまった。
レンが最終的に下した判断は、滑稽だった。
だが、それしか考えられなかった。
じゃなかったら、この体中を蝕む痛みと重複する記憶の説明ができなかった。
そして、時々どうしようもなく沸き上がる、認めたくない殺意を。
ある時、拷問をする男とは別に、薄汚れた服を着た女がやってきた。
黒っぽい肌をし、黒髪をシニヨンにまとめた彼女は、男の近くですすり泣いた。
不気味な廊下の壁に、四肢を固定された男の姿を、普通は恐ろしいと感じるだろう。それが殺人を犯した死刑囚であれば、なおさらだ。
しかし、彼女は男を怖がるそぶりを見せず、ただ男の隣で泣いていた。
それは、四肢を固定されて、男がそこから絶対に動けないからだろう。
「なんで泣いているんだ」
レンはできるだけ優しい声で尋ねようとした。拷問されたばかりで、その声はどこかしわがれている。
女は肩を震わせた。
彼女は周りを見渡す。レン以外には、誰もいない。
「……えっと……な、泣いてなんかいない、ですよ?」
「いや嘘だろ」
彼が即答すると、女はえへへ、と笑った。
その茶色の眼からは涙があふれている。笑っているのは口元だけだ。
「……こんなところに縛り付けられてるのに、あなたは元気そうなんですね」
「どこがそう見えるんだか。暗くて見えないかもしれないが、血塗れだぞ」
「え、本当?」
彼女は立ち上がり、男に一歩近づいた。そのまま、レンの肌を触り始める。
レンが「なんのつもりだ」と尋ねると、彼女はタメ口で言った。
「いや、本当に血塗れなのかなーって。意外と血、少ないね」
「……意外と血がかわくのは、早いからな」
「嘘つきー」
女はまた笑う。
涙がかわくのも、意外と早かった。
ひとしきり笑ったあと、女が低く小さな声で呟いた。
「……こんなに笑えたの、いつぶりだろ」
レンはその声色にぞっとした。彼女が下を向いたせいで、どんな顔をしているのかはわからない。
何かあったのか、と気が付けば口に出していた。
彼女は顔を上げ、「あ、聞こえてた?」と舌を出す。
「まあな。それで、何があったんだ?」
ボロボロの服を着た女は、しばらく黙りこんだのち、上目遣いにレンを見た。
「……少しくらい、愚痴ってもバチはあたらないよね……?」
「……まぁ、俺はどうせ、ここに拘束されてるしな」
「じゃあ、聞いてもらえる?」
レンが頷くと、彼女は大きく息を吸い込んだ。
「私、こう見えてもメイドみたいなこと……貴族の使用人やってるんだ。でも、私肌黒いし、あんまり素行も良くないから、貴族の人達から結構なことされて」
「結構なこと……」
レンは彼女を見た。
服の汚れと、顔中につけられた傷。それとさっき流していた涙を見れば、『結構なこと』の内容が頭に浮かぶようだった。
「仕事やめたいーって思うんだけど、私家族に仕送りしてるから、やめるわけにもいかないし? だからといって仕事はつらいし」
彼女はため息をつく。
「最近なんか、皿投げられた挙句、その掃除させられたこともあった。あ、素手でね」
女は男に手を近づけた。
痛々しく深い傷が、そこにはついている。
「むごいでしょー? 元々は誰にでもタメ口だったんだけど、それだと怒られるから、いつのまにか口調使い分けるようになっちゃってたりするし。無理に明るい雰囲気出さないといけないから、性格もおかしくなるし……」
彼女は自分の手を見つめて、言葉を区切った。
「話し出したらきりがないや。まぁ、愚痴っても何も変わらないんだけどさ。生き地獄だよねー」
レンは黙って、その話を聞くことしかできなかった。
優しい言葉をかけようと思ったが、油断すると途端に悪口雑言が溢れ出しそうになったのでやめた。
その程度で泣くな、気色悪い、とか。
俺の方がもっと悲惨な体験をしている、とか。
この体の本来の持ち主は、気性が荒いらしい。
それに、レン自身、なんて声を掛けたらよいかわからなかったのもある。
むしろ、その理由の方が多いとも思う。
「話を聞いてくれてありがとう、ちょっと楽になったよ」
「……なら、よかった」
眼を合わせずにそう言うことしか、彼にはできなかった。
「ところで、名前なんていうの?」
「覚えておく必要はない。どうせ、俺はここで死ぬから」
レンはわざと、単刀直入に言った。
彼女はばつが悪そうな顔をして、「ごめんね」。
罪人は何も言わない。
生き地獄、か。
女が去った空間で一人、レンは考えた。
自分は、たくさんの人間を殺してきた。そして、その自覚は日を追うごと、まるでとったあと光に晒すことで浮き出る写真のように、はっきりとしてきた。
断末魔が耳にこびりついている。何千人、何万人、数え切れない。
地獄とは、この不憫な女ではなく、自分のような者のためにあるのではないだろうか。
だったら自分は、いっそのことこのまま死んだ方がいいのではないだろうか。
この場所に転生した直後だったら、きっとこんな考えは抱かなかった。
けど、彼は疲れてしまっていた。
たくさんの人を殺したという漠然とした自責と、肉体的拷問から、早く逃れたかった。
そして、何よりも怖いのは、『殺してもしょうがない』と思っている自分がいる事だ。
この体の前の持ち主の記憶は凄惨だった。
母親は毎日別の男と行為に及び、父は酒に溺れてまるで子供を養おうとしない。家なんてもはや存在せず、路地が彼にとっての住処だった。
飢えは毎日のように襲ってくるし、物乞いだけでは飢えを満たせない。
そんな中で彼が生きていくには、やはり盗みしかなかったのだ。
やがて耐え切れなくなり、親を殺した。
でも、だからと言って生きていく道は開かれなかった。養ってくれる相手がいないことに、変わりはないのだから。
だから彼は、盗みを続けた。やがてそれはエスカレートし、より確実に盗める『殺人』という手法に至った。
それ以外に生きる道がないなら、殺しもしょうがないのではないか。
彼だって、はじめは、殺したくて殺したわけではないのだから。
レンは、そう感じたのだ。
ある日。
いつものように拷問に耐えていると、拷問の途中にも関わらず女が現れた。
女は、前見た時以上にボロボロだった。
服は破れ、体中から血が出ている。顔についているのは、返り血だろうか。
手に何か持っている。暗くて、なんなのかはよくわからない。
女は、拷問を施している男に縋り、叫んだ。
「助けて!」
男は拷問の手を止めた。
罪人は頭をもたげた。女の後ろから、大量の人が走ってくるのが見える。ブヨブヨに肥えた、金髪碧眼の男達だ。唾を飛ばしながら、女に手を伸ばしている。
「動くな貴様! この罪は重いぞ!」
「捕らえろ、捕らえろ!」
「使用人の分際で!」
顔が赤く、激高しているようだ。
なるほど、前に言っていた彼女が仕えている貴族たちから、女は逃げてきたのか。
きっと、今に捕らえられるだろう。
レンは、怖いくらい冷静だった。
『自分にはどうしようもない』と割り切ることで、人間は非情になれる。
「助けてください!」
女は返り血塗れの剣を携えた男に、助けを乞った。
いつも拷問をしている男は、縋る女の声を無視していた。
そのうち、女は奴らに捕まってしまった。
女は泣いて、いまだ拷問人に助けを求めている。拷問人は女を見もしない。
……このままだったら、女はどうなるだろう。
罪人は、考えた。
殺されるだろうな、と思った。
殺意というものを誰よりも知っている、彼だからこそわかった。
女を捕まえている男たちは、女に殺意を抱いている。
女は、あいつらに殺される。
何か一つのミスをしたせいで、殺される。
誰も、助ける者はいない。
……あるいは、自分ならどうだろう。
そんな考えがふと、レンの頭を過った。
この体の前の持ち主は、殺しのプロだ。
何度も何度も極限状態になったが、その度耐え抜いてきた。これ程度の男達、もはや敵ではない。
レンは首を振った。
今の自分は、ちょっと油断すると、口から悪口雑言が飛び出すような存在なのだ。
殺意の制御だってできない。
世に放たれたら、きっとこの体の前の持ち主に体を乗っ取られて、遅かれ早かれ人を殺す。それも、『自分が生きるため』という名目なのだから、誰にも止められない。
その時、貴族の叫ぶ声が聞こえた。
「罪人にパンを分け与えようなど! 重罪だ!」
レンは目を見開いた。
体が震えるのを感じる。
それでも、それでも、自分はここで死ぬべきだ。
レイは自分に言い聞かせて、必死に納得しようとした。
目の前の女も、死ぬかもしれない。
何の罪もない人間が一人、死ぬかもしれない。
でも、自分が脱走したら、もっと多くの人が死ぬ。
だから、今は──
「ここから、出してくれ」
口から血を垂らしながら、彼は囁くように言った。
彼の声は誰にも届いていないようで、反応するものはいない。
心の中で何度も、このまま死ぬべきだと思ってきたはずだった。
女の姿はその間にも遠ざかっていく。
「ここから出してくれ!」
今度は大声だった。
裂けるようなその声は、レンの声ではなかった。
それは、レイの悲痛な叫びだった。
時間が止まったような感覚。
──ああ、なるほど。
レンは唐突に、理解した。
生きるため、飢えを満たすためにたくさんの人を殺してきた。
だが、その奥底には、満たされない心があった。飢えていたのだ。
路地裏で、血に塗れて笑う少年の顔。
彼の視界が潤んでいることを、誰も知らなかっただろう。
彼は、きっと──
女の姿は、遠ざかる。
男は、涙を流していた。
「待ってくれ!」
手錠がガチャガチャと激しく音を発する。
すると突然、拷問人が罪人の顔を見た。
レンは、絶望を覚える。
また、拷問がはじまるのか。
視界の端、とうとう女の姿が消える。拷問人はまるでレンを黙らせるように、剣を掲げる。
そうだよな。
罪人風情が何を言おうと、聞き入れられるはずがないよな。
レンは、来るべき痛みに備えて目を瞑った。
しかし、いつもの痛みは襲ってこなかった。
代わりに、四肢が自由になった。
戸惑いながら、彼は目を開いた。
視界の中に、拷問人の広い背中。肩をすくめているようだった。
床には黒い剣と、ばらばらになった手錠が落ちている。
それだけ、十分だった。
レンはその剣を取り、走った。
自分の中でふつふつと煮えたぎっていた醜い『自分』の殺意を、はじめて肯定した。
手に握った血塗れの剣を、振るった。
プラスチック製玩具の如く、軽快に動く剣に、思わず笑いが漏れる。
断末魔が聞こえる。
怯え切った顔の女と、目が合った。
彼は血塗れの左手を伸ばした。
「掴まれ!」
「……」
女は黙って首を振る。迷っているようだ。
だから、彼は優しい声で言った。
「家族が、待ってるよ」
「……!」
女は泣き出した。
そして、差し出した左手は、握られた。
返り血塗れで女を抱え、夜の町へ駆け出すその様は。
まさしく凶悪殺人鬼、そのものだった。
***
ここは冒険者ギルド。
剣や盾、弓を携えた、ならず者たちの集いの場。今日も活気に満ち溢れたここでは、人々が活発に行き来している。
そんな中に、行く当てのない彼の二人は入っていった。
二人は、まっすぐ受付カウンターに向かった。
女の方が口を開いた。
「すいません、ギルドに、新規登録しにきました」
「二名ですね? 少々お待ちを──」
受付はそう言いながらメモを取るものを取り出し、「お名前は?」
女は口ごもり、男の顔に目を見る。
男は黙って受付を見ている。
受付は不思議そうに、二人の顔を見ている。
「エレナです」
やがて、自分の胸に手を当て女が言った。
しかし、男はまだ名乗らない。
「どうしました?」
「……レイ」
男は、静かに言った。
ギルドの喧騒が、嘘のように静まり返った。
そして、次の瞬間。
男はばつが悪そうに笑い、言い直した。
「すいません、言い間違えました。レイン、です」