第9話 セリーヌの追憶
その日、セリーヌ――私はいつものように騎士団の詰め所に顔を出した後、街の哨戒に向かった。
他の街では冒険者が時折荒事を起こすと聞いているが、この要塞都市ストーンヴェールの冒険者たちは異なっていた。彼らは街の治安維持に協力的だった。
その背後には、この街の冒険者を束ねる冒険者ギルドの統率力。
そして、地元のクランの勢力も強く、皆が一丸となってこの辺境の地、ストーンヴェールを守るという強い意志が感じられた。
しかし、哨戒中に門に到着すると、門の前で少年の嫌がる声が聞こえてきた。
その少年はストーンヴェールの門で検査官と揉めていた。
どうやら身分証を持っていないようだった。やりとりをちょっとだけ聞いてみると、検査官の態度に我慢ならず、私は彼らの間に割りこんだ。
ボロの服を身にまとっていたが、私には一目見た時点で難民ではないことが分かった。
やつれておらず、痩せこけていない。
肌の艶がとてもいいので、食事には事欠かないようだった。
奴隷のように虐げられた者の特有の眼差しもなく、その瞳は新たな地に対する好奇心できらきらと輝いているように見えた。
取り調べを進めると、案の定、少年の身体はとてもきれいなもので、なんの苦労も知らないような境遇で育ったのだろう。
とても素直な少年だ、と私は感じた。
世界のすべてが新鮮に見えて、新たな出会いに心躍る様子が、かつての私を思い起こさせる幻想を抱かせた。
――かつての私の住まいは、王都にある立派な侯爵家の屋敷だった。
美しい庭園に囲まれ、花々が咲き誇り、噴水が水しぶきを上げる贅沢な空間。大理石や高級な木材で飾られた屋敷自体も壮麗な建築で、そこで私は侯爵家の長女として育った。
教育と修練は侯爵家の子女としての義務であり、私は幼いころより教育を受けた。家庭教師による個別の指導で芸術や言語、礼儀正しい振る舞いなど、広範な分野を学んだ。
日々の生活は今にして思えばとても贅沢なものだった。
美味しい食事、高級な衣装、社交界での娯楽。
家族との絆も深く、両親と兄や弟と共に過ごすひとときが私にとって至福のひとときとなっていた。
侯爵である父は領地の管理に専念し、税金と公共サービスの充実を図っていた。
法の執行や社交、外交もまた侯爵の重要な役割であり、領地の軍事的責務も果たしていた。
父はとても立派な侯爵で、私もその名にふさわしい教育を受け、貴族の令嬢として育まれていた。
私は将来、王を補佐する貴族に嫁ぐことを期待されていた。そのために礼儀正しさと作法を身に着け、広範な教養を備えていた。
しかし、その日が訪れることはなかった。
ある日、父は実の弟――叔父に裏切られた。
かつて二人の間で政治的な対立が絶えなかったらしいが、あるとき当主である父に叔父は大々的に忠誠を示した。
家族の絆を民に示すことは領地の安定のために必要なことであり、また、王もそれを求めていた。
それ以来、父は弟に対する信頼を寄せはじめ、数年が経った。
私はまだ幼かったので、このときのことをあまり覚えていなかった。けれど、この後に起こったことは一生忘れられそうにない。
それは私が一〇歳になった頃だ。
急な視察が決まった父は手勢を率いて屋敷を出発した。
このころ領内の治安はとてもよくて油断していたのだろう。
いつもよりも少ない護衛を率いて父は視察に向かった。
その道中で父は盗賊の襲撃に遭い、殺されてしまった。屋敷もまた襲撃され、母や兄と弟も殺される中、私は少数の護衛に守られながら屋敷を脱出した。
しかし護衛も追手から私を逃がすために次第に殺されていき、私は身に着けていたドレスを売り払い、得た金で装備を購入すると、男装して南へと向かった。
初めて手にする剣は一〇歳の私にはとても重くて、父の死とともに訪れた新たな現実を象徴しているように思えた。道中で路銀もつき、物乞いをしながら苦難の旅を経て、私は遂にこのストーンヴェールに辿り着いた。
この地に足を踏み入れた瞬間、私はかつて父と一緒に訪れた視察の記憶がよみがえった。父は剣術が好きで、ストーンヴェールのような辺境の地に視察に来ると、身分を隠して何度も冒険者として活動していた。その時の興奮や父の笑顔が、今もなお私の心に残っている。
この地のギルド長は、かつての父の冒険者仲間だった。
ギルド長と父が肩を組みあって酒場で麦酒を飲んでいた光景は、今でも私の目に焼きついている。父にとってとても信頼できる相棒だったのだと思う。
その縁で、私は逃げ延びる旅の目的地をこの地に定め、ギルド長に庇護を求めた。
本来なら叔父のもとに身を寄せるべきだったし、そうしたかった。
しかし、私がこの地まで逃げた理由は、叔父の私兵による追手が迫っていたからだ。屋敷は叔父の私兵に襲撃された。表向きは、屋敷が盗賊の襲撃に遭ったところを撃退したことになっているらしいが、あの日、屋敷には盗賊らしき者は誰ひとりとして侵入してこなかった。
父が亡くなり、叔父が侯爵家の領地を引き継いだことで、叔父が暗躍していることは確実だった。父の死の裏には彼の影があるはずだ。
その日から私は復讐を胸に誓った。
当主の座を簒奪した叔父に向けて、私は剣を手に取ることを決意した。彼の身体に剣を突き立て、復讐の果てに正義を取り戻すために、私は生き残ったのだ。
それからは本来の名前を捨てて、セリーヌという名に変えて、剣の鍛錬に身を捧げた。
かつて父に褒められた絹のような手も、今は手のひらが皮をむけ、当時の名残りはない。しかし、それでも私は満足していた。過去の痕跡を消す代わりに手に入れた剣の腕前に誇りを感じていた。
しかし、時が経つにつれて、私は自分の限界を痛感するようになった。
身体は女性らしく肉づき、男に比べてあまりにひ弱だった。父やギルド長のような強さには到底及ばないことを自覚させられてしまう。
復讐の道は叶わないと悟り、現実に打ちのめされた私に、ギルド長は騎士団への入団を薦めてくれた。
騎士団は主に街の治安を守ることが主な任務で、肉体的な強さよりも規律を守る心が重要とされた。裏切りによって追いやられた私は、特に正義への渇望が強かったようだった。
思いがけないことに、騎士団の仕事は私に合っていた。
このままここで第二の人生を歩んでも良いようにさえ思えた。
そんな矢先に、私はアンリという名の少年に出会った。検査官の無体な行いを私は見過ごすことができずに、二人の間に割りこんだ。
「貴様が職務に忠実なことは分かった。しかしこの子は難民でも奴隷でもないだろう。私には分かる。物乞いの難民はこれほどまでに肌の状態は良くないし、奴隷のように目はくすんでいない」
気がつけば私は、無体とはいえ職務にただ忠実なだけの検査官を咎めていた。
物乞いの難民。
それはかつての私であり、この少年はあの頃の私と比べると、あまりにも様子がかけ離れていた。
だから少しだけ興味が湧いたのかもしれない。
「私とて、決まりを軽んじているわけではない。ただ場所を変えようと言うだけの話だ。ただ事情と体裁もある。取り調べ小屋で私が確認しよう。それなら良いな?」
私は直接、この少年の事情に触れたいと思った。
検査官はしぶしぶ私の言うことを聞いてくれた。
ギルド長の庇護下にある私。
私個人の強さはとても弱いものだ。
誰もが私に気を使うのは私の背後にいるギルド長を見てのものだろう。
このストーンヴェールでは私は新参者だ。
誰もが私が騎士団に入った経緯を知っている。
やれ、ギルド長の隠し子だ。
お忍びの貴族様。
没落貴族。
いろいろな憶測が飛び交っている。
おそらく、私の所作がこの辺境の地にある女性とはあまりにかけ離れていたために皆がそう口々にしている。
逃亡中の身の上なのであまり目立たないようにしなければならないが、こればかりは変えられそうにない。このふるまいを変えてしまえば、父や母から教わった思い出がなくなってしまいそうな気がした。
逃亡中に餓死して野犬に食い散らかされた少女の亡骸の傍に私の銀のロケットを置いてきたので、私はきっと王都では死んだことになっているだろうと思う。だからこそ私は、名前を変えこそすれ、それ以上、自分を偽らずにいられる。
取調べをするために小屋に移動し、私は彼の身体を見た。
彼の体を検分したが見事に傷ひとつない綺麗な体だった。この世の穢れをまるで知らない綺麗な瞳をしていた。
彼はこれから冒険者として苦難の道を進むのだろう。
かつての私が冒険者として強くなって夢を果たそうとしたように彼もまたこの街で生きていくためには、冒険者になるよりほかはない。
願わくばこの瞳が澱むことのないように私は願った。
現実に打ちひしがれた私のようにならないように、と。
次に会った時も彼は楽しそうに話しかけてきた。
初の依頼達成と迷宮屋の話しだ。
そのときに私は驚いてしまった。
彼はすでに戦闘経験があった。
私が彼と同じ年齢くらいのときは物乞いをしながら、魔物から逃げまどっていた時期だ。
私は言葉を失った。
彼は私と違うのかもしれないと思った。
しかし、私は自分よりも六つも年下の彼に情けないところを見せたくなくて、つい強がって口にしてしまった。
「理由は違えど強くなりたい気持ちは私と一緒だな」
「私は自身の正義を貫くために強くならなければならない」
と。
その言葉を口にしてから私は気づかされた。
腹の底にまだ燃え滓のようにかつての復讐心が残っていた。
「強くなりたい気持ちに逸らない人はいないでしょう? セリーヌさんも同じ気持ちじゃないんですか?」
彼の言葉に気持ちが再燃した。
私はまだ諦めきれない。
そして彼は、私のことを逞しく生きている人、と言った。
それはまるで全てを知っているかのような奇妙な表情で、しかしそれゆえに、彼の前では弱音を見せられないと思った。まだ私は戦える、と鼓舞されているような気がした。
貴族かもしれないと噂されていた私は、これまで誰ともパーティを組んでもらえなかったが、翌日になって、初めてパーティを結成した。
たったそれだけのことだったが、私にとってはこれもまた新たな経験だ。
新しいことを体験するたびに、昨日とは違う自分になれる気がした。
このまま日々変わっていければ、やがては復讐に辿り着けるかもしれない、と諦めかけていた気持ちに再び力が入った。
とはいえ、彼は魔物との戦闘経験があるとはいえ、ストーンヴェールの『魔の森』での戦闘は初めてだろう。
私がリードしてやらなければいけない。
そう思いながら、私は彼とともに『魔の森』に足を踏みいれた。
しかし現実はとかく奇妙なものだった。
かつて私が屋敷の庭を駆け回って遊んでいたように、このアンリという名の少年は『魔の森』の中をはしゃぐように走り回っていた。少し目を離したすきにいなくなり、帰ってきたかと思うとその手には討伐した証明が握られていた。
初めこそ討伐証明のことを何も知らず、私が面倒を見てやらなければと思ったが、その考えは誤りだった。
一陣の風のように森の中を吹き抜け、たったの一撃で魔物を討伐する。そして、この年で神聖魔法を覚えていることも驚きだ。
まるで疲れを知らない無尽蔵のスタミナで、彼はひたすら魔物を倒していく。
その証明を渡されるたびに私は独り残される感覚になった。
探知速度も優れていて職持ち。
森に潜むトレントも的確に見抜き、私にその所在を教えてくれる。
しかし、私が剣を構えたときにはすでに戦闘は終わっている。
周りの冒険者たちもこの子供の異様さに悲鳴を上げていた。
こんなことはストーンヴェール史上でも初めてのことに違いない。それは日間の討伐数の記録を大幅に上回ったことからも明らかだった。
彼は一人で三百もの魔物を討伐した。
ギルドのカウンターに討伐部位を置いた時、改めてその異様さを目の当たりにした。受付のリリアンも驚きのあまり、魚のように口をぱくぱくとさせていた。
とても目の前の光景を現実のものとして受け入れられなかった。
ギルドの受付で彼が何かを口にしていたが、私は上の空だった。
彼がいなくなってから、ようやく私の頭も現実を受け入れ始める。
彼は子供であるというのにすでに熟練した冒険者並みの強さがあった。
それは才能という言葉だけで片付けて良いのか分からないほどに、とても異質なことのように思えた。
彼はひょっとしたら強くなるために必要なことを本能的に知っているのかもしれない。
ギルドに独り残された私の心に強さへの渇望が芽吹く。
彼と行動を共にすることで、強さの一端を理解できるかもしれない。今よりももっと強くなれるかもしれない、と。
諦めかけていた復讐という夢が、再び光を帯びたように私の視界は開けた気がした。
幸いにも明日も非番だ。
とりあえず明日は良い防具を見繕ってやろう、と私は思った。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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