アナスタシアの回想①
アナスタシアは幼い頃、父から勇者の物語を聞かされた。
それは寝物語であり御伽噺。
その物語は勇者の冒険譚で、彼らが仲間たちとともに魔王を討伐するという叙情詩的な内容だった。物語には神秘的な場所や謎めいた力を持つアイテム、そして仲間たちとの絆が綴られ、幼いアナスタシアはその冒険譚に夢中になった。
勇者のパーティは様々なキャラクターで構成され、それぞれが特殊な力や技を持っていた。仲間同士の連携と協力によって困難な試練に立ち向かいながら成長していく姿勢が父の口から物語として紡がれていく。
その物語は、魔王との壮絶な戦いの末に、最終的には力を合わせた勇者たちが魔王を打倒するという結末だった。しかし、その後にはさらなる冒険が続き、神秘的な旅の日々が続くと締めくくられた。
この影響によって、アナスタシアの心に冒険と勇気の種を植えることとなり、彼女は将来自らが勇者となることを夢見るようになっていった。
――いいえ。違うわね。夢見ていたんじゃない。どうしてかは分からないけれど、このときのわたしは、わたしこそが勇者であり、勇者として旅をするのだと本気で思っていた。
ゆうしゃアナスタシアの誕生である。
今では懐かしい。
思わず笑みがこぼれる。
『魔の森』で過ごす初日の野営。
日も暮れてきたので、天幕を張り、火を焚いた。皆で慎重に周囲を見張って魔物からの襲撃に備えつつ、焚火の近くに座って一日の疲れを感じながらも、わたしはわずかに興奮していた。
これが夢にまで見た冒険だ。
焚火の明かりの下で、今日の一日の出来事やこれからの方針を話し合う。夜が深まるにつれて、森の中からは奇妙な音が鳴り響き、彼女たちは警戒心を強めた。
ひょっとしたらアンリなら、夜の暗闇と魔物を警戒しなくてもよくなる方法を知っているかもしれない。ありえないと思いつつも、わたしはそんなことを思った。
村から離れたことによって、わたしの胸中には名残惜しさと決別の感情が広がっていた。
村での思い出は、アナスタシアにとって冒険への出発点であり、それゆえに過去を振り返ることでこれから続く未知の世界へと進んでいく決意を彼女は固めていく。
――ゆうしゃとなったからには、村を守らなければならない。
当時のわたし――ゆうしゃアナスタシアは物語に酔っていた。物語の中での冒険や試練、仲間たちとの絆に夢中になり、村を守るという責任が彼女をワクワクさせていた。
そのとき、村で一つの噂を耳にした。どうやらこの村には悪魔と呼ばれている子供がいるらしい。村の平和に対する脅威であり、わたしはゆうしゃとしてその使命に応える覚悟を幼いながらも抱いた。悪魔を倒す、と決意し、神父の娘――リリアを伴って、悪魔の家に乗り込んだ。
自慢の木剣を持って、悪魔と戦った。
しかしその悪魔には不思議と攻撃が当たらなかった。
剣術の稽古で父である――バハバルとは打ち合うことができるのに、この悪魔にはまるで攻撃があたらなかった。目の前の悪魔はただの棒立ちである。それでも攻撃がかすりもしない。とても信じられなかった。まるで神様から特別な加護が与えられているんじゃないかと思うくらい、この悪魔――アンリは見えない何かの意思によって守られているようだった。
最後に、やってはいけないと思いつつも、ムキになって衝動的に後頭部を木剣で殴ってしまった。しかし、アンリは痛がる素振りも見せずにケロッとしていた。
こいつはどこかおかしい。
わたしたちとは違って、特別な存在だと思った。
わたしはこのとき、こいつこそが勇者になるのだと思ってしまった。
あるとき、川辺で出会ったときもそうだった。
本当に唐突に、アンリは川辺で姿を現した。
まるで別の世界からこの世界に瞬間的に現れたように見えて、驚いた。
こいつはやっぱり何か違う、と再び確信した。させられた。このアンリという子は、何か大きな宿命を背負わされているのだと思わずにはいれなかった。だって、わたしたちとはあまりに違う。
やっぱり、こいつこそが勇者になるのだ。
そう思うと、今、みんなとごっこ遊びをしていたことが急に恥ずかしくなった。本物の勇者の前で、わたしは勇者を演じている。いたたまれなさが、口からついて出た。わたしはこいつのことをまたしても、あくまと呼んでしまった。
この少し後にも、わたしはアンリと出会った。
リリアが教会にお祈りにいくというから、興味津々でわたしは彼女に同行した。教会の扉を静かに開くと、中では聖なる雰囲気が漂っている気がした。彼女のお祈りを見守っていると、また教会の扉が開いた。入ってきたのはアンリだった。
特にアンリは何をするわけでもなく、どこかこちらの様子を伺っているだけのように見えた。しかし、普段はひょうひょうとしているくせに、不思議と、今にも泣きそうな顔をしているように、わたしの目に映った。
悪魔、ではないにしろ、なにかよくないものでも憑いているかのようだった。だから、この場を立ち去ろうとするアンリに向かって、咄嗟にわたしはいつもの口調で、戦いを宣言した。いつものようにわたしが攻撃をしかけたら、ひょっとしたらアンリの気が紛れていつもの調子に戻るかもしれないと思った。
しかし、このときのわたしは木剣を持っていなかった。
これでは戦えない。
どうしようかと迷ったが、聖水のことを思い出した。戦えなくとも、聖水を使うことで憑き物が落ちるかもしれない。聖水は悪い気や邪気を祓うことができる。
だからわたしは瓶の蓋をあけて、聖水をアンリにかけた。すると、アンリの表情が少し和らいだ気がした。効果がありそう。そう確信したわたしは、教会に保管されている聖水を片っ端からアンリにかけた。多くの聖水をわたしが使う度に、アンリは安心したように頬を緩ませた。
わたしはその笑みをもっと見たくて、教会の聖水を全て使い切った。
それから、いつの間にかアンリは剣術を習い始めた。
出会ったころからアンリは強くて、必要ないのにと思いながらも、アンリにはアンリの考えがあるのだろうと思うことにした。毎日のようにアンリと剣を打ち合ううちに、驚いたことにアンリの上達に引っ張られるように私自身も強くなっていくのを感じた。
アンリに導かれるように私は強くなっていった。この先、私がどこまで強くなれるかは分からないけれど、アンリの真似をしていけば、いつか勇者に辿り着けるかもしれない。わたしの中では、アンリこそが勇者だと決まっていたが、それでも夢は容易に捨てきれなかった。
しかし、ゴブリンとの初陣でわたしは大きく挫折した。初めて見る異形の姿に恐怖した。初陣の前に父――バハバルから念入りに魔物の生態や脅威を聞かされていたが、わたしはどこか真剣に受け止めていなかったからかもしれない。
あの特別な存在であるアンリと一緒に稽古をしている内に、わたしはどこか調子にのっていた。アンリと過ごしているうちに、わたしもアンリのように特別な存在になった気でいたのだ。根拠もなくわたしならやれると思ってしまっていた。
だから現実にゴブリンをはじめて見た時に、実戦は稽古と違ってかくも恐ろしいものなんだと感じてしまった。アンリに助けられて、またしても、わたしはアンリに遠く及ばないことを知ってしまった。
それからも一緒に稽古をこなしたが、わたしは初陣での失態からいつも隠れてしまいたいと思うほど恥ずかしい日々を過ごした。稽古をしたところで、ゴブリンを目の前にしたら、きちんと戦えるか分からない。アンリはわたしのことを十分に強いと言ってくれるが、はたしてそれはわたしを励ますために言ってくれているのか、本当のことなのか分からなかった。
いくらアンリが特別な存在だとしても、さすがの彼にも、わたしがゴブリンに確実に勝てるかなんて分からないだろう。それなのに彼は、わたしならやれる、といつも言ってくるのだ。
そしてそんな中で、再びゴブリンの襲撃にあった。
前回よりも数が多かった。
その中で、アンリは驚くべき行動にでた。
今まさに頭を殴打されそうになっているのに、全く動かないのだ。わたしを見つめて剣を差し出したまま、ゴブリンには目もくれない。殴られるその瞬間においても、まるでわたしならこの状況でもなんとかできると信じて疑わない目をしてわたしを見つめてくる。
戦える、戦えない。
怖い、恐くない。そんな状況ではなかった。
ここで剣をとって振るわなければ、アンリが死んでしまう。
――わたしの勇者が死んでしまう。
そのことの恐怖がわたしを突き動かした。
アンリの手から剣をとって、即座にゴブリンを斬り伏せる。
一歩踏み出して、やってみればとても簡単だった。
今にして思えば、たとえゴブリンに後頭部を強打されたところでアンリはケロッとしていたに違いないが、それでもわたしは、最後までわたしを信じてくれたアンリに感謝した。
アンリが信じてくれたわたしは戦える、とその姿を彼に見せたくて、その場にいるゴブリンと果敢に戦ったのだった。
(本当にとても懐かしいなあ……)
『魔の森』での初日の夜がふけていく。
この森を抜けるためにどれくらいの日数がかかるか分からない。
そして、抜けた先になにが待ち構えているのか。
不安と興奮の中、わたしは天幕に入って、眠りについた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
感想、評価、ブクマを付けてくださっている方々、本当にありがとうございます。
次話もアナスタシアの回想の続きです。
その後に、アンリの二章が始まります。
引き続き、よろしくお願いします。




