マリア4
巡礼軍は、エルサレムにたどり着き、散々略奪を繰り返したことで満足したのか、エルサレム攻略後は故郷へ帰り始めた。一部の騎士や帰るあてのない人々はシリアやパレスチナの沿岸にエデッサ伯国、アンティオキア公国、エルサレム王国、トリポリ伯国といった国を興した。
『巡礼者の護衛のための国』
なんて彼らは言っていたけれど、単に略奪に味をしめただけの人も多かった。
一方、巡礼軍が成功するなんて思っていなかったカトリックの国々は、聖地エルサレムの奪還ともたらされた略奪品に熱狂して。
『聖地を守る騎士達を助けよう!』
と、一回目の巡礼軍に参加しなかった領主や人々を、欲に目の眩んだ人々が焚き付けた。史実だと、ローマ教会も焚き付けたはずなんだけれど。今世の世界では、ローマ教会はこの動きを黙認しただけだった。
私達マリア騎士団やヴェネチア、ジェノヴァの商人を頼らなかった多くの『臆病者の巡礼軍』は、雑にイスラム勢力に蹴散らされ、ほとんど『巡礼軍国家』までたどり着かなかった。
マリア騎士団で送った一〇〇〇人のうち、六〇〇人はエルサレムへ巡礼して満足して帰っていったし。ヴェネチアやジェノヴァの商人を頼った面々もほとんど巡礼して帰ったので、エルサレムに向かう前から『臆病者の巡礼軍』と呼ばれた彼ら彼女らは、名前通りになってしまった訳だ。
私達マリア騎士団は、ローマとキプロスに拠点を置いて、ローマ教会の専売となった『蜂蜜』や『生理用品』の利益の半分を活動資金として受け取りつつ、巡礼軍国家との交易を続けた。
養蜂は私の前世知識の近代養蜂を教えたから。生理用品は存在していなくて困った私が自作したものを教えたから。その利益を貰えるようになった訳だ。
この『教会に献上した新技術』は、ローマ教会による一種の『特許制度』として機能していて。巡礼軍国家からの利益と合わせて、ローマ教会は多額の資金を集めることに成功していた。
一一一〇年には、ノルウェーからの巡礼軍も、エルサレムにやって来た。やっぱり補給が略奪頼りだった彼らに、ローマで食糧を集めて売って感激されたけれど、私の冷えきった心は何も感じなかった。
マリア騎士団の商売は血塗られている。けれど、私達が商売をしないとシリアの略奪はもっと酷くなる。マリア騎士団の面々と私は、苦悩しつつ交易を続けた。
『巡礼軍への献身的な貢献を称えて』
と、一一一五年には、イエスが被った荊の冠……、の元になった荊の木から挿し木した苗木、と言われるものを、私達マリア騎士団は巡礼軍国家とローマ教会の連名で、エルサレム王国から送られてきた。
東ローマ帝国の頼みとローマ教会のお願いから、私達はこの荊の苗木を、キプロスの港町、ファマグスタの聖ニコラ教会に植え、挿し木で増やした苗をローマに送った。
それがきっかけとなって。ファマグスタの町は、手狭になったキレニア港から移ってきたマリア騎士団の一種の城下町に変わっていった。
三〇歳もとうに過ぎた一一二五年。私は、交易艦隊にくっついてフラフラする生活をやめて。聖ニコラ教会に居を移してカキの養殖の研究をしたり、祈祷したり、荊の木を見に来る巡礼者の案内をしたりして過ごすようになった。
「おばあちゃーん!」
他の教会では、孤児院や救貧院として併設される施設を、ここマリア教会では、名前だけ『救貧院』として。実態は職業訓練施設として機能させていた。
「どうしたのソフィア?」
「えっとね、わたし、そーせーき? おぼえたの!」
……まあ、カトリック教会としてやることはやっているけれど。
「頑張ったねソフィア!」
私はしゃがんで視線を合わせて、ソフィアの黒い髪をワシャワシャと撫でて尋ねる。
「じゃあ、創世記に書かれていることの意味は考えたかな?」
「いみ?」
「うん、意味」
首を傾げるソフィアに、私は語る。
「聖書にはね、神の愛が書かれているの。書かれていること全てに意味があって、どれも神の愛で満ちているのよ」
キョトンとしたソフィアに、私は微笑んで言う。
「難しかったかな?」
「なにいったのかわかんないよー」
「フフフ。『神は私達を愛している』と覚えておけば大丈夫よ。さ、そろそろ果樹園のお手伝いの時間じゃないかなー?」
「そうだった! いってきまーす!」
「はい、行ってらっしゃい」
手を振って、走っていくソフィアを見送る。
(嘘つきが)
私は自分を責める。
何が『神は私達を愛している』だ。『愛されたい』の間違いで、『許されたい』の勘違いのくせに。
この救貧院だって、巡礼軍から続く血塗られた手をそそぐためだけの施設のくせに。自己満足の施設のくせに。
その自己満足に付き合わされるソフィア達が哀れだ。
「ふう」
開け放たれた窓の外から見下ろした港では、今日もマリア騎士団の船が補給に立ち寄っていたり、養殖場では障害を持った人達が働いたりしている。
彼らはあんなに一生懸命なのに。
私は、どこで間違えたのだろうか?
苦悩する日々を、私は死ぬまで送り続けた。
***
騎士マリア。
一〇九五年、五歳にして『民衆十字軍』の失敗と『エルサレムに行くように』という二つの『啓示』を受ける。
その一年後、『啓示』の通りに民衆十字軍が失敗したことから、ローマ教会に認められ。『熾天使への巡礼騎士修道会』通称『マリア騎士団』の騎士団長として第一回十字軍に従軍する。
第一回十字軍のまとめとなる、エルサレム包囲戦に参加した以外は、ひたすら物資の補給に携わっていた。そこで多額の利益を上げたと、現代では批判を浴びることも多いが。食料不足のため人肉食が蔓延していた第一回十字軍で、有料とはいえ食料を運び続けた功績は大きい。
実際、その功績の大きさから、一一一五年に、彼女とマリア騎士団は、聖遺物『荊の木』を与えられている。
第一回十字軍終了後は、十字軍国家との交易を続け、洋上からエルサレムに向かう巡礼者の足としてよく働いた。
一一二五年から、ファマグスタ港のマリア教会に定住するようになる。
そこで彼女は、牡蠣の養殖の研究を行いつつ、救貧院の講師として勤務していたようである。
マリア教会の救貧院は、当時では珍しい、今でいうところの職業訓練施設として機能していたことが、資料から分かっている。
一一四五年四月八日。世話をしていたソフィアに、『今日の天気はどうかしら?』と尋ねた後、ソフィアが窓の外を見て、答えるまでの一瞬で息をひき取る。
後にソフィアは、二代目マリア騎士団団長となる。
彼女の死後四〇年以上経った一一九一年、彼女はローマ教会・正教会双方から聖人認定される。この年マリア騎士団は、東ローマ帝国にて反乱を起こした皇族イサキオス・コムネノスからキプロス島を『奪還』しており。
彼女の聖人認定は、キプロス島を実効支配していた(実態は警備に当たっていただけ)マリア騎士団を、ローマ教会と東ローマ教会で取り合う政治的駆け引きの下行われたものだった。その混乱に目を付けた、アイユーブ朝の王サラーフ・アッディーンが彼女を『イマーム』認定したことで、キプロス島を巡る政治的駆け引きは更に混乱することとなる。
しかしマリア騎士団は、創設者マリアがローマ教会・正教会・スンナ派の聖人であるという立場を巧妙に利用し。領土は狭いながらも、独自で強固な立ち位置を確立することに成功した。
彼女の人柄は非常に慈悲深いもので。十字軍の行った、カトリックだけでなく、異端や異教徒に対する略奪にも心を痛めていたと言われており。それまでも熱心だった祈祷も、エルサレム包囲戦後はその熱心さが増した、と伝えられている。
『熱心的過ぎて、自罰的にも感じられた』と彼女の初期の部下の一人だった神父ピエトロは述べている。
彼女はエルサレムにて二度目の『啓示』を受けた、と言われるが、資料が不足していてよく分かっていない。