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脳の異常・・・彼は記憶を失っていた。
全てではなく、一部。
彼の担当医によると今までの記憶が所々抜け落ちているらしい。
彼は・・・陸は、私を憶えているだろうか・・・?
できれば・・・忘れていて欲しい。
静かに寝息を立てて眠る陸の寝顔はあの頃と変わっていない。
10年前、私と陸が付き合っていた頃と・・・。
高校2年生の冬、私は陸から告白をされ、付き合い始めた。
私も当時、陸の事が好きだった。
だから告白された時はものすごく嬉しかった。
そして・・・
高校を卒業する春。
私は自分の体の異変に気付き、一人で病院へ行ってみた。
結果は・・・
やはり、思ったとおりだった・・・。
妊娠5週目・・・。
都内の看護学校へ進学する予定だった私は目の前が真っ暗になった。
そして、陸も都内の大学へ進学することが決まっていた。
言えない・・・、陸に言えないよ・・・。
言えばきっと陸の人生を狂わせてしまう・・・。
だけど・・・私は子供を諦めたくはなかった。
陸の子供だったから・・・。
私は一人で産む決心をし、両親に相談した。
もちろん、陸の名前は出さずに。
猛反対の中、どうしても産みたいという私の決心の固さに負け、
両親は最善の方法を考えてくれた。
結局、東京を離れたいと言った私を福岡の親戚の家に預けてくれる事になった。
そして・・・卒業式の後、私は誰にも告げずに福岡へ行った。
友達にも・・・陸にも何も言わずに・・・。
だけど・・・10年後の今。
陸が私の目の前にいる。
私はもう一度、陸の寝顔を見て病室を出た。
翌日、朝。
陸の病室に行くと彼はすでに目を覚まし、体を起こしていた。
「・・・おはようございます。」
私は恐る恐る声をかけた。
陸は私の声に反応し、顔を向けた。
「おはようございます。」
だけど私の顔を見ても顔色一つ変えなかった。
気付いていない・・・?
私は陸に気付かれなかった事にホッとし、
「今日から近藤さんの担当になった宇田川です。」
と自己紹介した。
「宇田川さん・・・?」
陸は少しだけ怪訝な顔をした。
・・・私の名前・・・憶えてるのかな?
「・・・どうか・・・しました・・・?」
「あ・・・いえ、すいません・・・どこかで聞いた名前だな
・・・と思って・・・。」
陸はやはり私の名前を微かに憶えていたみたいだ。
「どこにでもある名前ですし、そんなに深く考えないで下さい。」
私は平静を装った。
「ん・・・でも・・・絶対どこかで聞いた事あるんだ。」
そう言って陸は眉間に皺を寄せた。
「あ・・・、無理して思い出そうとしないでください。」
「・・・はい。」
そう返事をしても陸はまだ考えているようだった。
「・・・こ、近藤さん、怪我の方はだいぶ良くなったみたいですし、
後で気分転換に中庭に出てみたらいかがですか?」
ちょっと無理矢理話題転換。
「・・・そうですね・・・今日は天気もいいみたいですし。」
陸は少しだけ笑って窓の外に視線を移した。
「後で連れて行ってもらえますか?」
え・・・。
すぐには答えられなかった。
他の患者さんだったらすぐ「はい。」と言えるのに・・・。
「あ・・・忙しいですよね?、患者は俺だけじゃないのに・・・
ごめんなさい・・・。」
返事を迷っている私を見て、陸は後悔したように言った。
「あ、いえ・・・そんな事ないですよ?大丈夫です。」
慌ててそう言った私に陸は「本当ですか?」と嬉しそうに言った。
「はい、何時くらいがいいですか?」
「んー、2時くらいかな。」
「わかりました。」
私は話題転換した事をちょっと後悔した。
午後2時。
約束通り、私は陸の病室に迎えに行った。
まだそんなに長い時間歩く事ができない陸を車椅子に乗せ、
中庭に連れて行くと陸は私の顔を見てニコッと笑った。
「外に連れてきてもらって正解。
ずっと病室にいたら気分が滅入ってくるから。」
嬉しそうに話す陸はまるで初めてデートした時みたいだった。
私と陸の初デートは高2の冬。
クリスマスの少し前だった。
付き合うようになってからは学校の帰りもずっと一緒だったけど、
まともにちゃんと待ち合わせをしてどこかへ出掛けるのは
それが初めてだった。
「宇田川さんて結婚してるの?」
初デートの回想中、陸からの質問で私は現実へと引き戻された。
「あ、いえ、独身ですよ。」
「えー、こんな可愛い人が?」
「近藤さん、お上手ですね?」
私はクスッと笑ったフリをしながらも心の中では少しドキリとしていた。
だって・・・
あの頃も陸はよく“可愛いよ”って言ってくれていたから。
「いや、ホントにそう思ってるって。」
「そんな事言って、誰にでも言ってるでしょ?」
少し意地悪な言い方をしてみる。
ホントは陸が誰にでもそんな事言う人じゃないのがわかっているから・・・。
「そんな事ないですよ。」
笑っているけど陸の目は真剣だった。
・・・うん・・・わかってるよ・・・。
「・・・宇田川さんてさ・・・」
「はい?」
「いくつ?」
「何がですか?」
一応、とぼけてみる。
「歳。」
やっぱりこれが聞きたかったんだ。
「ものすごいストレートに聞きますね?」
「じゃあ、遠回しに聞いたら素直に教えてくれるの?」
「いえ・・・それはー・・・。」
「なら、ストレートに聞いたほうがいいでしょ?」
「それはそうですけど・・・」
そーゆー言い方も10年前と変わらないんだね・・・。
「・・・内緒デス。」
素直に答えてしまうと陸が私の事を思い出してしまうような気がした。
「見た目は24,5歳に見えるけどなー・・・?」
少し探るように陸は私の顔を見上げた。
「その手には乗りませんよ?」
プイッと素早く視線を逸らす。
動揺してるのがバレる前に・・・。
「じゃあさ・・・下の名前、教えてよ?」
「・・・。」
陸・・・何か気付き始めてるの・・・?
「そんなに私に興味あります?」
「・・・ん、興味があるっていうか・・・」
陸は口元に少し手を当てた。
「今朝、初めて会った時からずっと気になってるんだ・・・
それで・・・ずっと考えてたんだけど・・・
思い出せなくて・・・でも、絶対どこかで会ってる様な・・・。」
気付き始めてる・・・。
「ダ、ダメですよ・・・そんなに考え込んじゃ・・・。」
私が看護師という立場じゃなかったらよかったのに・・・。
そうすれば何も考えずに嘘がつける。
だけど・・・私がここで「あなたと会ったのは今日が初めてです。」
と言ってしまえば、陸の記憶は余計に混乱してしまうだろう・・・。
「うん・・・わかってるんだけど・・・。」
陸は視線を落とし、それでもまだ何か思い出そうとしているみたいだった。
「・・・そろそろ、病室に戻りましょうか。」
私は俯いたままの陸の車椅子を押し、病室に戻った。




