95.子爵閣下は宰相からの手紙に頭を抱える
執務机に置いた封筒を前に、ニールはため息をつく。
前にも似たようなことがあったな、と思いつつも、前回の方がまだ小さい悩みだったな、と重ねてため息をついた。
「ベルモント」
「はい、旦那様」
「お前は会ったのか? この人物に」
「はい。お嬢様と二人きりにするわけには参りませんので」
「で、どんな感じだ?」
「そうですね。王国騎士団の通信兵という話でしたが、兵士にしてはすこし痩せすぎでしょうか。事務官と言われても納得できます」
「そうだろうな。……通信兵、か」
ニールは封筒を指先で弄ぶ。
クリス・ディード。
宰相閣下の肝いりで北の砦に派遣されてきたのは、兵士などではなかった。
ウィスカ国王にいる数少ない宮廷魔術師の一人で、遠方との通信を得意とする銀二位の魔術師。対となる魔術師を王宮に配置しておけば、我が国程度の広さならさほど時間差なく通信を受け取れるという。
王宮に残るのはドリー・マーシュという魔術師だという。
今回はひとまず実験のための派遣だということだった。期間は一か月。結果を見て延長するかどうかを決める、と手紙にはあった。
もちろん、眉唾物だと思った。
この国はファティスヴァールと休戦中だからなのか、魔術師が少ない。
魔術を学ぶための塔はファティスヴァールの王城にほど近いところにあると言う。王や王国の意向を完全に無視することはできないのだろう。
自国と戦争中である我が国に、戦力ともなる魔術師を配置しないのも、そういう理由からだと言われている。
だから、魔術師と言われてもいまいちピンとこない。何しろ、そういった理由で魔術自体が身近にないのだ。魔法を使える者自体がほとんどいない。
魔具と言われるものは見聞きしたことがある。他国から持ち込まれるものは時折あるらしい。我が領の市や収穫祭でも見かけるが、呪い程度のものだとニールも思っていた。
我が国の魔法に対する認識など、その程度がせいぜいなのだ。
だというのに、我が領に魔術師が配備されるという。
おそらく、北の動向を見据えたものだろう。ダンに聞いたが、やはり同じ理解だった。
宰相からの手紙には、ベリーナ女王とその娘の話も書かれていた。
女王がファティスヴァールの王の側室であることは周知の事実だ。二人の娘のうち女王の座を継がない娘が北にいることも、王太子殿下の妃として名乗りを上げていることも書いてあった。
長い休戦状態が破られるかもしれない。それが、宰相の――ひいては国王陛下のお考えなのだ。
我々も、覚悟を決めるときなのだろう。
「ベルモント」
傍らに立つ家令を呼ぶと、年相応に刻まれた皺が幾分か伸びたように見えた。
万が一の場合には、彼には娘たちの守り手になってもらわなければならない。領主たる我々はともかく、まだ若い娘や侍女たちは巻き込まれるべきではないのだ。
「これに目を通しておいてくれ」
「かしこまりました」
手紙を手渡すと、ベルモントは素早く中身に視線を走らせた。
「このことは、お嬢様には」
ニールは首を横に振った。
「機密を共有するのは少ない方がいい。私と妻、お前とダン。それから宰相夫人。妻には私から話す」
「かしこまりました」
封筒に戻した手紙を家令から受け取ると、鍵のかかる引き出しにしまい込む。
頭の痛い話ではあれど、放置してよい話ではない。
秋には王国からの大門視察団が来る。フェリス王女殿下も臨席する予定とあった。他からの人の流入が最も多く、最も警戒すべき時期の来訪となる。
警備体制は練り直す必要があるだろう。これもダンと相談しなくてはならない。
ユーマに祭りの準備を手伝わせているが、そのおかげで多少は時間に余裕ができる。
「忙しくなるな……」
「さようでございますな」
ベルモントはいつもの口調で応じる。嫌はない。
それにしても……北の姫が我が国に向かっているという話と、その姫が実は王太子殿下の婚約者、という話。我が領ではまだ耳にしないが、時間の問題かもしれない。
どちらも……ユーマにだけは耳に入れたくない。
あの子がこれ以上傷ついた顔をするのを、見たくはないのだ。
「今後、王都への連絡はクリス・ディードに頼んでくれ」
「承知いたしました。お嬢様のお手紙もそう致しますか?」
今まで片道十日かかっていた手紙が、三日もすれば返事さえ届くかもしれないのだ。事情を説明せずに返信を渡すわけにはいかなくなる。
「そうだな……適当にごまかしてくれ」
「ごまかされてくれますでしょうか」
「……さあな」
我が娘は我が子ながら観察眼が鋭い。そういったところも気に入られた一因だったのだろう。
娘の平穏な日常を願いながら、ニールはもう一つ深いため息をついた。




