8.子爵令嬢は王都を出る
「兄様」
食堂へ降りると、すでに兄上は席についていた。白いシャツに皮の乗馬用ズボン。久しぶりに騎士姿以外の兄を見た気がするわ。
王宮で会うときはたいてい騎士服のままだったし、休みなどに呼び出されたことは一度もなかった。いつも――王太子殿下の後ろに控えた兄上の姿ばかり見てきたのだといまさらながらに気が付いた。
「どうした。座らないか」
「え、ええ」
ずいぶん不躾に眺めていたみたい。声をかけられるまで気が付かなかった。
慌てて向かいの席に腰を下ろす。
昨夜、兄上が『いつでも出立できるように』と言っていたのを誰かが聞き取っていたのだろう。こんな中途半端な時間だというのに、食べやすくかつお腹のもちのよさそうなものが揃えられている。
兄上がいつ戻るかわからなかったのに、きちんと要望通りのものを準備するあたり、さすがよね。
差配したのは傍に控える家令のリュイだろう。
厨房の者たちやそのほかの使用人たちもいつ兄上が帰ってきてもよいように寝ずに準備をしていたのだろう。ぐるりと食堂内を見れば、みな一様に眠そうな顔をしている。
申し訳ないとリュイをちらりと見ると、リュイは疲れた様子を微塵も見せずにほんのりと微笑を返してきた。
「リューイ」
食事が終わり、立ち上がった兄上がリュイを呼んだ。あれ、リュイの名前って、リューイなの? 六年前からリュイだと思っていたけれど……。
「俺とユーマはこのまま出る。父上と母上にはよろしく伝えておいてくれ」
「かしこまりました。旦那様と奥方様は今日お戻りになるんでしょうか」
「わからん。……気になるなら王宮へ使いを出してくれ」
「承知しました」
「セリア」
「はいっ」
リュイの名前で悩んでいる間に、セリアを兄上に呼ばれてしまった。
「ユーマの荷物を頼む。……ユーマ、急ぎの荷物はもうないのだな?」
「ええ、そのはずです」
ちらりとセリアを見ると、お任せくださいと言わんばかりにうなずいている。
彼女のことだから、わたしが見落としそうなこともチェックしてくれているに違いない。それに、多少のものなら途中でも、向こうでも買えるだろうし。
「ならば、父上たちが戻ったら、馬車を使う許可を得てから追っかけてこい。リューイ、護衛の手配を頼む」
「心得ております」
「では行こう」
やっぱり兄上はリュイのこと、リューイって呼んでいる。六年前に一時期逗留しただけだし、その時に名前を憶え間違えたのかもしれないわね。一度確認しておかなきゃ。
さっさと食堂を出ていく兄上の背中を見送って、わたしは傍まで来ていたセリアの手を取った。
「お嬢様……どうぞ道中ご無事で」
「大丈夫よ、馬には慣れているし。あなたこそ、無事に追いかけてきてね。セリアが来るまで寂しく待っているから」
「はい、すぐに。くれぐれも無茶はなさらないでくださいね?」
セリアの言葉にわたしは苦笑を浮かべた。六年も王宮にいたのに、やっぱりお転婆姫のイメージなのかしら。セリアは王宮でのわたしも知っているはずなのに。
「大丈夫よ、兄様がいるし。……リューイも」
「……はい」
食堂の出口に向かいながら、扉の近くに控えていたリュイに声をかける。リューイと呼びかけてみたところ、反応が一瞬遅れた。……やっぱりリュイが正しい名前なんじゃないかしら。兄上が間違えてるのかもしれないわね。あとでセリアにこっそり確認してみよう。
「父上と母上をお願いね」
「はい、心得ております」
深く腰を折るリュイに微笑を返すと、わたしも玄関へと足を向けた。
外に出ると、すでに荷物を括り付けた状態の馬が二頭、つながれていた。黒毛の大きい方が兄上の馬だろう。わたしの馬は、栗毛で足元が白かった。
ここからベルエニーの領地まで、馬車であれば十日の距離だ。単騎ならば半分ほどの日程でたどり着くはず。
本当はそこまで急ぐ必要はないのだから、途中で観光をしながら戻ってもいいのだろうけれど、そんな気分の余裕はわたしにはないし、兄上も考えていないだろう。
なにより、護衛が兄上だけなのだもの。のんびり旅なんかしていて身分を知られてしまったら山賊や盗賊に狙われることになる。そんな危険、冒せない。
それに、婚約破棄の噂が町々に届く前に通過してしまいたい。……やっぱり多少は堪えているのかしら。
自分で望んで受け入れたことだけれど、噂の中で王太子殿下の名を耳にするのはできれば避けたかった。
兄上が手綱をつかんだままこちらを向いて待っている。わたしも急いで自分の馬の手綱を受け取った。
しかし、さっと勢いよく馬の背にまたがった兄上は、遠くの方を見つめてわたしが馬に乗ろうとするのを手で制した。
「兄様……?」
どうして、と言いかけたその時、馬車の音が聞こえてきた。
もしかして、父上と母上が戻ってこられたんだろうか。そう思って手綱を馬番に預ける。兄上も馬上から降りてきた。でも、表情が硬い。……もしかして、ベルエニーの馬車じゃないの?
その場にいた全員の視線が邸を囲む壁門の向こう側に集まったとき。
馬車が止まった。
車体が黒い。黒地に銀の装飾が施されている。二人乗りなのか人が乗り込む部分はかなり狭い。御者台に座る者の姿も黒地に銀の刺繍が施された衣装で、貸し馬車などでないことは一目瞭然だ。装飾が金であったならば、かなり目立ったにちがいない。
もちろん我が家の馬車ではない。それどころか我が家程度の財力の家ではとても手が出せないクラスの、とても手の込んだ高級品だろうことは見て取れた。
だが、どの家のものであるかを示す紋章が描かれていない。
……この馬車を、以前王宮で見たことがあった。
「誰だ……? こんな朝早くに」
兄上が馬車を注視しながら苛々と口を開くのを尻目に、わたしは駆けだした。
「おい、ユーマ?」
兄上の制止も聞かず、鉄扉を開かせたわたしは閉じられたままの馬車の扉の前に立った。外を覗き見るための窓すら黒く塗りこめられて、誰が乗っているのかを隠している。
「おい、ユーマ! 危ないだろうが」
すぐ追い付いてきた兄上にぐいと引っ張られてよろめいた。その隙に兄上は馬車とわたしの間に立ちはだかっていた。……誰とも知れない者から守ってくださろうとしているのがうれしい。
でも。
……兄上も、この馬車はご存知ですよね?
そう思って兄上の顔を見あげると、案の定、苦虫を噛み潰したような顔で扉を睨んでいた。
「……どの面さげて来た」
誰が乗っているのか、兄上にはわかっているの……? 今の言い方では、まるであの方が乗っているかのような……。いいえ、そんなことはありません。絶対に。
どれぐらいにらみ合っていたでしょう、ゆっくりと、黒い扉が開かれた。最初に見えたのは、薄紅色の布地。
「……え?」
「ユーマ姉様っ!」
ぱんと開かれた扉から飛び出してきたのは、簡素なデザインながら質のよさそうな薄紅色のドレスを纏った――第一王女フェリス様だった。いつもなら結い上げている栗色の長い髪を、今日は背中に流している。
目測を誤ったのか、それとも目の前にいる兄上に気が付かなかったのか、フェリス様はあろうことか兄上の腕に飛び込んだ。
「はぁっ!?」
「えっ、なんでユーマ姉様じゃないのっ! 邪魔よっ」
兄上とフェリス様がのけぞったのはほぼ同時だった。
えっと、フェリス様? いつものにこやかな笑顔をお忘れですよ。もしかして兄上のこと、ただの護衛だと思っていらっしゃいますね……?
フェリス様はすぐ後ろにいたわたしに気が付いて、兄を弾き飛ばすとわたしに抱き着いてきた。
「ふぇ、フェリス様っ?」
「嫌ですわ、そんなかたい呼び方。いつものようにフェリスと呼び捨ててくださいませ、ユーマ姉様」
昨夜デビュタントだったはずのフェリス様は、わたしより頭一つ分背が低い。すりすりとわたしの……その、あまり豊かでない胸に顔をうずめている。
いつものドレス姿であればコルセットでいかようにもできるけれど、今のわたしは乗馬服姿で、長距離の移動が前提だからコルセットは当然していない。……いつもより三割引きの寂しさなのですが。
「あ、あの、フェリス様?」
「ああ……いつものドレス姿も素敵ですけれど、今日のようなマニッシュなお姿も捨てがたいですわ。よく似合っていらっしゃいます」
「あ、ありがとうございます。あの……」
弾き飛ばされて鉄扉に寄りかかっている兄上が、呆れた顔でわたしとフェリス様を見つめている。あの、兄上、見てるだけでなくてフェリス様をはがしていただきたいのですが。
「フェリス、おちつきなさい」
フェリス様の背後、馬車から顔を出していたのは第二王子レオ様だった。
白いシャツに紺色のトラウザースだけという、いつもの王族然とした恰好からは全く想像もつかないほどそっけない恰好なのにもかかわらず、朝日を浴びて美しく輝く金髪と整ったお顔立ちのせいで高貴さを全く隠せていない。
「レオ様……」
「レオ兄様、わたくしは十分落ち着いていますわ」
苦笑を浮かべたレオ様がフェリス様をはがしてくださってようやく、わたしは膝を折って頭を下げることができた。
もちろん、周囲にいた使用人たちは皆すでに、王族に対する最敬礼を取っている。例外なのは、さっきまでフェリス様に抱き着かれていたわたしと、兄上だけ。
その兄上でさえ、騎士の略礼を取っているのですから、わたしが膝を折らない道理はありません。
ですが、フェリス様は私の腕をとって立ち上がらせようとされます。
「嫌よ、やめて。ユーマ姉様」
「そういうわけにはまいりません」
先ほどのようにレオ様が諫めてくださらないものかとちらりとレオ様の方に視線を向けてみる。でもレオ様は困ったように頭に手を当てた。
「ユーマ、それからフィグ。……この馬車で来たってことはお忍びだってわかってるだろう? こんなところで最敬礼されたら困る」
はっと顔を上げて兄上と顔を見合わせます。そうでした、まあ、ご存知の方はこの馬車を見ただけで、王族のお忍びだとわかるでしょうが、周りに対してそれとわかる態度をとるのはよくありません。
兄上は背を延ばすと馬番とリュイ、セリアを残して他の使用人を館に下がらせた。リュイたち二人は、扉の前で待機させている。
わたしも仕方なく立ち上がり、お二人に向き直ります。
「どうして、いらっしゃったんですか」
「当然ですわっ、ユーマ姉様を……っ」
「フェリス。……それは言わないと約束しただろう?」
半泣きになりながら口を開いたフェリス様の口を、後ろからレオ様が押えこんでいる。もごもごと抵抗をしているフェリス様を横目に、レオ様はわたしと兄上にいつもの笑顔を見せた。
「たぶん今日発つだろうと思ってね。フェリスが渡したいものがあるっていうからついて来たんだけど……フェリス、俺との約束、ちゃんと守れるよな?」
レオ様の声にフェリス様がこくこくとうなずいている。にこやかなレオ様の瞳が笑っていないのがちょっと怖いです。
ようやく解放されたフェリス様は、目に涙をためてわたしの両手を取った。
「ユーマ姉様……愚兄が本当にごめんなさい。でも、わたくしはいつまでもユーマ姉様の妹です。これからも、本当の姉様のように思っていていいですよね……?」
ぽろりと目じりから涙がこぼれるのを拭いもせず、フェリス様はぎゅうと手を握り締めてくる。
わたしが王宮に上がったとき、フェリス様は八歳で、すぐに打ち解けてくださった。本当の妹のように懐いてくださった。
……こんなことにならなければ、名実ともに姉妹になったはずだったのに。……いいえ、それも驕りですわね……。
「……ごめんなさい」
「どうして……わたくしでは妹になりえませんの?」
「いえ、そのことではなくて……」
「じゃあ、よろしいんですのね?」
泣いていたはずのフェリス様はきらりと目を光らせた。お互いの話がかみ合ってないのに気が付いて、あわてて首を横に振る。
「違います、そうではなくて……わたしのような者などが、姉だなんて……」
「そんな風におっしゃらないでくださいませ。ユーマ姉様だからいいんです。これからも姉様と呼ばせてくださいませ」
眉尻を下げて懇願してくる王族の美少女に、誰が抵抗できようか。そして。
「ユーマ、俺からも頼む。……あのバカ兄のことなんか気にしないで。六年も一緒に暮らしてきたんだ。もう家族のようなものだよ。まあ……本当の兄弟にはかなわないだろうけど」
レオ様が兄上をちらりと見ながら口をはさんだ。兄上はと見れば、機嫌悪そうな顔で押し黙っている。
兄上の不機嫌な理由は分かっている。
王族たるお二人にこうも言われて、受け入れないわけにはいかないからだ。それがお願いの形をとっていたとしても。
わたしはあきらめてそっとため息をついた。
「わかりました。……フェリス」
ただの子爵令嬢が王女を呼び捨てにするなんて、高位貴族の方々に知られたら怒られてしまうわね。
それでも――そういっていただけたことは、やはりうれしかった。
いつものように呼び捨てると、嬉しそうにフェリス様はにこにこと微笑んでくださった。
「よかった、愚兄はともかく、ユーマ姉様とのつながりがなくなったりしたら、世を儚むところでしたもの」
「そんなこと……」
「ユーマ、そろそろ出るぞ」
超絶に不機嫌になっている兄上が口をはさんだ。
そうだった、すっかり時間を取られてしまった。空を仰げばずいぶん太陽が昇ってきている。
「フェリス、レオ様。……ありがとうございました。もう出発しなければ」
「ユーマ姉様、これを」
そういってフェリス様がわたしの手に握らせたのは、銀のブローチだった。盾の形の中に王国の紋章である二本の交差する剣と杯が描かれていて、右下に鐘、左下に白百合が彫り込まれている。フェリス様個人を示す紋章だ。
「こんな……いただけません!」
「受け取って。肌身離さずつけていてほしいの。そして、万が一のことがあったら使って」
押し返そうとした手を逆に握らされる。受け取り拒否なんかできるはずもなく、わたしは落とさないように、襟の内側につけた。奪われて悪用されることだけは絶対避けなければならない。
ここならば見えることもないだろう。
「姉様、手紙を書きますから、絶対お返事くださいね?」
「ええ、必ず」
「それから、いつか遊びに行ってもいいですか?」
フェリス様の言葉に、わたしは目を見張った。ベルエニー領が王国内でも一番北側の険しい場所にあることは以前お話ししたことがある。
社交界にデビューして、これからいろいろと忙しくなるはずのフェリス様が我が領まで来られる時間が取れるとは思えない。それでも、彼女の思いはうれしかった。
「ええ。特に何もないところですけれど、それでよければ是非。お待ちしています」
「さあ、フェリス。これ以上お邪魔してはいけないよ」
レオ様は、まだ私の両手を離そうとしないフェリス様を宥めてわたしの手を開放してくれた。レオ様に会釈をして、馬番から手綱を受け取ると馬に跨った。兄上もすでに馬上の人になっている。
「すみません、お見送りもせず」
「いや、むしろ僕らがお見送りに来ているんだから、気にしないで。……旅の安全を祈っているよ」
「ありがとうございます」
「姉様、どうぞご無事で。向こうに無事到着されたら、ちゃんと着いたってお手紙くださいませね?」
「ええ、必ず」
兄上が馬を歩かせ始める。
わたしもあとを追いながら、何度も振り返った。こういうのを後ろ髪を引かれるというのね。
永遠の別れというわけではないのは分かっているけれど、心を引き裂かれる思いだ。
兄上が馬の歩みを緩めて横に並んだ。
「後ろを向くな」
「……はい」
目じりに浮かんだものを手の甲で拭うと、馬の腹を軽く蹴った。
そうしてわたしは、六年間過ごした王都に別れを告げた。
第一章 完結です