7.子爵令嬢は昔を思う
兄上が戻ってきたのは、翌日の朝早くだった。
兄上を自分の部屋で待っていたわたしは気が付かない内に眠ってしまっていたようで、ノックの音で起こされた時には長椅子の上で毛布にくるまれていた。
「お嬢様、フィグ様がお戻りです。セリアも一緒です」
扉の向こうからリュイの声が聞こえる。
迎えに出ようとして、母上のガウンを羽織っただけだったことに思い至る。そうよね、こんな格好では部屋から出られない。
セリアも一緒の馬車で戻ってきたのね。あまりに遅いから心配していたけれど、無事に兄上と会えたのならよかったわ。
まだ嫁入り前のセリアを深夜に一人で王宮に向かわせるべきではなかったと反省したもの。……せめて、護衛をつけるべきだったわ。
ノックに続いて入ってきたのは、セリアだった。
「戻るのが遅くなってしまって申し訳ありません。必要なものを引き上げてまいりました」
部屋に入ってきた彼女は大きなカバンを床に降ろした。後ろに控えていた侍女がもう一つのカバンを置いて出ていく。
「お言いつけ通り、王太子殿下からいただいたと思われる宝飾品とドレスは置いてまいりました。中をご確認になりますか?」
「いいえ、いいわ」
部屋には置き場に困るほどのドレスや宝飾品、靴やカバンが所せましと並べてあった。でも、あれはわたしのものじゃない。『将来の王妃』のためのものだから、わたしがもらうわけにはいかないの。
母上からいただいた緑柱石のペンダントとイヤリングだけは回収してもらったけれど。
「ありがとう。大変だったでしょう? ごめんなさいね、無理をお願いして。眠っていないのではないの?」
「いえ、大丈夫です。ちゃんと眠りましたから」
にっこり微笑むセリアの目の下にはまぎれもなく寝不足のあとがある。セリアの優しい嘘に申し訳なさでいっぱいになる。
「ごめんなさい」
「謝らないでくださいませ。それに、最後に登城させていただいたおかげで、懇意にしていただいた皆様にはご挨拶ができましたし。さあ、こちらにお着換えください」
セリアはカバンから乗馬用の服一式を取り出してベッドサイドに並べていく。
「ええ、ありがとう。兄上はどうされてるの?」
「今は入浴なさっておいでです。あとで朝食をご一緒にとおっしゃっておられました」
「そう、わかったわ。着替えは一人でできるから、荷造りをお願いね」
「はい、かしこまりました」
セリアを見送って、とにかく着替えを済ませることにする。
貴族の令嬢は横乗りか騎士と相乗りが普通で、横乗り用の乗馬服が一般的だけれど、わたしは普通に馬に乗れるし、乗りたいからとズボンタイプの乗馬服を作ってもらっている。
とはいえ、狐狩りで実際に男性と轡を並べて馬を駆るわけではなくて、いつも欲求不満だったのよね。
戻ってくるのを待つだけなんてつまらない。
狐を狩りたいわけではなくて、馬と一体化して風になりたかっただけなのに。
教育係だった女性の口癖が不意によみがえって、打ち消すように頭を振る。
王妃たるもの王妃たるものって、もうたくさん。
思い出したくもない。
気を取りなおして着替えを続ける。
乗馬服を着ると、身が引き締まる気がする。やっぱりこちらの方がわたしにはあっている。
もちろん、コルセットでぎゅうぎゅうに締め付けるドレスは貴族令嬢としての戦闘服だから、別の意味合いで背筋がピンと伸びるけれど。
……もう、いいんだよね。競わなくても。
ため息を一つ落とし、姿見でおかしいところがないかチェックする。あとで髪の毛は誰かに編み上げてもらうことにしよう。後ろで一つに簡単にまとめ、編み上げ靴を履くと部屋の中を見回した。
この部屋にいた頃のわたしは、王太子殿下のことなんかちっとも知らなかった。
デビュタントのために初めて王都に出てきた時のまま、時が止まった部屋。
そこここに、まだ何も知らない十四歳のわたしの面影が残っている。
デビュタントさえ済ましてしまえば、社交界に顔を出す必要もないはずだった。
兄上が父上のあとを継ぐのは決まっていたし、わたしは女性騎士として、騎士団に入るつもりだった。
そしていずれは父上の選んだ相手のところに嫁いで騎士団を辞め、普通に家庭に入る。
そんな未来を思い描いていた。
あの日までは。
もし、六年前のあの日あの場所にいなければ……そんな未来があったのかもしれない。
十四歳の時のまま、お転婆姫のままでベルエニーの山や野を駆けずり回っていただろう。日焼けして真っ黒になって、髪の毛も短く切って。
六年経って戻ってきたわたしは、今度はどんな夢を見たらいいのだろう。それとも……戻れるだろうか。あの頃に。
鏡に映る自分を見つめる。
向こうに戻ったら髪の毛も切ろう。こんな長ったらしい髪の毛じゃ北の風を感じにくい。
みんな大きくなっているんだろうな。あの頃一緒に遊んでいた子たちももう成人して、きっと家庭を持っているに違いない。奥さんや旦那さんがいて、もしかしたら子供もいるかもしれない。
でも、会いに行っても誰かわからないかもしれないわね。……六年経ったんだもの。
「ユーマ様、お食事の準備ができました」
ノックの音とセリアの声。
もう、十四歳のわたしはいない。
部屋を出たわたしは、夢の残り香を振り切るように扉を閉めた。