77.王太子は赤毛の美人と踊る
「ミゲール様」
広間に戻ったところで声をかけられる。位の高い者から声をかけるのが一般的なマナーだが、婚約者や親しい友人などの場合は例外だ。
声をかけてきたのはアーカント候の次女ミリネイアだとすぐわかった。ライラやシモーヌと共に王太子妃候補となった最年少の姫だ。
豊かな赤毛が肩に流されている。同じ色調のドレスは、裾に向かうほどに明るい赤になるよう斜めにグラデーションがかかっていてなかなか斬新だ。
「ごきげんよう、王太子殿下」
「ああ、ミリネイア殿も息災なようだ」
「はい。おかげさまで」
他の二人より一つ年下のミリネイアであるが、積極性は一番高かったように思う。姿を見かけては声をかけてくることも一番多かった。他の二人は、それを年若い者の特権だと揶揄していたのを覚えている。
「一曲お相手願えるか?」
「ええ、もちろんですわ」
手に手を乗せてフロアに出る。踊っている者たちがたどたどしくステップを踏むのを邪魔しないようにと空いたスペースに滑り込む。やはり先ほどラウラと踊った時は意図的に空けられたのだと感じる。
「先日、フェリス様にお会いしましたの」
踊りながらミリネイアは顔をほころばせる。
「そうか」
「とてもよくしていただきましたの」
それからふとミリネイアは顔を上げてじっとこちらに目を向けてきた。
「あの……ミゲール様、お話ししたいことがありますの」
「わかった」
その様子から、踊りながら語ることではないのだと悟って頷く。他の二人はこちらからテラスへと誘ったが、ミリネイアの方から誘われてしまった。
ダンスを終え、ミリネイアが先に立ってテラスへ向かおうとするのをやんわりと手を取って引き止める。本来ならエスコート役たる自分が先に立つのがマナーだ。
ミリネイアはびっくりしたように顔を上げた。そんなに驚かれるようなことをしただろうか、と眉根を寄せる。
「……何か?」
「あの、いえ……」
途端にミリネイアは視線を揺らして俯いた。その隙に給仕係に目で合図して歩き出せば、給仕係は後ろをついてくる。テラスまで来たところで盆からグラスを受け取り、給仕係を下がらせると、フィグの背中が戸口を覆うのが見えた。
軽く乾杯の真似をしてグラスを傾ける。ミリネイアはほんの少しだけ口をつけると、顔を上げた。
その表情をどう表せばいいだろう。柳眉を寄せ、思いつめた様子のミリネイアは、ゆっくり口を開いた。
「ミゲール様、あのお話をお受けするという噂は本当ですの?」
「噂?」
自分についての噂は腐るほど聞いている。ユーマがらみのものも、そうでないものも。
ほとんどが聞くに堪えないもので、真実はほんのひとかけらも入ってはいない。
それでも一通りは報告を受けている。真実を広めるつもりはないし、国家の危機となるほどの話もない。中には都合の良い噂もあるため、打ち消そうとしたことはない。
だが、受けるというのはなんのことか。
「北の属国になるという噂ですわ」
目を見開く。ベリーナ女王の使いが帰ったのはつい先日だ。どこからそんな話が流れているのだろう。しかも、そのような噂が耳に入っていないとは、由々しき問題だ。
「そんなことはありえない。ミリネイア殿、それはどこでどなたから聞いた話ですか」
思わず語気が荒くなったのは仕方あるまい。ミリネイアはじっと視線を合わせていたが、やがて目を伏せるとこうべを垂れた。
「申し訳ございません。……今のは嘘ですの」
「なに……?」
頭を上げたミリネイアは、目を伏せたまま、言葉を継いだ。
「ベリーナ女王の使いが来られましたでしょう?」
「ああ」
ミリネイアの言葉に頷く。女王の名代の希望で歓待の宴も夜会も行わなかった。普段は騎士として女王のそばに控えているのだろう。そういった場は好まない、と一切を断られたのだ。
我が国としては近隣国との関係は良好に保ちたい。ベリーナ女王の国がどうのということではないが、南進を未だ諦めない北の大国を統べる王の、伴侶の一人が治める国と我が国が積極的に関係を持っていると思われるのは望ましくないのも事実だ。
北の南進を食い止めているのは我が国なのだから。
だからこそ、彼女の要望に答える形で式典等をすべて取りやめたのだが。
それなのになぜミリネイアは知っている?
夜会も茶会も開かなかった女王の名代と、接点があったとすれば父親たる外相だけだ。
娘の願いだからと国の重要なことを易々と口にするような外相ではないはずだが、そうではないのだろうか。
眉根を寄せて彼女に目を向けると、ミリネイアは首を横に振った。
「父とは関係ありません」
そうきっぱり言い切ったミリネイアの表情は硬い。
「わたくし、実は友達が多いんですの」
急にまるで違う話題を口にしたミリネイアに眉を寄せる。だが、彼女の表情は変わらず硬く、友の自慢話をしたいわけではないことがわかる。
「アーカント家の子供達は十になるまで外遊に出る父親に必ずついて回るんですの。わたくしも父とともに近隣諸国を回りましたわ。その頃の友人たちと今も交友があるんですの」
それは外相から直接聞いたことがあった。引き合わせるのは向こうの有力者の子女で、言葉も通じないながらにいつの間にか友達になっているのだと。
そうやって幼いうちに外国との接点を持たせるのがアーカント家の家訓なのだと。
「先日、友と再会しましたの。彼女とは八年ぶりでしたけれど、その時に教えてくれましたの」
彼女、とミリネイアは言った。あのベリーナ女王の名代のことか? 今の話の流れではそうとしか思えない。
ほんの僅かに目を見開くと、ミリネイアは薄く笑った。
「おそらくミゲール様がお思いになっておられる方とは違いますわ。……彼女とは幼い頃に文字の書き取りを一緒にした仲で、文字の練習も兼ねてずっと手紙のやり取りをしていますの」
そう語ったミリネイアはほんの一瞬だけ懐かしそうに目を細めた。
「ですから今回の来訪のことも、父より早く知っていましたの。久しぶりに夜明けまでおしゃべりしましたわ」
「では、その彼女から聞いたのか」
しかしミリネイアは首を横に振る。
「北にいる妹姫の付き添いとして選ばれたことを聞きましたの。栄誉あることだけれど、海辺の町から離れたくない、ここは寒いから嫌だと散々愚痴をこぼして帰りましたわ。この話が決まらなければいいのにとも、近々またこの国に来るとも」
そこまで語って彼女はふふ、と笑った。
「彼女はそういう意味合いでは普通の女の子なんですの」
ミリネイアの言葉に口元を緩める。なるほど、その友人とやらは自分の語る言葉から読み取られる情報を考慮しない立場でいられるのだろう。
外相の言っていた有力者の子女とはとても思えないが、そのおかげで情報は取り放題ということだ。
「ですから、父とは関係ございません」
「わかった」
重々しく頷くと、ミリネイアはようやく眉尻を下げた。
彼女がもたらした情報は貴重だ。もちろん、全てをそのまま鵜呑みにすることはできない。ミリネイアは王太子の妃候補であったと知られている。もたらされる情報も、いずれ王太子の近しき人間に伝わることを考慮されたものである可能性は高い。
それでも、北の妹姫付きの者が近々再訪すると口にしたということは、こちらの意思に関わらず、王女を送り込んでくるということだ。しかも比較的早く。
あの女王のこと、いずれ来るかもしれないとは話していたが、予想より早い。
「どこよりも早い情報だな、感謝する」
ミリネイアはようやくにこりと微笑んだ。
「愚痴ですから、あまり信用度は高くありません」
「ああ、もちろん裏は取る。ーーそれにしても、動きが早いな」
好機と見られたのは間違いない。隙を見せたのはこちらだ。なんとか乗り切るしかない。
「では、妹姫との婚姻の話は」
「受けるつもりはない」
「そうですか。……それが聞けて嬉しいですわ」
花ほころぶように笑みを浮かべるミリネイアに、眉根を寄せる。
まだ誰も選ぶつもりはないのだ。そう伝えるべきかと逡巡したが、今はまだその時ではない。
結局そのままミリネイアは礼を取ってテラスを去り、フィグの苦々しい表情にまたしてもため息をつくしかなかった。




