68.王太子殿下は子爵令嬢の兄と酒を飲む
最後の一枚に目を通し、サインをして決裁済みの書類の山に乗せると、背もたれに体を預け、両腕を天井に向けて伸びをする。
ここ二日ほど、前触れもなく急に来訪したディムナ王国からの使者の応対で手一杯だった。女王ベリーナの名代だという女性騎士を丁重に送り出して戻ってきた執務室には、二日分のたまった書類が山となっていたのだ。
「おつかれ」
横から手が伸びてきて、書類をごっそり取り上げた。そのまま脇机に乗せ換えたのは専属護衛騎士のフィグだ。淡い茶色の髪の毛が魔石ランプの光を受けて金色に見える。
彼の髪を見るたびに、彼女とそっくりの色合いでなくてよかったと思う。もしもそっくりだったなら、その髪を見るたびに彼女を思い出してしまうだろう。
フィグはそのまま書類を部署ごとに仕分けしていく。本来は文官の仕事であり、執務補佐についているロクスがやるべきことだ。
お前のやる仕事じゃないと何度言っても聞き入れない。
ロクスは宰相カルディナエの孫だ。宰相はもう六十を過ぎた老体ではあるが、まだまだ息子サリエルに座を譲る気はないらしいと聞いた。サリエルも宰相の下で右腕として働いている。
だが、ロクスを登城させるようになった。代替わりを考え始めたのだろう。
いずれ自分が王になったときには、宰相となるサリエルの跡を継いで重要な役に就くだろう。だが、今はまだ城に勤めはじめた一文官でしかない。王太子の執務補佐と言えば聞こえはいいが、要するに各部署との連絡役で、当然、終業時刻になれば退城していく。
今、フィグが仕分けしているのは、ロクスが帰ったあとに決裁した書類だ。そのままにしておけば、明朝ロクスが仕分けをして持っていくだけのことだ。
「放っておけばいい」
「そうはいかねえだろ。あいつに任せたら昼を過ぎてもまだ山のままだぞ」
苦笑を浮かべつつもフィグの手は止まらない。
登城するようになったのはつい先日のこと。まだ十五にも満たない、成人も迎えていない少年を執務補佐とするのは早すぎると思う。
先日は城の中で迷子になったところを近衛兵に見つけられたと報告があった。以来、場内の移動には近衛兵を一人つけるようにしている。
そもそも重要書類を抱えて歩いているのだ。軽々と取り押さえられそうな少年が単独で運ぶものではあるまい。
もちろん、警備の手厚い王城内で不埒者に遭遇する率は低いだろう。王太子の執務室から各部署への道は近衛兵が配置されているし、引き込めるような場所もない。
それでも、高位貴族が文官に無体を働くのをとがめられない兵士もいる。
本当はロクスにフィグをつけたいところだが、代わりに王太子執務室の護衛をつけた。ロクスが王太子の庇護下にあると知れば、無体を働く者は減るだろう。
「手伝おう」
「いい。もう終わる」
フィグはそういいながら手元の書類を手繰る。
別に、フィグが目を通して不都合な書類はない。
むしろ、軍務以外の様々なことに触れ、情報を共有しておいてほしいと思っているのだから望ましいことだと言える。
いずれは側近にと望む男だ。
今までも、上がってくる案件に関して議論を戦わせたことは何度もあったし、意見を聞くことも多い。
フィグの視点は自分の視点とは違う。それが大事なのだ。
手を止めない護衛騎士を横目で見ながら、飾り棚からボトルとグラスを取り出した。
「珍しいな」
顔を上げると、フィグがこちらを振り返っていた。その目はグラスに注がれている。
「ああ、ちょっと飲みたい気分だ。……付き合うか?」
「いいな」
にやりと笑い、フィグは作業に戻る。その手の動きがより早くなった気がするのは気のせいだろうか。
仕方ない、と二つ目のグラスに注ぐ。もともと一人で飲むつもりはなかった。
窓に寄り、外を見ると真っ暗な空には月が輝いている。
「きれいな月だな」
「ああ」
気が付けば作業を終わらせたフィグが同じようにグラスを手に立っていた。
「で、どうしたんだ?」
「ああ。……ちょっとな」
「また女王陛下の無理難題か?」
「……似たようなものだ」
ベリーナ女王の名代だと名乗った女性騎士の顔を思い出す。
ふんわりとウェーブがかかった見事な金髪を首のところで切り揃え、クリーム色の肌と金の瞳を持ち、騎士服に身を包んだ彼女は整った顔立ちをしていた。
名代を務めるからにはベリーナ女王の身内でもあるのだろう。ベリーナ女王とどことなく似ているような気もする。
だが、思い出したところで不快な思いしかしない。
「もしかしてあれか? 自分の娘を嫁にとでも言われたか?」
月を見たままつぶやいたフィグの顔は無表情だ。
ユーマとの婚約破棄の噂はすっかり大陸中に広まったようだ。ベリーナ女王の治めるディムナ王国は南に下って行った海沿いの国だ。おそらく片道半月はかかる。
「冗談じゃない。誰が北の大国の属国になどなるか」
以前会ったのは、父王の名代で行った女王の生誕祭だったか。その傍に侍る娘はまだ幼かった。
北の大国の王セイドリーとの間にできた娘だ。二人いる娘のうち、妹姫は父セイドリーの傍にいると聞く。
その娘との縁組をほのめかしてきた。
我が国と北の大国との停戦は長い。
北の大国が我が国を狙うのは、海へと到達する南への侵攻ルートを確保するためだ。北の国境には山脈が横たわっているおかげで簡単には南進できない。
迂回してダシェル王国側から南進しようとする動きもあるとは聞いている。だが、あちらは遊牧民の国で、屈強な兵士が揃っていることも知られていて、攻めあぐねているのだとも。
だから、懐柔策に出たということなのだろう。
「ファティスヴァールの王は子だくさんだからな」
「他人事のように言うな」
「他人事だからな」
にやり、とフィグが口元をゆがめる。
「お前を紹介してやろうか」
「要らん。というか向こうが納得しないだろうが」
「そうか? いずれは王の側近となる男の妻だ。悪い立場ではあるまい」
そう言い返すと、フィグはようやくこちらを見て眉間にしわを寄せた。
「冗談。俺は結婚するのは心底惚れた女と決めてる」
「……うらやましいことだ」
「自分で手放した奴が文句を言うな」
嫌味のつもりがちくりと刺し返されて顔をしかめる。
「分かっている」
「……で、どうするつもりだ?」
「断るに決まっている。北の傀儡になるつもりはない」
「まあ、そうだろうな。しかしまあ、いつまでもかわし切れるものでもないだろう?」
「何が言いたい」
じろりと睨み上げると、ほんの少しだけ、フィグは頬を緩めた。
「手っ取り早く誰かと婚約しちまえよ」
思わず殺気を込めて護衛騎士を見る。が、フィグの視線はからかいの色を含んだままだ。
どんな思いで手を放したと思っているのだ。……知っているくせに。
自分がこの立場にいる限り、いずれは新たな婚約者を立てなければならないのは分かっている。だが、まだ二か月だ。……自分の恋の喪にも服せないのか。
「何なら適当な女を紹介してやろうか」
「断る」
グラスを空にして窓の傍を離れると、フィグもついてきた。グラス一杯の蒸留酒で酔うような男ではないが、どうも今日は饒舌だ。
ボトルを取り上げて二杯目を注ぐ。フィグが突き出してきたグラスにも注いで蓋をする。
「そういえば、カレルがセレシュの護衛騎士になったのだそうだな」
とりあえずこの話を切り上げようと話題を振ると、とたんにフィグが顔をしかめた。
「おかげで王都の館を閉められずにいる」
「ほう?」
護衛騎士は基本的に王城の護衛対象の部屋の傍に部屋を与えられる。フィグも自分の私室に続く部屋を使っている。
自分の護衛騎士になってからフィグは王都にあるベルエニーの館には戻っていない。だからカレルも同じだろうと思っていたのだが。
「家令から連絡が来てな……別に使うのはかまわないんだが、王子がいつ来るかぐらいは連絡をよこして欲しいと伝えておいてくれ」
「……それは、すまなかった。弟には重々釘を刺しておく」
かるく頭を下げる。
セレシュが遊びに……いや、城を逃げ出して隠れ家として使っているのだろう。家令からフィグに連絡があったとなると、カレルと一緒に隠れているというわけではなさそうだ。
ベルエニーの家令はセレシュの身分を知っているのだろう。だから、フィグを経由して自分に連絡をしてきたのだ。
フィグはきまり悪そうに頭をかいた。
「悪いな。……うちも両親ともども領地に引き上げたところだから、使用人があまりいねえんだよ。ろくなもてなしもできないから、家令が気に病んじまってな」
「気にしないように伝えてくれ。あれも曲がりなりにも騎士だ。自前で何とでもなるだろう」
「一応伝える」
聞いてくれればいいんだがな、とつぶやいてフィグは二杯目を空けた。そのまま三杯目を自分で注いで、再び窓際に移動する。
「なあ、ミゲール」
「なんだ」
「……お前、いつからユーマを好きだった?」
……盛大にむせた。ちょうどグラスに残っていた酒を飲み干そうと傾けたところだった。いくらなんでもこのタイミングでそれはないだろう?
「悪い」
むせながらじろりと睨み上げると、にやにやしながら背中を叩いてくる。
「……お前に教える義理はない」
「義理はあるだろう? 義理の兄になるところだったんだぞ?」
ちくりちくりと針が刺さる。不愉快そうに眉をひそめて口を閉じると、フィグはにやにや笑いのままソファに腰を下ろした。
「まぁ、言わなくてもいいけどよ。知ってるし」
「しっ……」
「うちの領に来てから割合すぐだったよな、体を鍛え始めたの」
「……フィグ」
それ以上言うな、と睨みつけたが、にやにや笑いは止まらない。
「そういやセレシュ王子、ベルエニー領で妹と楽しく過ごしたそうだな」
「……ああ。聞いている」
話題が逸れてほっとしつつも、フィグにはしっかり最初から知られているということを再認識させられる。
隣にいるようになってからは七年だが、初めて顔を合わせたのはもっと昔だ。そんな昔からこの観察眼を持っていたのだろう。
十三年も前のことで脅しをかけられる自分も自分だと内心嘲いながら、向かいのソファに腰を下ろして目を閉じ、口を開く。
「茶会でももてなされたそうだよ。……手作り菓子にはありつけなかったと残念がっていたが」
騎士養成学校を卒業して、その足でベルエニー領に遊びに行った弟は、戻ってくるなり向こうでのユーマの一挙手一投足を事細かに聞かせに来た。
何のつもりなのかは知らないが、ずいぶん生意気な態度だった、と付け加えておく。
フィグの反応がないのをいぶかしんで目を開くと、護衛騎士は眉根を寄せて、じっとこちらを見つめている。
「そうか。……やっぱりな」
「何がだ?」
「……いや、何でもない」
ゆっくりと目をそらしたフィグは、表情を消していた。
何かを隠すときの癖だ。
よほどのことがない限り、護衛騎士としてのフィグは護衛対象である自分に何も隠さない。この七年でこの顔を見たのは、三度目だ。
そして、そうやって隠したことは、どうあっても決して口にしないことは経験済みだ。
今の自分との会話の中で、何を気が付いたというのだろう。それを、自分に秘しておかねばならない理由も、思い当ることはない。
言葉を継げず、グラスを傾ける。
互いに黙り込んだまま、月を見上げながら杯を重ねるに任せた。
酔いつぶれて眠る前。
――ほんと、バカだよお前。
そう、フィグが言っていたような気がした。
子爵令嬢小話として「月と蒸留酒」をアップしています。
よろしければそちらもお楽しみください。
(未来の話ですので、子爵令嬢本編の若干のネタバレを含みます)
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