46.子爵令嬢の弟は第三王子に呆れる
ずんずん歩いていくと、後ろから小走りで迫ってくる足音があった。振り向かなくてもセレシュだとわかる。
「おい、なに怒ってるんだよ」
「怒ってない」
「怒ってるだろ、明らかに」
ぐいと肩を掴まれたが、カレルはその手を振りほどいた。
王子に対する態度としては褒められたものではないことは重々知っている。だが、今回ばかりは腹に据えかねた。
二人しかいない部屋の中ならともかく、館の廊下などは両親や使用人が通りがからないとも分からないわけで、一応公的な場所と言うことになるのだが、それでもカレルはセレシュの手を振り払う。
王族に対して普通は真正面から物を言わないのが普通だ。
だが、今の王家は、むしろ苦言を呈する者を重用する。あの腹芸の使えない兄が王太子の傍にいるのがいい例だ。
カレルも、セレシュの遊び相手として引き合わされてからこちら、言葉を飾ることはしていない。公的な場所では当然体裁を整えるが、普段はそれも嫌だというので普通に喋っている。
「何なんだよ。……せっかくユーマ姉様にお菓子を作ってもらおうと思ってたのに……」
背後から聞こえてきた一言に、カレルは足を止めた。
姉が料理をしたとかしないとか、そんなことはどうでもいい。
……婚約破棄されたというのに、どうして破棄した相手との話を聞かされなければならないのか。
六年も家族から切り離されて閉じ込められて、一方的に婚約破棄されて。戻ってきた姉はけろりとしているように見える。
もちろん、自分たちには見えないところで涙を流しているのかもしれないが、カレルには理解できなかった。
四歳年上のユーマは、カレルにとっては目の前を走る手本だった。勉強も武術も、ユーマに習ったと言っても過言ではない。
十歳の時に王都に行ったきり、帰ってこなかった姉。
その姉を六年の間独占していた王族――とりわけ王太子には怒りしか感じない。セレシュに対しても、姉を取り上げて独占したうちの一人であることには代わりなく、そのことに苛立ちは感じている。
だからこそ、自分の知らない六年の間のユーマを語られると簡単に怒りに火がともるのだ。その感情を何と呼ぶのかカレルは知らないが。
立ち尽くすセレシュにつかつかと歩み寄ると、じろりと睨みつける。
「な、なんだよっ」
「セレシュ」
背丈はほぼ同じだが、セレシュの方が筋肉のつき方が甘い。カレルは北の砦で存分にもまれてきたおかげで兄ほどまではいかないが、がっしりしている。
そのせいか、セレシュが及び腰になっている。
「……姉さんは料理なんかしない」
「いや、だから」
セレシュが眉間にしわを寄せる。
たぶん、説明すればセレシュは理解するだろう。頭を下げてくるかもしれない。だが、それをカレルは望んでいない。頭を下げられて、謝罪されて六年の月日が戻ってくるわけじゃない。
いずれ受け入れなきゃならないことは分かっている。だが、これは……カレルのセレシュに対する『報復』だ。
「なあ……カレル」
しばらく黙ってじっとカレルを見つめていたセレシュが口を開いた。
「もしかして、ユーマ姉様が嫌いなのか?」
あまりに当て外れの言葉にカレルは目を見開いた。
確かに、帰って来てからユーマとはまともに会話していない。卒業試験での失敗がまだ尾を引いているのは事実だし、ユーマが婚約破棄されたというニュースが流れなければ、ちゃんと主席が取れていた自信がある。
だがそれも、自分がしっかりしていれば惑わされることもなく勝てたはずだ。姉上のせいにしているのも責任転嫁だとわかっている。
だから、嫌ってるわけがない。――六年前の何もできない自分とは違うのだ。
「……お前には関係ない」
「関係あるよ! 言っただろ、俺、ユーマ姉様が好きなんだから!」
セレシュの言葉に、カレルは目を見開いた。何を言い出すんだ、いきなり。
「……聞いてない」
「学校で聞いたじゃないか、ユーマ姉様は年下は嫌いかどうかって」
そういえばそんなことを言っていたような気がする。が、主席を取れなかったショックで頭の中が塗りつぶされていたカレルの記憶には残っていない。
しかし自分が姉と仲が悪い(ように見えているだけだが)ことと、セレシュがユーマを好きだという話がどうつながるというのだろう。
「覚えてない」
「と、ともかくだなっ、バカ兄がようやく婚約破棄してくれたんだ、俺がアプローチしてもいいってことだろう?」
カレルは額に手を当てて目を伏せた。どこまでお気軽なんだ、姉上がそのことで心を痛めているだろうことは考えないのか、このバカは。
「いいわけないだろうが、バカ」
「えっ、なんでだよ」
なんでこのバカは分かってないのだろう。初日に姉上にちゃんと謝罪を入れていたくせに。
「……お前の兄に一方的に婚約破棄されてまだ一月しか経ってないんだぞ」
「あっ……ごめん」
慌てたようにセレシュが頭を下げる。カレルはため息をついた。
本当は、王太子の兄弟と会うことも姉上にとっては辛いことなのではないかと思っている。だが、姉上が王子に何かを言えるはずもない。
第三王子が姉に愛の告白をしたとして、断れるはずがないのだ。――あのバカ王太子の時と同じことを、繰り返させるつもりはカレルにはない。
目の前で頭を下げる王子は、王族の立場とそれに付随する権力のことをまるで分かっていない。
「……少なくとも、姉上が結婚したいと思うようになるまで、父上も母上もそういったことは耳に入れたがらない」
それぐらい分かれよ、と内心詰りつつ、セレシュを見つめると、頭を上げたセレシュは視線をさまよわせながら口を開いた。
「うん、ごめん……分かってる。……でも、カレルには言っておきたくて。ユーマ姉様が好きなのは本当だよ。いつかユーマ姉様の傷が癒えた時にはプロポーズしたいと思ってる。だから、姉様とカレルが仲が悪いと困るんだよ」
熱っぽい口調でそう語り掛ける第三王子に、もう一度カレルはため息をついた。
「……もういい、わかったから黙れ」
やっぱりこいつの相手は疲れる。くるりと踵を返して歩き出すと、再びセレシュが駆け寄って来て腕をつかんだ。
「何だよ今度は」
「いや……その、嫌いなわけじゃ、ないんだよな?」
今にも泣きそうに眉根を寄せているセレシュは、その口調も相まって、同い年の騎士養成学校を首席で卒業した男とは思えないくらい幼く見える。
自分と長く付き合っているせいなのか、セレシュは腹芸が苦手だ。感情をストレートに出すこの男をときどき本当に王子なのだろうかと疑ったりもする。
「俺は怒ってるんだ」
「……うん、ごめん」
セレシュはうなだれた。何に怒っているのかなど一言も言っていないのに、自分や王族にその怒りが向いていると思っているのだろう。
何を言ったところで詮無いことだ。……時が巻き戻るわけじゃないのだから。
「……姉上が傷つくようなことだけは言うな」
「うん……わかった。もう言わない」
婚約破棄のことも、王太子のことも……王太子にまつわる記憶を想起することも、口に出してほしくない。
ごめん、ともう一度セレシュは頭を下げて、それからすまなそうに微笑んだ。
「もしうっかり言いそうになったらつねってくれないか」
「……俺に頼るな」
「うん、ごめん」
そう言いながら、セレシュはにへらと笑う。やれやれ、と肩をすくめると、カレルは踵を返した。セレシュも子犬のようについてくる。
「で、カレルはどこに行くんだ?」
「武器庫。王都に持っていく武具を選ぶ」
「えっ? 装備品って支給のはずだけど?」
「剣ぐらいは自分のを持っていきたいから」
「ふぅん……ついてってもいいか?」
「……好きにしろ」
自分の言葉を受けて嬉しそうに微笑むセレシュの危機感のなさに、頭痛を覚えるカレルだった。




