39.子爵令嬢は侍女に諭される
館に戻ってきたのは太陽が傾きかけたころだった。館が朱色に染められた中、わたしは馬を玄関へと向けた。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
セリアが慌てたように駆けてくる。わたしは手を振ると、馬から降りた。馬の背に括り付けておいた麻の袋を外すと地面に降ろす。
「ただいま、セリア。遅くなってごめんなさい。セリージャ村の人たちとつい話し込んじゃって。これ、父様への献上品ですって」
「それどころじゃないんですっ」
「それどころって……ああ、カレルが戻って来てるのね?」
わたしはうれしくなって声を弾ませた。
弟のカレルに会うのは何年ぶりだろう。寮に入る前に一度、父様が王宮に連れてきてくださって以来だから、ほぼ二年ぶりね。
「それじゃ、急いで準備しなきゃ。あ、それは庭の方へ運んでもらえる? ベリーの新種らしいの。自生していたのを村で育ててみたらしいんだけど……」
「そんなことはあとですっ!」
「でも、すぐに植えないと、枯れちゃうわ。せっかく……」
「分かりましたっ、すぐ庭師に渡してきますからっ。急いでくださいっ」
セリアに急かされて仕方なく館に入ると、待ち構えていた母上の侍女たちがわたしを捕まえて風呂場へ連行していく。
確かに、馬で走ってきたところで汗もかいたしほこりっぽいし、あの苗をいただくのにお手伝いしたから土もついてるから早く洗い落としたいけれど……母上の侍女に手伝ってもらわなきゃならないほどひどく汚れてるのかしら。
そんなことを考えているうちに、一糸まとわぬ姿にされて頭のてっぺんからつま先までピカピカに磨き上げられる。
王宮で初めてされた時には逃げまくったけれど、今ではすっかり慣れたわ。……それでも恥ずかしいことには変わりない。
ローズの香油を塗り込まれて、髪の毛は軽く乾かされたあと、きっちり結い上げられた。ばっさり切ってからまだ一月ほど。あまり伸びていないから、ぎゅうぎゅうにひっ詰められるとかなり痛い。
「お嬢様、痛かったりきつかったりしたらおっしゃってくださいませね?」
「ええ……ちょっと痛いわ。今日は編み込みだけでどうにかならないかしら?」
「かしこまりました」
そう言って、ゆるい編み込みに変更してくれた。
ガウンを羽織って部屋に戻ると、セリアが気合の入った顔で待ち構えていた。
「では、お嬢様。行きますよ」
「え?」
まだついてきていた母上の侍女……今回はサラとアニーの二人が素早くコルセットをつけていく。
「えっ、ちょっとっ……」
「大丈夫です、そんなにきつくはしません。それに最近お嬢様、だいぶ引き締まってきましたから」
などとセリアは言うけれど、結構ぎゅうぎゅうに締め上げてるわよね。呼吸が苦しい。
どうしていきなりコルセットなの? 普段は晩餐と言ったって簡素なドレスで済ませているのに。
カレルが帰ってきたから正式な晩餐をするつもりなのかしら。
用意されていたイブニングドレスは深い緑の襟ぐりの広いもので、見た覚えはない。
「こんなドレス、あったの?」
「はい、先日届きました。布地は奥様がお選びになったものですが、よくお似合いですよ」
作った覚えはないけれど、と言いかけて口を閉じた。そういえば、サラと一緒に出掛けた時に採寸されたんだった。あれって……そういう事だったのね。
母上からいただいた緑柱石のペンダントとイヤリングをつけて姿見の前に立つ。……こうして盛装するのはあの日以来だ。鏡には『子爵令嬢ユーマ・ベルエニー』が映っている・
もう二度とこんなドレスに袖を通すことはないだろうと思っていた。少なくとも、当分の間は、と。いずれは慣れなきゃいけないのは分かっている。
……ううん、正直に言えば、いまだにあの日のことがフラッシュバックしそうで本当は怖い。二度とあんな思いはしないことは分かっているのに、思い出してパニックに陥ってしまいそうになる。
「お嬢様……大丈夫ですか。お顔が真っ青です。やはり……普通のドレスに着替えますか?」
セリアがわたしの顔色に気が付いて、眉根を寄せている。
本当はそうしたい。でも、母上の侍女が派遣されてきて、セリアが何も言わずにこのドレスを身につけさせたということは、必然性があるからよね。
……そういえば、カレルが誰かを連れてくると言っていたわ。その方との晩餐だから、盛装なのね。
わたしは首を横に振った。大丈夫、このくらい乗り越えなきゃ。
「いいえ、皆様を待たせてしまうわ。……大丈夫。行きましょう」
そういって部屋を出ようとすると、セリアが戸口に立ちふさがった。
「セリア? そこをどいてくれないと出られないわ」
「お嬢様。……やはりいつものドレスに着替えましょう」
「え? いいわよ。時間がないのでしょう?」
「その口調」
セリアは眉根を寄せてわたしを見ている。……口調?
「王宮にいた時の口調に戻りかけてます。……それにその笑顔も」
ぴくりと頬が引きつった。そんなはずはない、とセリアに笑いかけようとしたけれど、口元が引き連れてうまく笑顔にならない。
「申し訳ありません。着替える前に気が付くべきでした」
セリアはわたしをくるりと回して後ろを向かせると、あっという間にドレスとコルセットをゆるめて床に落とした。
「セリア、どうして」
「……お嬢様、わたしに隠し事はしないでください。嫌なら嫌と言ってください。……ここは王宮じゃないんです。我慢しなくていいんですよ?」
セリアはそういい、クローゼットから胸当てと、一番気に入っている水色の普段着用ドレスを出してくるとわたしに着せていく。
それから、ペンダントとイヤリングも外して宝石箱にしまった。
「ごめんなさい……」
以前のわたしならなんてことはなかった。ただのイブニングドレスだもの、夜会用とは違う。
なのに、ドレスを着てアクセサリーをつけて。髪の毛を結い上げて化粧をして。鏡に映る自分を見ただけでこんなに取り乱してしまう。
「いいえ、お嬢様のせいじゃありません。……さあ、できましたよ」
セリアの声に顔を上げると、姿見にはいつものわたしが映っていた。編み込みをして少しだけおしゃれした気分の、街にお出かけに行くときのお気に入りのスタイル。
重苦しく感じていた胸のあたりが、少し軽くなる。服装一つでこんなに気分が変わるものなのね。
……やはりあの日のことはわたしの中ではずっしり重いしこりとなっているのね。……いずれは乗り越えなきゃならないと思っている。それはいつかは分からないけれど……まだまだわたしには時間が必要なのだと感じる。
「急がなくていいんです。どんな姿でもお嬢様はお嬢様なんですから……」
セリアの言葉の最後は聞き取れなかった。だが、その心づかいはとてもうれしかった。
「ありがとう、セリア」
微笑んでみる。少し心が軽くなったおかげか、今度は笑えた気がする。
「さ、行きましょう」
セリアはいつもの笑顔をわたしに返してくれた。正解です、と言われた気がした。




