3.子爵令嬢の兄は怒り狂う
妹を館に送り届け、取って返して戻ってもまだ、春の宴はにぎやかに続けられていた。
婚約破棄をした後でデビュタントの令嬢たちとダンスに興じているのだろう、女性のさざめくような声が間断なく聞こえてきて思わずこぶしを握る。
だが、これも仕事だ。
――俺は、王太子殿下の専属護衛騎士なのだから。
そう自分に言い聞かせて扉の前に立つと、なぜか近衛兵に止められた。
「なぜ止める。俺は――」
「存じております」
フィグは怒りと苛立ちで思わず声を荒げた。が、近衛兵はフィグの言葉を遮ってまっすぐ顔を上げた。
近衛の鍛錬場でよく見る顔だった。皆リニーと呼んでいたが、確か、南の方の男爵の三男だったように思う。
「お前……」
「あなたが戻っていらっしゃったら王太子殿下の部屋にご案内するように言われております」
「殿下の部屋に……? 殿下は宴に出ていらっしゃらないのか?」
「ええ。……詳しくはお部屋でお聞きください」
「お願いします。お聞き分けください」
二人の近衛は深々と頭を下げてくる。ここまでされては応じるほかはない。自分が怒っているのはあのバカに対してだけで、この二人には何の咎もないのだから。
「わかったよ。……殿下の部屋でいいんだな?」
「あの、ご案内もするように申し付かっております」
「案内? 殿下の部屋なら迷わないから要らない」
「いえ、それが……人目につかないルートでご案内するように、と」
それが何を意味するのか、すぐにわかった。
婚約破棄されたばかりの妹を持つフィグが人目につくところを歩けばどうなるかぐらいわかっている。一応気を使ったつもりなのだろう。
今日だけそんな配慮をしたところで、明日からも同じ針の筵に座るのは変わらないのに。
あのバカは――。
「わかったよ。案内してくれ」
「ありがとうございます。こちらです」
もう一人の近衛に会釈して、フィグはリニーの後を歩きはじめた。沸々とわいてくる怒りは、あのバカの顔を見るまで封印することに決めて。
◇◇◇◇
王太子殿下の部屋に着いたのはそれからしばらくしてのことだった。いつものルートと違い、かなり遠回りしたのはわかる。途中で侍女にも使用人にも一人もすれ違わなかったのは驚いたが、考えてみればみな宴に駆り出されていて、それどころではなかったのだろう。
それにしても、宴の間、王宮がこんなにも無防備だとは思わなかった。こんなに人気のないルートであっさり王太子殿下の部屋までたどり着けるとあっては一大事ではないか。そんなことを考えながら、フィグは眉間にしわを寄せた。
実際には、近衛全員に命が下っていて、フィグの目の届かないところで警護に当たっていたのだが、当然フィグは知らない。この時のフィグは怒りで周りが見えてなかったとはいえ、それでも全く気配を感じさせなかったのを考えると、近衛には腕のいい兵士がそろっている証明と言えよう。
それはともかくとして。
フィグが扉をノックすると誰何があってすぐに扉が開いた。
顔を上げて、目の前にあのバカの――ミゲールの顔が見えた途端、怒りのスイッチが入ったのが自分でもわかった。
拳を握って振り上げる。スローモーションのようにミゲールの目が一瞬見開かれ、すぐに目を細めたのが見えた。そのまま拳を叩きつけると、ミゲールの体は吹っ飛んでいく。
「ベルエニー殿っ!」
後ろから誰かに抱き着かれて我に返ると、案内してくれたリニーがフィグを後ろからがっちりと拘束していた。優男、と思っていたが多少の抵抗では外せそうにない。本当はもっとぼこぼこにしたかったところだったが、フィグはあきらめて体の力を抜いた。
目の前にはミゲールが寝転がっている。
「ミゲール……」
「……気が済んだか」
のそりとミゲールは起き上がると唇を拭った。口の中を切ったのだろう、手の甲に血がこびりついているのが見える。
「なんで殴られたかはわかってるな」
「ああ、わかっている」
「ならなんで……」
あんなことをした、と続けようとした時。
「フィグ!」
「お前、なんてことを……」
聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。声の方をむけば、子爵夫妻が立ち上がって真っ青な顔をしているのがフィグのところからも見えた。
その向かい側には、国王陛下と王妃陛下が、こちらの騒動には我関せずで紅茶を飲んでいる。
「父上、母上」
フィグは二人の方を向いた。二人は言葉が続けられず、口をぱくぱくと開け閉めしている。
国王陛下のいる前で、と叱責したいのだろう。だが、その目の前で息子が王太子を殴ったとあっては、言葉も出ないのだ。
フィグは苦虫をかみつぶした。まさか、他に人がいるとは思っていなかった。わざわざ呼びつけたからには一人だろうと高をくくっていたのだ。
「リニー、離してくれ。もう何もしない」
「でもっ……」
「離してやってくれ」
ミゲールの命令で解放されたフィグは、起き上がろうとするミゲールに手を差し伸べて引っ張り上げた。
「リニーと言ったな。扉の前で立っていてくれ。後で呼ぶ」
「かしこまりました」
リニーが外に出て扉が閉まると、フィグは両親に向き直った。二人はまだ立ちすくんだまま青い顔をしている。
「とりあえず終わったのならこっちにいらっしゃい」
王妃の言葉にミゲールは頷き、フィグを促して先に歩き出した。
ソファの前まで行くと、両親は促されてソファに腰を下ろしていた。ミゲールは空いていた奥のソファに腰を下ろす。フィグは皆から少し離れたところで床に座り込んだ。
「今、ご両親とも話をしていたところだったの」
王妃は何時もの柔和な笑みを浮かべていたが、その目は笑っていない。隣に座る国王は、だんまりを決め込んでいるらしく、口元を引き締めて厳しい顔で目を伏せている。
「ユーマ・ベルエニー子爵令嬢との婚約は、破棄することになったわ。……ミゲールの我儘につきあわせてしまって本当にごめんなさい」
王妃と、国王も頭を下げている。もちろんミゲール自身も。王族に頭を下げられるなど、初めての二人はやはり目を白黒させた。
「そんな……頭をお上げください、国王陛下、王妃陛下、王太子殿下」
「そうです、皆さまが悪いわけじゃありません……あの子にそんな大役、務まるはずがなかったんです。むしろ皆様にご迷惑ばかりおかけして……」
涙で声を詰まらせた子爵夫人の肩を子爵が抱き寄せた。
「お金などで贖えるものではないとわかっています。ですが……彼女から私たちが奪ってしまった六年間を、償わせてほしいの」
「いいえ! いいえ! 王妃陛下。償いなど要りません。むしろ私たちの方が頭を下げるべきなのですから」
二人は立ち上がり、深々と頭を下げた。王妃陛下はため息をつき、座るように促す。
「これでは埒が空きませんわね……では、好き勝手にさせていただきましょう。ミゲール、あなた、それでいいわね」
王妃の言葉に国王はうなずき、ミゲールははい、と答えた。二人はおろおろして王妃と国王、ミゲールを見ている。
フィグは拳を握り締めた。
二人は知らないのだ。王宮で、あのお転婆がどんだけ努力してきたか。二人は十四歳になるまでのお転婆ユーマしか知らないから、迷惑をかけたに違いないと思っているのだ。
婚約の破棄について、両親は理由を聞かされていないに違いない。だが、フィグは知っていた。
知っているだけに――殴るしかなかった。
デビュタントから六年、妹が必死でやってきたことは一つも実をつけないまま終わった。一番花盛りだった六年を、王宮に押し込めたのだ。ミゲールの勝手な一存で。
絶対に幸せにすると誓った言葉を、このバカは守れなかったのだから。
そしてもう一人のバカも、フィグとの約束は結局果たせないままだ。
なんて不器用な奴ら。
どうしてこんな結果になったのか……。
フィグは頭をかきむしった。
きっと、どこか最初のあたりでボタンをかけ間違えただけなんだ。それさえなければ、昔のように仲のいい二人でい続けられたはずなのに。
だが、今それを告げたところで意味はないことも、フィグはわかっていた。
だから、沈黙を守る。
「あの、国王陛下、王妃陛下。……お願いがございます」
交わす言葉がなくなり、沈黙が流れたところで子爵が口を開いた。
「娘の社交界への参加義務を、免除してやってはくれませんでしょうか。……それに参加させたところで、今後の縁談は望めませんし、ただいたずらに娘が傷つくだけでしょうから」
王妃とミゲールは目を見張り、それから眉根を寄せて苦しそうにうなずいた。
「ええ、許可しましょう。それに、お二方もお辛いでしょうから無理に参加されなくてもかまいません」
「ありがとうございます……」
ミゲールの苦しそうな顔にフィグは顔をしかめる。
そんなこと、わかり切ったことじゃないか。
王太子から婚約破棄された娘なんてどこの貴族からも相手にされない。しかも噂では、妹が我儘を言って家格を上げてもらったことにもなっていると聞いた。
そんな厄介者、どこも引き受け手なんかあるものか。俺やカレルの縁談だって、ユーマの縁者だってだけで断られるに違いない。
それだけのことをしたんだ。あのバカは。知らなかったとは言わせない。
床をじっと睨みつけている間に、両親は席を立っていた。今日はこのまま王宮内にとどまり、明日こっそり帰宅するのだろう。それが最も安全だ。
ミゲールが立ち上がるのに合わせてフィグも立ち上がった。
二人と、国王夫妻を見送って扉を閉めると、ミゲールに向き直る。
「ところで、俺をわざわざ呼んだのはどういう意味だ」
「別に他意はない。宴には出ていないから部屋に来るように近衛兵に伝えておいたんだ」
「じゃあ、デビュタントは誰がやってるんだ?」
「レオがやってる。あのまま俺が務めるわけにはいかないだろう?」
フィグは目を見開いた。第二王子を呼ぶとは思わなかった。
本来、春の宴では国王陛下と王妃陛下、デビュタントを担当する王太子以外はダンスが終わってから登場するのが習わしのはずだ。
「それに……もう誰とも踊りたくない」
「わがままが言える立場か。……お前は王になるんだぞ?」
「わかっている」
「わかっているなら義務ぐらい果たせ」
「それはお前にも言えることだろうが」
そういいながら、ミゲールは執務机の前に座った。ペンを取り上げて何かを書き留めているようだが、フィグのところからは見えない。
「妹と縁の切れたお前には関係のないことだろう? 王太子殿下」
フィグは皮肉たっぷりに言い放ったが、ミゲールはちらともこちらを見ず、感情をあらわにもせずペンを走らせている。
「……ユーマは関係ない」
「そうかよ、まあ大事な大事なご学友だしな、一応気にしておいてやるけど?」
「好きに言っていろ。……外に立っているリニーを呼んでくれ」
「……承知しました」
ミゲールはフィグの揶揄いににも動じずさっさと切り捨てて、いつもの顔に戻る。主従関係に戻ったと察してフィグは居住まいを質した。
あの時リニーがいなければ、もう二、三発はお見舞いしていただろう。王と王妃の前でとんでもない失態をやらかすところだった。……まあ、すでにやらかしてはいるが。
そんなことを思いながら扉を開けると、近衛兵が五、六人立っていた。
リニーはと見れば、申し訳なさそうに眉尻を下げて後ろの方にいた。
「フィグ・ベルエニー殿。王太子殿下への暴行の件で身柄を拘束します」
「何……?」
「リニー、これを持って行け」
「はい」
とっさに後ろを振り向くと、すぐ後ろにやってきていたミゲールは書き上げたばかりの書類を三つ折りにしてリニーに渡しているところだった。
「ミゲール!」
「暴れないでください、ベルエニー殿。暴れるようなら縄を打たねばなりません」
近衛の一人が苦しそうに告げる。妹が婚約破棄された夜に、兄が王太子への暴行容疑で縄を打たれて連行されるとか、どんなスキャンダルだ。きっと噂好きの令嬢たちは喜んで食いつくだろう。
なんて胸糞悪いんだ。くそったれめ。
結局抵抗をやめる以外の選択肢はなく、フィグはリニーたちに囲まれたまま王太子の部屋を後にした。
これで専属護衛騎士の職を失うだろう。自業自得とはいえ、二度と入ることのないだろう部屋の扉をじっと見上げてから、フィグは歩き出した。




