2.子爵令嬢は家に戻る
からからと馬車の走る音が響いて聞こえます。時折、御者の掛け声と鞭打つ音が聞こえるほど、馬車の中は沈黙が支配しています。
わたくしはそっと向かい側に座る兄上を見つめました。
淡い茶色の髪の毛が、馬車の天井に設えられた魔石ランプの黄色い明かりを受けて黄金色に見えます。騎士団では長い髪は禁止らしくて、耳が見えるくらい短めに揃えられています。昔は背中まで届くくらいに伸ばしていたのが嘘のようです。
騎士の正装だという深紅の服の左胸と肩には徽章が縫い止められていて、獅子が小さな金の星を食らう意匠は、王太子付き護衛騎士の証。
……わたくしの付き添いとして王宮を、いえ、王太子の傍を勝手に離れることなど許されていないのに。
「ごめんなさい、お兄様」
「……なぜおまえが謝る」
ご機嫌斜めのようです。眉間に深いしわを寄せて、わたくしを睨みつけていらっしゃいます。
……いえ、当たり前、ですわよね。わたくしの我儘にお付き合いいただいているんですもの。
「お兄様に仕事を放り出させてしまいました」
睨みつけていたこげ茶色の瞳が見開かれました。それから、さらに深いしわを刻んでわたくしから目をそらしました。
「馬鹿か! どこまで人がいいんだ、お前は」
「……申し訳ございません」
「謝るな! お前はどこも悪くない。悪いのはあのバカの方だ」
「ですが、お兄様……」
「それに、あのままお前を放置できるわけないだろう? お前を家まで送り届けたら戻るから心配するな」
「……ありがとうございます」
「実の兄弟にまで敬語を使うなっていつも言ってるだろう?」
「ですが」
「……ここは王宮じゃない。もう、演技する必要はないんだぞ」
お兄様はそう言って、わたくしの方を見ました。眉間のしわが消えて、眉尻が下がっています。
いいえ、そんな些細なことは関係ありませんわ。
わたくしは目を見開きました。
「気が付いてないとでも思ってたのか。見くびられたもんだな」
「……演技ではありませんわ。わたくしは……」
「だからもういいって。……王太子妃にならなくていいんだ」
ずきりと心が痛みましたけれど、その痛みを無視することにします。
わたくしは――わたしはもう、あの方とは縁が切れたのですから。
「そう……ですよね。もう」
「頑張らなくていい。……あのバカにはよーく言って聞かせるから」
目をそらしてそう呟いた兄上から一瞬、刺すような殺気を感じたのは気のせいだと思いたいです。
――頑張らなくていい。
十四歳のデビュタントの日から今まで、必死で歩いてきました。
王太子の婚約者として、いずれは王太子妃として王妃として、王となる王太子の横に立つために。
頑張れ、頑張れと自分に言い聞かせて。
でも――もう、頑張らなくていいのです。
「父上と母上は今日は戻られないだろう。館では一人になるが、大丈夫か? もし心配ならカレルに戻るように伝えるが」
「大丈夫です。リュイもセリアもいますから、寂しくありません」
わたしは首を横に振って、にっこりと微笑みます。
弟のカレルは騎士になるために全寮制の学校に入っています。春になれば卒業ですが、今は卒業前の大事な時のはずです。わたしの都合で呼び戻すわけにはいきません。
それに、学校のある地域から王都まで、馬を走らせても一晩以上かかるはずですもの、無理はさせられません。
リュイは王都のベルエニー邸を差配する家令、セリアはわたし付きの侍女。彼女たちがいれば、さびしくなんかありません。
それに……ベルエニー領に戻る手配もしなければなりませんし、のんびりしていられません。街道封鎖はもう解けていますし、戻るのに問題はありませんわね。
王宮に置いてきたものは他のものとまとめて後で送っていただけば問題ないでしょう。
「兄様」
「何だ?」
「……わたし、ベルエニー領に戻ろうと思うの」
「そうか」
兄上はほんの少しだけ目を眇めてから頷いた。
ようやく口調が戻ってきたわ。もう、六年もこんな口調でしゃべったことはなかったものね、言葉を探しながらしゃべっている感じですごく疲れる。
六年。……そんなに長く、王宮にいたのね、わたし。
「しばらくはごたごたするだろうからな。その方がいいだろう。……いつ発つ?」
「できるだけ早く。……明日の早いうちには発ちたいの」
「明日? 父上も母上もまだ帰ってこないかもしれないぞ? それに、馬車はどうする」
父上と母上が戻れないのは、きっと婚約破棄の件で国王陛下と王妃陛下につかまっているからね。
明日どころか明後日でも戻ってこられないかも。
でも――衆人環視の下での宣言は、なかったことにはできない。
そういえば六年前、王太子殿下がわたしに求婚したのも、春の宴だったわ。わたしが十四になって、初めて参加するデビュタントの日。
今日と同じようにデビュタントを待つ令嬢の列と、それを見守るご家族の前で、王太子殿下はわたしにプロポーズしたのよね。
あれから、わたしの運命はすっかり変わった。それが良かったのか悪かったのかは分からない。
ええ。本当に分からない。
「馬を貸してもらえれば帰れるわ」
「護衛なしで単騎で帰るつもりか! 冗談じゃないぞ。それだけは絶対に許さない」
……久しぶりに見たわ、鬼の形相をした兄上。これも六年ぶりね。わたしの婚約が決まったと聞いた時以来。
「せめて護衛をつけさせろ。リューイに伝えておくから。でなきゃ俺がついてってやる」
「だめよ! 兄様には仕事があるでしょ?」
驚いてなだめるように言うと、兄上は苦り切った顔で窓の外に目をやった。
「あいつの警護なんてやってられるか。……とにかく俺が戻るまでは家で待機していろ。いいな。絶対に先に動くな。俺が戻ったときに館にいなかったら、お前の恥ずかしい過去をあることないこと全部ぶちまけてやる」
「ちょ、ちょっとやめてよ兄様!」
「完璧令嬢のユーマ・ベルエニーの恥ずかしい過去! 噂好きの女たちはさぞ喜ぶだろうなあ」
にやりと笑った兄上の顔がなんだか黒い。……兄上、一体どこでこんなやり方を覚えたのよ。それに完璧令嬢って何? わたしは全然完璧でもなんでもないわよっ。
「わかったわよ、兄様が戻るまで待ってる。……でもその完璧令嬢って何? 聞いたことないんだけど」
「そりゃそうだろうなあ、本人相手には言わないだろうし。未来の王太子妃としてあちこち招待されただろ。その振る舞いが完璧だったってことからついたらしいぞ」
「そんなこと、当たり前じゃないの」
王太子の婚約者ということは、いずれは王太子妃、王妃になるということだもの。完璧を目指すのは当然だし、わたしが受けた王妃教育ではそれを求められていた。
だから、求められた通りにしていただけ。それだけ。
「まあいい。もう終わったことだ」
馬車がスピードを落として停車した。兄上が先に立ち上がり、扉を開けて降りていく。
わたしも立ち上がり、胸を張った。
過去を振り返っている暇はないわ。これから大忙しになる予定だもの。
わたしが降りると、兄上はもう一度馬車に乗り込んだ。仕事を放りっぱなしで来たんだものね。
「いつでも領地に戻れるように準備はしておけ。馬で持って帰らない荷物も、侍女にまとめさせておけよ。俺が戻るまで絶対動くんじゃないぞ。わかったな」
「わかったわ。お早いおかえりをお待ちしてます」
兄を乗せた馬車の御者をねぎらい、見送ると館の方に向き直る。
玄関でわたしを迎えてくれた家令のリュイは怪訝な顔をしていた。そりゃそうよね、婚約者として王宮に上がってから六年、今までこの屋敷に戻ってきたことがなかったんだもの。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
「ただいま戻りました、リュイ」
「あの……旦那様と奥様はご一緒ではございませんか? それに、フィグ様は……」
去っていく馬車に目をやってリュイは眉根を寄せた。いいニュースではないことに気が付いているのね。
「王太子殿下から婚約破棄されました」
「……えっ」
リュイの目がどんどん見開かれていく。後ろに控えるメイドたちや侍女たちも、息をのんでわたしを見ているのがわかる。すすり泣きすら聞こえてきたわ。
でも勘違いしないでほしい。わたしは喜んでいるの。
「お嬢様……お気落としなさいませぬよう……」
「リュイ」
「は」
わたしはにっこり微笑んで、リュイと後ろのメイドたちに視線を向けた。
「これでようやく自由の身よ。明日には領地に戻るから、準備をしてもらえる?」
「え、えええっ!?」
「それから、母様と父様はきっと今日は戻らないから、そのつもりでいてね。兄様が戻ってきたら知らせてちょうだい。セリアはいる?」
「は、はいいっ! ただいまっ」
後ろに控えていた侍女の中から飛び出したセリアがこっそり目の端を拭ったのが見えた。きれいな赤毛をおさげにまとめたセリアの赤い目がもっと真っ赤になっている。
王宮に上がる前からわたしに仕えてくれている、唯一の侍女。わたしにとっては大事な話し相手で、友達でもある。
王妃教育を受けていた間、ずっとこの館から王宮まで通ってきてくれていた。王宮内に侍女用の部屋も準備できると言ったんだけれど、恐れ多いと首を縦に振らなかったのよね。
今日は春の宴のための準備を王宮の侍女たちがするため、お休みをとっておいてもらったの。まさかこんなことになるとは思わなかったけど、ちょうどよかったのかもしれない。
「明日はわたしと兄様だけで馬で戻るわ。旅支度をお願い」
「う、馬で戻られるんですかっ! 私はお連れ下さらないのですかっ! 首ですかっ」
必死の形相で食い下がるセリアに、わたしはにっこり微笑んだ。
「そんなわけないでしょう? セリアはわたしの大切な話し相手で、友達だもの」
「お嬢様……」
「あなたには、王宮内のわたしの部屋の私物を片付けてきてほしいの。それと、この屋敷に残っているわたしの私物をまとめて、あとで馬車で来てくれる?」
「はいっ! お任せくださいっ」
セリアは他のメイドに声をかけて、家の中へ入っていく。
「リュイ、馬の用意をお願いね。なるべく足の長い元気な子がいいわ」
「わかりました、わかりましたからお嬢様、とりあえず中にお入りください」
そういえば玄関の前だったわね。せめて中に入ってからにすればよかった。控室にも寄らなかったから夜会用のドレスのままで襟ぐりが寒いのよね。
気を利かせた母上の侍女がそっとショールをかけてくれた。ありがとう、と声をかけると目頭を押さえながら首を横に振っている。
リュイに促されて館に入る。六年ぶりだというのに、わたしの部屋はあの日から何も変わっていなかった。机やベッドにほこりがひとつも乗っていないのは、毎日掃除をして、空気を入れ替えてくれていたからね。おかげで客室を使わずに済むわ。
アクセサリーを外し、髪を下ろしてもらってドレスを着替えようと脱いだものの、部屋に揃えられていた服はどれも六年前のわたしのサイズのものばかりで、結局母上の部屋からガウンをお借りした。あとで新品を贈っておこう。
湯あみをした後で部屋に戻ると、セリアが困った顔をして待っていた。
「どうしたの?」
「お嬢様、旅装が準備できそうにないんです。こちらにある服はすべて今のお嬢様には窮屈かと」
「……そうだったわ。抜かったわ」
額に手を当てる。館に帰ればなんとかなると思っていたけれど、六年でわたしも成長していたのをすっかり忘れていた。
「あの、お嬢様」
恐る恐るセリアが声をかけてくる。顔を上げると、思いつめたような顔をしていた。
「なぁに?」
「今から王宮に入ることはできますか?」
「セリア?」
「確か、昨年のシーズンに乗馬服をおつくりになりましたよね? 少し遠出するからと旅装も」
そうだった。狐狩りなどに誘われることがあるからと毎年作っているのよね。
でも、今は春の宴の真っ最中だ。わたしが婚約破棄を言い渡されたのは宴の始まりだったから、宴自体はまだまだ続いているはず。お城の警備はいつもより厳しいはずで、たとえわたしの侍女で王宮にも上がっていたセリアだとはいえ、簡単には入れてもらえないだろう。
「部屋に通してもらえるかどうかわからないわ。それよりは、兄様を呼び出してついていってもらう方がいいかもしれない」
「そういえば、フィグ様はお戻りでしたものね」
「ええ。……そうね、わたしから兄様に手紙を書くわ。それを持って行って、受付で兄様を呼び出してもらって」
「かしこまりました」
わたしは机に座ると引き出しを開けた。そこに収められていたのは、六年前にわたしが買った便箋や封筒。さすがにインクは乾いていたからインクとペンと封蝋を持ってきてもらった。
書きあがった手紙を手に、セリアは部屋を出ていく。その背中を見送って、ため息をついた。
そのあと、ついでだからと父上と母上、兄上とカレル宛てに手紙を書き、国王陛下と王妃陛下、懇意にしていただいた王子様方とフェリス王女宛ての手紙も書きあげたころには日が変わっていた。
だけどその日、兄様もセリアも戻ってこなかった。




