25.王太子殿下は王太子妃の部屋を訪う(3/18)
本日十九時に二本目を更新いたします
春の宴から二週間ほど経った昼下がり。
王太子ミゲールはとある部屋の前に立ってため息を漏らした。
始まりは妹であるフェリスが殴りこんできたことだった。
先触れもなくいきなり入ってきたフェリスに目を丸くしていると、妹はミゲールの手から書類とペンを取り上げた。
「兄上、いつまで腑抜けていらっしゃるんですの?」
「腑抜けてなどいない。仕事はきちんとこなしている」
「そちらじゃありません。ユーマ姉様のことです!」
ユーマ、と妹の口から出てきた名前にミゲールはぴくりと眉を揺らした。
「婚約破棄の手続きは父上から滞りなく済んだと言われている」
「そうじゃないわよっ、愚兄」
愚兄、と妹が自分を呼んでいることは知っていた。が、直接そう呼びかけられたのは初めてで、ミゲールは思わず眉根を寄せた。
「お前……」
「この際呼び名なんてどうでもいいの! ユーマ姉様の部屋、入ったことある?」
「何を言っている。当然あるに決まっている」
月に一度の茶会は、彼女の部屋の応接室で行われていた。もちろん侍女と侍従が立会いのもとであって、二人きりになったことはないが。
「婚約破棄してからは?」
「……行く理由がない」
「はぁ……だから愚兄なのよ。さっさと行ってきなさい」
彼女の侍女が私物を持ち去ったと報告を受けてからもう二週間だ。何もない部屋に足を向けたところで何になるというのだ?
ミゲールが訝し気に妹を見つめると、業を煮やした妹は腕を引っ張って立ち上がらせた。
「ちゃんと現実を見て、自分で整理をつけるといいわ」
「何のことだ」
「いいから、ちゃんと歩いて」
引っ張られるまま連れてこられたのはユーマの使っていた部屋で、扉の前に立ち尽くしている。
フェリスはため息しかこぼさない愚兄に愛想をつかしたのか、とっととどこかへ行ってしまった。
仕方なく、ミゲールは扉の鍵を開けて押し開けた。
誰もいない部屋は明かりが落とされ、掃除もされていないのだろう、少しほこりっぽさが鼻についた。
二週間も経つまでここに一度も足を踏み入れなかったのは、どこかに彼女の残り香がないかと期待してしまうのではないかと自制していたためだ。
だが、それは杞憂だった。彼女はあまり香水や匂いのきつい化粧品を好まなかったからだが、ミゲールは知る由もない。
肩透かしを食らったような気分で部屋に足を踏み入れる。
カーテンが引かれているせいで中は暗い。それでも、こぼれる日の光で大体は把握できた。
応接室から私室へつながる扉を開けて――ミゲールは息を止めた。
本棚には本がほとんどそのまま残されていて、机の上には封筒が置かれていた。
いくつもあるそれは、彼女の手によるものだとすぐに知れた。
いつ、これが置かれたのだろう。
侍女が私物を片付けに来たと聞いたのは、春の宴のその日の夜。フィグと共に送り出したのが翌日の朝だ。それまでにこれだけの手紙を書いて、侍女に託していたのだろうか。あの日からずっと、この手紙はここにあったのだろうか。
答えられる者はいない。
フェリスは自分宛ての手紙のみを持ち去ったのだろう。王、王妃、自分、レオ、セレシュ。五通の手紙がきちんと封をされた状態でそこには残されていた。
のろのろと自分宛の手紙に手を延ばす。
いまさら――いまさらだ。
もう二週間も……この手紙を無視してきたことになる。
仕事に忙しくして、あの痛みを忘れようとしていたのに。
手にした封筒を開けるかどうか、散々悩んだ末、ポケットにねじ込んだ。残る四通も同じようにして、部屋の中を確認して回る。
この六年、何かにつけて贈ってきた品々が、そのままそこにあった。
衣裳部屋には、夜会や茶会用に仕立てたドレスも、普段着用のドレスもほとんどが残っていた。なくなっていたのは、乗馬用の服と最も簡素な服、下着やナイトウェアの一部だけだ。
宝飾品も、すべて置かれたままだった。彼女に似合うものをと選びに選んで贈ったものが、主を失ったせいか輝きを失って見えた。
寝室も、置かれた調度品の何一つなくなっていない。
それが何を意味するのか、ミゲールはようやく理解した。
自分が六年間贈り続けた思いを、拒絶されたのだ。
プロポーズのあとに贈ったイヤリングも、婚約の時に渡したリングも、一切が置き去りのまま。
「くっ……」
ベッドに腰かけて、拳を握る。
思いは、伝わっていると思っていた。
決して嫌って婚約を解消したわけではないと、わかってくれていると思っていた。
それは――自分の独りよがりだったのだと。
彼女を強引な形で王太子妃候補に仕立て上げたことは自覚している。
自分の勝手な思いであったことも、彼女に自分に対する思いがなかったことも、わかっていた。
それでも、時間をかけて思いを伝えてきたつもりだったのに。
「これは……堪えるな……」
両手で顔を覆って、ため息をつく。
身近に置くことで危険にさらすならいっそ遠ざけて見守るだけでいい。それは、最愛の人を守るために選んだ道だった。
だが。
それすらも拒絶された。――ミゲールはそう読み取った。
一切関わるなと、一方的に捧げる思いすら不要だと。そう、面と向かって突き付けられた気がした。
「愚兄」
どれぐらいそうしていたのだろう。
呼ばれてのろのろと顔を上げれば、フェリスが目の前に立っていた。腰に手を当ててふんぞり返ったその姿から、怒っていることは読み取れる。
「何の用だ」
「……手紙、読んだの」
言われてようやく、ポケットにねじ込んだ手紙のことを思い出し、五通とも引っ張り出した。
横で妹がしわがどうのとごちゃごちゃ言っているのを聞き流して、自分宛の封筒を取り上げる。
「今更読んでどうなる」
「……だからヘタレだっていうのよ。わざわざほとんどの貴族が居並ぶ春の宴で晒し上げるように婚約破棄しておいて、その結果をまさか想像しなかったなんて言わないでしょう?」
「当たり前だ」
「なら、ちゃんと受け止めて。――たぶん、ミゲール兄様はまた勘違いしてるはずだから」
「勘違いなど」
笑い飛ばそうとして失敗した。頬の筋肉が全く動かない。
「だから言ってるのよ。兄様ったら王太子のくせにすっごく視野が狭いんだもの。ユーマ姉様のことになるとなおさらよね」
「……うるさい」
「その手紙、読みなさいよね。……ううん、封を開けるのが怖いんなら、わたくしが開けますわよ」
じろりとフェリスを睨みつけて、ミゲールは手の中の封筒に視線を落とした。
読め、と妹は言う。
本音を言えば、このまま細かく破り捨てたかった。読みたいけど読みたくない。読めないようにしてしまえば、あきらめもつく。
期待と恐怖のないまぜになった状態でしばらく封筒を睨み据えていたが、結局ため息一つ落として封を開けた。
折りたたまれた便箋を開くのも躊躇した。が、ここまで開けてしまえば今更だ。
乱れる心の内をぐっと押し隠して、ミゲールは便箋を開いた。
『王太子殿下 ミゲール様
六年もの長き間、何くれとなくお心を配っていただきありがとうございました。
そのお心に沿える者になれなかったわたくしをどうかお許しくださいませ。
いただいた品は、王太子妃殿下となられます方へお渡しするのが筋かと思いますので、残してまいります。
お渡しいただけますと幸いです。
お気持ちだけ、頂戴していきます。
末筆ながら、ミゲール様の幸せを心より願っております。
ユーマ』
読み終えて、ミゲールは口元をゆがめた。喉の奥でくつくつと笑うと、顔を上げる。
――少なくとも、嫌われてはいなかった。
「何が書いてありましたの? ミゲール兄様」
フェリスが心配そうに覗き込んでくる。ミゲールは手にした便せんを妹に渡した。妹はしばらくその文面をじっくり眺めていたが、やがて深くため息をついた。
「ユーマ姉様って……やっぱりずれてますのね。まあ、そこがいいんですけれど……」
「ああ。……まったくな」
他の女に贈られた品を贈られて、喜ぶ女は皆無とは言わないが少数派だ。
そして、王太子妃に望んでなろうかという女性が、少数派である可能性は極めて低い。
残していったところで、誰にもわたるはずのない品々なのだ。
「だが……」
ミゲールは目を細めた。
ユーマに、これらがそもそも自分個人に贈られたものだという認識がなかったのだとわかったのは僥倖だった。
思いを拒絶された証拠でないのなら、絶望する理由がない。
「で、どうなさいます? 愚兄。気の早い者たちが、この部屋の明け渡しを要求してきていますでしょう?」
ユーマが使っていたのは、王太子妃の私室であり、王太子ミゲールの部屋とは寝室をはさんだ反対側にある。
むろん、まだ婚姻を済ませていないので、間に挟まれた寝室への鍵はどちら側の扉もしっかりかけられたままで、使われたことは一度もないのだが。
婚約破棄が成立したと言ってもまだ一月も経っていない。心の整理がつくまでは忙しいことを理由に、先延ばしにするつもりだった。
「フェリス。お前付きの侍女の中で信頼のできる者を貸してくれ。どの派閥ともつながりのない、秘密を守れる者を」
「それは……かまいませんけれど、何をさせるおつもり?」
「この部屋の片づけを頼む」
「……もう、忘れるつもりなんですの?」
妹の言葉にミゲールはうんともいやとも言わなかった。
それまでの悲壮感漂う表情が消えて穏やかに微笑む兄に、フェリスは肩をすくめた。
「わかりましたわ。……片付けるのはいいですけど、置き場所はどうしますの? 部屋を明け渡すために片づけるのでしたら、ここに置いておくわけにはいきませんでしょう?」
「大丈夫だ。明け渡すのは新たに王太子妃候補が決まってからと伝えておく」
「それでは、ユーマ姉様に心残りがあると思われますわよ?」
「……お前、意地悪だな」
妹の言葉にミゲールはちくりと心が痛んだ。
心残りがないはずがない。
だが、自ら破棄した婚約に心残りがあるはずがない、と周囲の者は思い、早々に彼女の痕跡を消そうとしているのだ。
現に、こうやって部屋の明け渡しを迫っている。
ミゲールとしても、それで間違いはないのだ。表向きは。
「かまわない。……すべての荷物を梱包し終えたら、教えてくれ」
「ええ、それはかまいませんけれど……何か企んでいらっしゃいます?」
首をかしげる妹に、ミゲールは口角をあげて「内緒だ」とだけ告げた。




