1.子爵令嬢は婚約破棄される(3/3)
「ユーマ・ベルエニー。君との婚約を解消する」
今日は王室主催の春の宴。
十四になる貴族の娘にとっては大事な、生涯で唯一度の社交界デビューの夜。
だというのに、祝いの日にふさわしくない言葉がホールに響き渡りました。
わたくしの目の前には、銀髪を美しくなでつけ、白地に銀の刺繍が施された衣装に身を包んだ王太子ミゲール様が立っておられます。
デビュタントは麗しの王太子様と必ず踊れるとあって、貴族の家に生まれた令嬢は春の宴を心待ちにして年を数えるんです。
もしかしたら見初められるのではないかと心を躍らせながら。
真っ白なドレスを身にまとい、緊張と期待に震えながら王太子様とのダンスを待ち望む令嬢たちが列をなし、ご家族がご令嬢の晴れ姿をその目に収めんと熱い視線を向ける中で。
いつもなら、王太子様がわたくしに手を差し伸べてファーストダンスに誘い、一曲目を踊ってからデビュタントの令嬢とのダンスが始まるはずの宴の開まりに、王太子様はわたくしとの婚約破棄を宣言なさったのです。
わたくしはホールの真ん中で微笑みをこわばらせて立ち尽くします。
奏でられていた音楽は気が付けば止んでいて、ざわめきはいつの間にか消えていました。
ぴたと据えられた王太子様の視線を受け止めたまま、手にしていた黒いレースの扇を開いて口元を隠します。
……微笑んでいることに気づかれないように。
年を追うごとに、王太子様の態度や視線が冷たくなっていたのは気が付いていました。いつかこんな日が来るかもしれない、と思ってはいましたけれど。
こんな衆人環視の元で婚約破棄をしてくれるなんて。
目を細めてぐっと奥歯を噛みしめます。こうでもしないと、目が笑ってしまうのです。
でも、どうやらわたくしが涙を我慢しているように見えたようですわね。
ぐるりとわたくしたちを囲んで固唾をのんでいるご令嬢の間から、もらい泣きと思われるすすり泣きの声が聞こえましたから。
もちろん、それ以上に婚約破棄されたわたくしを笑う令嬢の声も聞こえましたけれど。
……当然ですわね。
もともと無理な縁談だったのです。王太子様と男爵令嬢……いえ、今は子爵令嬢ですけれど、それでも釣り合いませんし、何よりわたくしとの婚姻は王家に何の得もありません。
ベルエニー家は昨年まで男爵家でした。取り立てて何か特産物があるわけでもありませんし、王家に提供できるような利益もございません。野心も出世欲もわが父にはありません。後ろ盾としては全く無力なうえ、豊富な財源があるわけでもありません。
強いてあげるとするならば、北の大地で育った寒さに強い馬ぐらいでしょうか。騎士団に納入させていただいておりますけれど、その程度です。
そんな下級貴族の娘がどうして王太子様の婚約者が務まりましょうか。
わが家が子爵になったのも、父の功績が認められたというのは表の理由、王太子様と少しでも釣り合うようにと家格を上げようとしたものだとも聞き及んでおります。
だから、わたくしは抵抗いたしません。
こうなるのは、わかり切っていたのですから。
「……そうですの」
口元を隠したまま、わたくしは王太子様にお言葉を返します。
……これで、自由になれる。
中庭に面した窓から吹き込んできたのでしょう、ふわりと頬に冷たい風を感じます。それは、我が領……北のベルエニー領の冷たい風に似ている気がしました。
向こうの方で誰かが倒れた音がします。きっと父上か母上でしょう。
ご心痛をおかけして申し訳なく思っております。ですが……わたくしにとっては、きっと最後のチャンスだと思うのです。いいえ、こんなチャンス、二度とありませんわ。
我儘を通す馬鹿な娘をお許しください、父上、母上。
「……理由は、聞かないのか」
王太子様の声が聞こえます。
そういえば、こんなにも長く王太子様の澄んだ青い瞳を見つめ続けたのは、初めてかもしれません。わたくしか王太子様か、どちらかがすぐ視線を外していましたものね。
わたくしは目を伏せ、首を横に振りました。聞かなくてもわかりますもの。
「今までわたくしが婚約者であったこと自体が間違いだったのですから」
再び目を開けた時には、王太子様も視線を外してうつむいていらっしゃいました。
さあ、あとは退場するのみです。
生涯一度のデビュタントを待つ皆さまを、これ以上お待たせするわけにはいきませんもの。最高の社交界デビューを汚してしまったことはどれほど言葉を尽くしても許されはしないでしょうけれど……。
「では、ごきげんよう。王太子殿下。国王陛下、王妃陛下。自領より、皆様のご多幸をお祈り申し上げます」
わたくしは目の前の王太子殿下、さらには数段上に着座なさっておられる国王陛下と王妃陛下に向けて深々と腰を折ります。
出口へと足を向けようとすると、兄上が仏頂面で立っていました。
……そうですわ、兄上まで巻き込んでしまいました。
兄は王太子殿下とは騎士養成学校の同期で、王太子殿下がいずれ王に即位された時には側近になるともっぱらの噂でした。
この婚約破棄が影響しなければよいのですが……。それだけが気がかりです。
皆様が道を開けてくださいました。
いろいろな思惑を含んだ視線が向けられていることは自覚しています。
わたくしを王太子殿下の婚約者としてふさわしくないとおっしゃっておられた方は多くございましたから、いい気味だと思われているのでしょう。
王太子妃の座を狙う令嬢の方々にとっては千載一遇のチャンスですわね。
わたくしが婚約者になる前まで、最有力だと言われていたお三方が一番前に立って、口元を扇で隠しながらわたくしを見ていらっしゃいます。
赤いドレスが印象的な黒髪のウェルシュ伯爵令嬢シモーヌ様。
薄黄色の襟ぐりの広いドレスに流れる赤髪の美しいアーカント侯爵令嬢ミリネイア様。
緑色のグラデーションが美しいドレスに映える金髪のチェイニー公爵令嬢ライラ様。
皆さま、わたくしなどよりよほど美しく、気高く、賢いお方です。
わたくしがいなければ、きっとお三方の中から王太子殿下の婚約者は選ばれていたはずなのです。わたくしが婚約者となってからも、お三方は王妃教育を続けられていると聞きましたもの。
だから……きっとお三方のうちどなたかが王太子妃になるのでしょう。
涙をこぼしてくださるご令嬢もいらっしゃいました。……わたくしを惜しんでくださる方もいらっしゃるのでしょうか。お会いしたことのない方なのでわかりません。
ですが……わたくしはこれでいいのです。
今日の宴では第一王女フェリス様もデビュタントのはずです。王太子殿下がデビュタントの令嬢たちと踊り終わったあとに、ダンスを披露されるはずでした。
彼女や第二王子がまだいらっしゃらないうちに済んでよかった。きっとフェリス様がいらっしゃったら……こんなにすんなりと立ち去ることはできなかったでしょうから。
そういえば、きちんと皆様にお別れをする暇がありませんでしたわね。でも、仕方がありません。領地に着いたらお手紙を差し上げることにしましょう。
王宮のわたくしの部屋は、後ほどベルエニー家のものを遣いにやりましょう。私物を引き上げねばなりませんものね。
出口の前で、兄上とともに振り返ります。
二度とこないであろう場所に頭を下げ、わたくしは王宮を去りました。




