180.子爵令嬢の弟もため息をつく
お待たせしました。
ハインツ領を出て二日目。
王子一行は王都まで三日で行くつもりらしい。
正直、ハインツ伯爵家で間借りした兵舎の硬いベッドが恋しい。
早朝、人の目を避けて出発した後は、一度もまともな休みを取ることなく走り続けている。ちらっと兄上に聞いたところ、行きも同様だったらしい。
三日でベルエニーまでって、狂気の沙汰としか思えない。しかも軍属でない王太子を連れて。
何考えてんの、と思わず言ったけれど、兄上は眉根を寄せるだけだった。
……まあ、あの場面を見た後だから、何がなんでも阻止したかったのだろうことはわかる。
兄上の一声で結局ない話になったけれど、そもそも兄上が知ってたわけで、追いついた時点で説明して引き返させればよかったんだ。
なのに最後まで口を挟まなかったのは、そのことに気づきもしないことに、落胆していたのかもしれない。
まあ、王太子殿下にとってはそんなこと、どうでもよかったのかもしれないけれど。
でも、俺たちにとってはそんなこと、と笑い飛ばせない。ここは前線で、ただ一時的に休戦しているだけ。
休戦は長くづづいているとは言え、予断は許されない。
……兄上が戻れないからこそ、俺が戻るつもりだったのに。
過ぎたこととはいえ恨みを込めてセレシュを横目で見るが、本人にはどうやらそんな余裕はなかったらしい。
馬を走らせながら目をしょぼしょぼさせている。
そういや学院からベルエニーまで走った時も似たような状態だった、と思い出す。
あの時も馬上でうたた寝して何度も落馬しかけていた。町に寄らず野宿のみの強行軍だったから、無理もないと思ったのだが、今回はあの時の上を行く過酷さだ。
……まあ、ベルエニーに何か異変があれば、馬を乗り継いで三日で戻れることが分かったのは、嬉しい誤算だが。
前方でレオ殿下が片手を上げる。両脇を固めていた近衛兵が馬を駆って先行するのに合わせ、レオ殿下は馬の速度を落とす。
「少し行ったところに開けた場所がある。そこで昼食にする」
昼食、と聞いて気が抜けたのだろう。一行から声が漏れる。熟練の近衛騎士にとってもこの行軍は辛かったようだ。
ちなみに、近衛というと王宮で王族の護衛ばかりしているイメージがあるが、レオ殿下の配下は違う。実力主義の本物だ。
制服横流し事件で関わって思い知った。学院出たてのひよっこなど、比較対象にもならない。どれだけ学院の成績がよかろうと、現場ではなんの意味も無さないのだと。
彼らからは、北の砦の奴らと同じ匂いがする。
レオ殿下の配下も近衛には珍しく身分に差をつけていない。色々な立ち位置の人間がいて、見方も違えば常識も違う。思いもよらない視点からの指摘に何度驚かされたことか。
あちこちから引き抜きの話が舞い込んでいるそうだが、レオ殿下が手放したがらないのもよくわかる。
事件の際に会った中には見知った顔が一つならずあった。おそらく、北の御大の目に適った者をレオ殿下の配下に加えているのだろう。実力主義の点では同じだから。
そんな中に王太子殿下が紛れ込んでいるのだが、セレシュは気づいていないようだ。教えるつもりもないし、レオ殿下や兄上からも教えるなと言われている。曰く、軍事機密なのだそうだ。
……まあ、王太子が近衛兵に扮して街中を闊歩していると知られれば、間違いなく何人か首が飛ぶだろうからな。兄上も含めて。
ちらりと視線を向ければセレシュは眠たげな眼をこすって馬上で大きく伸びをした。
この様子だと、帰り着いたら一週間は使い物にならないだろう。
まあ、もともと視察団参加者は戻ったら二週間休みになるとは聞いている。
そういえばこれほどまとまった休みは初めてだ。とはいえ帰省するには短いし、そもそもベルエニーから戻ってきたばかりだ。
参加者の中にはプロポーズしに故郷に戻るとか遅い新婚旅行に行くとか言う者もいる。子供たちと存分に遊ぶとか、奥方と睦み合うとか……いやまあ、それ以上は聞かないでおいた。
騎士と言えども男である。その点だけは学院の連中と変わらないってことだけは付け加えておく。
「そうだ、カレル」
休憩場所に辿り着いて馬から降りた途端に元気になったセレシュは、目を輝かせながらこちらに寄ってきた。
「休みは何か予定はあるか?」
「特には」
「帰らないのか?」
「……は?」
「いや、帰るならついて行こうかと」
……馬鹿なのか?
王都に着いて引き返した頃には山の封鎖は終わっている。終わっていなかったとしても、たどり着いたら次に出られるのは来年の春だ。
説明、したよな?
「いや、やっぱりいい。一人でも……」
「入れませんよ。山道が封鎖されるんで」
戻る、と言いかけたセレシュの言葉を遮ると、ようやく思い出したようだ。
それより何より。
あれほど手厳しく振られておいて、何でまだ姉上に懸想しているんだ。諦めが悪いにも程がある。
「戻ってどうするんです?」
すると、セレシュは眉を寄せるとぷいと横を向いた。その視線の向こうには、レオ殿下と何やら話している兄上の姿がある。
「……直接断られたわけじゃないから」
……いや、直接全力で拒絶されていただろうに。
そもそも、何故それほど姉に執着するのだろう、セレシュといいレオ殿下といい……アレといい。
騎士に混じって食事の用意に勤しむ黒髪の王太子に目をやって、俺は深々とため息をついた。