177.第一王女は歯噛みする
「まったく、何してくれてるのかしら、あの愚兄どもはっ!」
馬車の中でフェリスは不機嫌を隠さない。
侍女のオリアーナからは時々たしなめる言葉が飛ぶものの、外に漏れるほどの大声というわけでもないからか、本格的な叱責には至らない。
出発前に少し話して、馬車に戻った後のことだった。
不安はあった。
セレ兄様が何かしでかすんじゃないかと。
そう思っていたのに、レオ兄様の出現でつい、警戒を解いてしまった。
……ううん、レオ兄様がいれば、セレ兄様も変なことはしないはずと安心してしまったのよね。
まさか、レオ兄がやらかすなんて思いもしなかった。
しかも、自分が離れた後。自分の見ていないすきに。
知った時にはもう、全て終わった後だった。
すぐにでも駆けつけたかった。
行って、二人をボコボコに殴りたかった。
なのに、自分だけここにいて仲間はずれで。
馬車を飛び降りようとしたのにオリアーナに阻止されてしまうし。
姉様をお慰めすることすらできなかった。
「ああもうっ、なんでこんなタイミングなのよっ!」
まだこちらに滞在する予定なら、傷ついた姉様を慰められるのに。
王都に着いて手紙を書くんじゃ十日も先になっちゃうじゃないのっ!
「このタイミングだからでございましょう。別れ際ならば、振っても振られても、しばらくは顔を合わせずにすみますから」
しれっとオリアーナが答える。
そんな理由をさらっとすぐに出せるあたり、やっぱり経験があるのかしら、と見つめると、一瞬だけオリアーナが顔を歪めた。
「……経験談じゃありませんからね」
「なんで」
「そんなキラキラしい顔で見られれば誰にだってわかります。それよりお嬢様。ライラ様がいらっしゃることをお忘れではありませんよね?」
そういえばと視線を向ければ、金髪の公爵令嬢がにこりと微笑む。
「わたくしのことは気になさらないでくださいませ。少し考えたいことがありまして」
「そう」
短く答えるフェリスに頷いて、ライラは再び視線を宙に向ける。
フェリスはちらりとライラを見た。
人のいる場所では完璧な貴婦人の顔をするライラが、馬車に同乗しているのに表情を装う様子がない。
その程度には気を許してくれているのかもしれない。
初めて手紙を受け取った時は、こんな風に同じ馬車で時を過ごすなんて不可能だったものね。
姉様を追い出した原因の一人だと、本当に思っていたから。
……まあ、実際に何もなかったとは思っていないわよ。
流石にあの時は……心臓が止まるかと思ったもの。
でも、彼女たちが姉様を本当はどう思っているのか、もう知っているから。
視線を窓の外に向ける。
流れていく景色の分だけ、姉様のいる土地から離れていく。
まだ出発してさほど経っていないのに、もう帰りたくて仕方がない。
ここに来た時のことを思い出す。
姉様の姿が見えた途端にもうダメだった。
本当はきちんと視察団の一員として、館に着いて身なりを整えてからご挨拶する予定だったのに。
旅装のままで飛び出してしまった。
オリアーナにこってり絞られたけれど、我慢するなんてできなかったもの。
姉様とずっと一緒にいたかった。
収穫祭を少しだけでも一緒に回れたのは本当に良かった。
公務で祭りに出ることはあったけれど、あんな風に街を歩くことなんてなかったもの。
兄上たちはよくお忍びで出かけているらしいけれど、わたしは女の子というだけでダメだって。
だから、姉様と歩けたのは本当に嬉しかった。……まあ、トラブルもあって、そうそう一緒にはいられなかったけど。
心残りがあるとしたら、姉様が馬を走らせる所と剣を持つ姿を見られなかったことかしら。
セレ兄様から散々聞かされていたのよね。
髪をなびかせて馬を駆る姉様がとても美しかったって。
トラブルさえなかったら、姉様と遠駆けもおねだりできたかもしれないけど……。
姉様が剣を振るうところも、是非見たかったのに。
セレ兄様だけが知っている姉様って、なんだか悔しいもの。
ああ、本当に心残りだわ。
「来年こそ……」
「ええ、そうですね」
不意に声をかけられて振り向くと、ライラがこちらを見ていた。
独り言をつぶやいただけだったのに、同じことを考えていたなんて。
目を丸くするフェリスに、ライラは美しい微笑みを見せた。
「来年こそ、素晴らしい闘技会にしてみせますわ!」
「……え?」
ライラの目がいつもになく輝いていた。頬が紅潮している。
「もっと前もって準備をして、秋口、いいえ夏の終わりにはこちらに来なくては。そうなると、シーズンの後半を不在にすることになりますわね……」
「あの、ライラ?」
「もちろんフェリス様も来年ご一緒しますわよね?」
「え、ええ、できれば」
「では、是非とも今から掛け合って、来年の予定に組み込みましょう」
「……ええ、そうね」
フェリスはとつぜん人の変わったようなライラに驚きつつも、首肯する。
姉様のそばに居られるのなら、なんだって構わない。ライラが何を企んでいるのかは知らないけれど、姉様に仇なすようなことはしないのはわかっている。
なら、乗っからないわけがない。
フェリスはにっこりと微笑み、ライラの手を握った。
「必要ならわたくしの名を使っても良いわ」
その言葉に目を見開いたライラは、とても艶やかな共犯者の笑みを浮かべた。
ーー来年行われるベルエニーの闘技会に『フェリス杯』とつけられることや、優勝者への褒美のキスを授ける役目になることがこの時点で決まったとは、誰も知らない。