175.王太子は歯噛みする
馬車が動き出す。
窓の隙間から、ほんの少しだけでも見えればと目を凝らしていたが、前に陣取るレオの体にすっかり隠されてしまっていた。
本格的に走り始めてようやくレオは窓の前から退いたが、その向こうにはもう見たかったものはない。
落胆を隠して視線を弟に向けると、にやりと笑う。
「最後に一目見たかった?」
それを肯定も否定もしない。……これ以上、無様な姿を見られるわけにいかないからだ。弟にも、フィグにも。
視界の端に映る護衛騎士は、いつもと違って同じ馬車の向かい、扉のそばに座っている。
出発の時には外にいたはずなのに。
「なぜフィグがここにいる」
「兄上がここにいるって喧伝してるようなものだからね」
レオの言葉にミゲールは顔をしかめた。
確かに、フィグが自分の護衛騎士であることは知られている。単独でこんな場所にいるとは思うまい。しかもお忍び用の黒い馬車に随伴するとなれば、推して知るべし、だ。
……そんなことにすら頭が回っていなかった自分に、今更ながらに気付かされた。
フィグが出来るだけ人目につかないルートを選び、夜も馬を走らせた理由の一つだったのだ。
ならば、ここまで来る時も姿を隠しておくべきだった。
なのに、ハインツからここまでの道のりを、レオは護衛騎士として随行させている。
咎めるように弟を見れば、肩をすくめた。
「ベルエニーに向かう分には里帰りと誤魔化せただろう。けど、二人揃って王都に向かうとなるとね」
「……まあ、な」
フィグの苦々しい言葉にレオが頷く。
そうだ、今回の視察にはセレシュが随行している。もちろん護衛騎士のカレルもだ。
護衛騎士が二人揃っているとなれば、いかにベルエニー出身だからといって、偶然では済まされない。
「まあ、山を降りるまでだよ。ハインツ領からは騎馬で一気に戻るから」
「護衛は足りるのか?」
フィグが心配げに聞くと、レオは笑い飛ばした。
「兄上と二人でここまで来たあなたには言われたくないな」
「そりゃ、俺だけじゃなかったからな」
「今回も同じです」
レオの回答に納得したのだろう。フィグは頷くと背もたれに体を預けた。
「ところで兄上、なぜ逃げたんです? 弁当、受け取ればよかったのに」
レオの自分に向けた質問に、ミゲールは眉をひそめる。
弟の取り計らいで最前列に並ばされた自分に、ユーマが何度か視線を向けてきた。
髪色も服装も、およそ普段の自分とは結びつかないだろうに、なぜこちらを伺うのか。
まさか気づかれたのかと逃げようとすら思ったのに、それを許されるはずもなくて。
前に遮蔽物もなく眺められることに喜び、目の前で繰り広げられた茶番に歯噛みして、でも目をそらすことはできなくて。
結局、自分もユーマも、いや、レオやセレシュでさえも、フィグの手のひらで転がされて。
感謝と憤懣とがいまだに身のうちにくすぶる。
どれもこれも、冷静になって考えればすぐ気付くレベルの仕掛けだった。
ユーマが絡むだけで、どれほど余裕をなくしているのか。それは、今後を考えれば致命的な隙になるだろう。
それでも、あがきたい。あがけ、とフィグに言われずとも。
ハインツの兵に弁当が配られると聞いて、しかもユーマがワゴンを押してこちらに来るのが見えて、逃げるしかないと思った。
……もし、自分がここに、公務を振り捨ててきていると知られれば、二度と微笑んではくれないだろう。
それがわかっていながら、この選択をしたのは自分だ。気がつかれた時にはもう、何もかも捨てるつもりだった。
が。
「ハインツ伯爵は気がついておいででしたよ」
「……ベルエニー子爵もだろう?」
ミゲールは両膝に肘をつくと頭を抱えた。聞こえてきた別れの挨拶で気がつかされた。
自分のこの姿を、あの二人は知っている。
あんな昔のことだというのに、どうして気がつくのだろう。
孫を連れて挨拶に来たハインツ伯爵の目は、はっきりと自分を見ていた。
小言は覚悟している。
……ことによると、国王夫妻への苦情も預かることになるかもしれない。
自分とレオの子供じみた諍いが、なんと醜いことになったことが。
深々とため息をつくも、じゃああの時、何もなかったかのような顔をして、レオを送り出せただろうかと考えれば、否と答えが出る。
もう、答えは出ているのだ。
ジロリと弟を見れば、楽しそうに薄く笑っている。
「まあ、一芝居打った甲斐はあったみたいだし。……もう諦めようとするなよ、兄上」
「お前にだけは決してやらん」
「……その前に、ユーマに捨てられなきゃな」
フィグの言葉でミゲールは沈黙する。
あの涙を、自分勝手に喜んではいけない。
手を離すためにわざと傷つけた。ゆっくりとだが育っていたはずの信頼を裏切ったのだ。
それを、未だに思ってくれているなどと思い上がってはならない。
「ゼロじゃなくてマイナスからのやり直しか。前途多難だねえ、兄上」
「自業自得だがな」
二人の言葉に返す言葉もない。
春まで雪に閉ざされるベルエニーと王都は遠い。想いを伝えること一つ、ままならない。
長い道のりになるな、とため息をついて、流れ去る窓の外に目をやった。