173.子爵令嬢は第二王子に謝罪をされる
わたしは兄上の上着を握り込んだ。
しばらく張り詰めた雰囲気の中、馬と兵士たちの立てる音だけが風に乗る。
どれくらいそうしていたのだろう。
ため息とともに、砂を踏む足音と衣擦れの音がして、二人が立ち上がったのだと知れる。
「我々の負けだ」
「兄上っ」
レオ様のいつもの声音に、ほっとして手の力を抜く。兄上の上着から手を外せば、しっかり皺になってしまっていた。
「諦めるのですかっ」
「フィグの言う通りだろう? ここに我々はいなかった。いない者が名乗れるはずもない。名無しが子爵令嬢に求婚したところで、ただの茶番だ。……そう言うことでいいか?」
レオ様の最後の言葉は兄上に向けてのものだろう。
ちらりと顔を上げて伺うと、兄上は苦り切った顔で二人を見ている。
「そう言うことも何も、最初からそのつもりだったろう」
「まあね」
「最初からってどういうこと、レオ兄」
セレシュの声に焦りが乗る。
「さっきのレオ兄の言葉はただのお遊びだったって、嘘だってこと?」
「……さてね」
怒りに満ちたセレシュの言葉に対して、レオ様は軽く流すように返す。
「だとしても、俺は本気だった。本気でユーマに求婚したんだっ! レオ兄と一緒にされたくないっ!」
「別に一緒にはしていない」
いきり立つセレシュ殿下に答えたのは兄上だった。
ため息混じりにそういうと、わたしを囲っていた腕を外し、二人の視線から隠すように前に出た。
「俺は兄として、妹には幸せになってほしいと思っているだけだ。名乗れもしない男に、求婚の機会を与えただけでも感謝してほしいもんだな」
「だからってっ!」
「聞きわけろ、セレシュ。……失礼な真似をして申し訳なかった、ユーマ嬢」
兄の陰からそっと見れば、レオ様が頭を下げている。
「ただ、あなたをからかうつもりや傷つけるつもりであんな真似をしたのではないことだけは、信じてほしい」
顔を上げたレオ様は、いつもの軽やかで艶やかな笑みを消して真剣な表情だった。
確かに驚いたし、自分の意に反して自由を奪われることへの恐怖はまだ消え去ってくれてはいない。
「……では、どういうつもりだったのですか」
毅然と言いたかったけれど、声の震えは隠せない。
レオ様は目を見開くとぎゅっと眉根を寄せた。
「それは言えない。……でも、私か遊びで女性に求婚することはないのは知っているよね」
レオ様の言葉にわたしは頷いた。
レオ様はご自身の、第二王子の立場をよく理解されていた。
年齢から考えても、婚約者候補の一人ぐらいいて当然なのだけれど、兄……あの方が結婚して子を授かるまでは婚約も結婚もしないと誓っている。
この話を正式な婚約後に王妃陛下から伺った時は驚いたもの。
そして、わたしの担う重責も理解したのだけれど……。
ともあれ、レオ様は女性には人気だけれど、決して誤解されるような言動はなさらなかった。
なのに……。
「兄上、では」
「……お前は少し黙りなさい」
セレシュ殿下をひと睨みで黙らせると、レオ様はいつもの微笑みを浮かべた。
「俺はね、ユーマ。誰の隣にいようとも、君が幸せであればそれでいい。君が幸せであるために必要なら、俺は悪役にもなるよ。……だから、本気だけれど本気じゃない」
レオ様の言葉にわたしは黙り込む。
レオ様がここでわたしに求婚することに意味があったのだということは、読み取れた。
でも、その真意がわからない。
兄がお忍びであることを理由に断るのも、レオ様の中では既定事項だったようだし、どうしてわざわざ、しかもこんな公衆の面前で。
ハッと気がついて周りに視線を巡らせる。
ここは密室でもなければ秘密の庭でもない。
周りには何十人と護衛も騎士も我が家の使用人もいる。我が家だけではなく、ハインツ家の者だっている。
間諜だって見ているに違いない。
こんな状況で、わたしにお遊びの求婚をして、一体何の意味があるの?
誰が喜ぶのよ。
しかも、断られるの前提だなんて、する方もする方だけれど、される方もいたたまれないのよ。
なのに。
まるで、わたしが幸せになるためだ、なんて。
どうして放っておいてくれないの……せめて祭りが終わるまで。
わたしはちゃんと自力で立つから。……立てるようにならなきゃいけないの。
いつまでもここにいるわけにいかないのはわかっている。
邪魔をしないで。
「ユーマ」
頭上から声がして顔を上げると、兄上がこちらに向き直っていた。
「辛いようなら中に入ってろ」
「……いいえ。大丈夫です」
そうよ。
今のわたしはホスト側の人間。父上がいらっしゃるまでもてなすのがわたしの役目。
……こんなことで心折れていては、騎士なんて務まるはずもない。
丸めていた背筋を伸ばし、顔を上げて。
口元には常に笑顔をたたえ、にこやかであれ。
……あれほど嫌だと思っていた王太子妃教育を思い起こして、自分を組み立て直していく。
目尻に残った雫を拭って兄上に微笑みかけると、怒っているのか笑っているのか、よくわからない顔をしていた。