170.子爵令嬢は予期せぬ客に戸惑う
扉の開く音に振り向けば、セレシュがカレルを伴って出てきたところだった。
フェリスを迎えに行ったはずなのに、彼女の姿はない。セレシュの護衛騎士たるカレルがセレシュの後ろを歩くのは分かるけれど、護衛が護衛対象を伴わないのは、まずいでしょう……?
とはいえ、先ほどの会話のせいで気まずくて、歩いてくるセレシュから視線を外した。
「フェリス様は一緒じゃないのかしら。セレシュ殿下はフェリス様の護衛のはずですわよね」
「ああ……全く」
ライラ様の質問に答えるウェイド侯爵の顔は苦り切っている。
セレシュ王子はやりたいと思ったことを我慢しないところがある。春にここに押しかけたのも、弟カレルを押し切ってのことだったそうだし。
若さゆえのことでもあるからと、上の二人も陛下たちも許容していた。
でも、ここは王宮内ではない。
我が家の者たちもハインツ家の者たちもいる。
私人として動くべき時ではない、騎士団の一員として動くべき場面で、王女の護衛は決して放棄して良い任務ではない。
……でも、そうさせてしまったのがわたしの言動なのだとしたら、責任の一端はわたしにもあるわけよね……。
「あいつ、任務も忘れて……おい、セレシュ! フェリス様の護衛はどうした!」
苛立つウェイド侯爵の声と前後して、再び扉が開いた。
「セレ兄様っ!」
はっと顔を上げれば、フェリスが軽装のまま走り出てきたところだった。長いローブを踏まないようにたくし上げ、ケープすら羽織っていない。そうでなくとも気温の下がった朝なのに。
わたしは小走りになりながら自分の羽織っていたショールを脱いだ。
途中で焦り顔のセレシュとすれ違ったけれど、それよりもフェリスよ。
足を止めたフェリスの前まで走ると、ショールを巻きつけた。
「姉様……」
「そんな薄着では体を冷やしてしまうでしょう?」
「ええ……ありがとう。でも姉様は」
「わたしはこのくらいの寒さなら慣れているから」
多少肌寒いものの、大したことない。冬の寒さはこんなものではないもの。
「そう……姉様。あの……」
ちらりとフェリスがわたしの背後に視線を向ける。
そこにはセレシュがいて、ウェイド侯爵からお叱りを受けている。
我が家の中を移動するだけだから、基本的には危険はないはず。でも、絶対と言い切れないから護衛は必要なのに。
フェリスがつむじ風に巻かれたことを、もう忘れてしまったのだろうか。
あれから何もなかったとはいえ、我が家としては大変な失点だし、二度とあんな思いはしたくない。
……この場にも、クリスがいてくれればどれほど心強いことか。あれから姿を見ない。影から守ってくれていると信じているのだけれど。
「姉様、その」
何度か言い淀んだフェリスが思い切って顔を上げた時。
「何をしている、セレシュ、フェリス」
ここにいるはずのない人の声が、聞こえて振り返れば。
レオ様が……第二王子殿下が旅装で立っていた。
「レオ兄様っ!? どうしてここにっ!」
「レオ様……」
とっさに最敬礼をしながら、その後ろに立つ兄の存在に気がついた。
兄が。
王太子殿下の懐刀が。
側近候補の護衛騎士が。
どうして、レオ様の護衛騎士として随行しているの……?
はっと気がついて、周りに視線を走らせる。
違う。
兄上がレオ殿下の護衛騎士になったとは聞いていない。
そんな大事なこと、内緒にするはずがないもの。
ならば、あの方もここに来ているの……?
まさか。
そんなはず、ない。
まだ下界では社交シーズンは終わっていない。
そんな忙しいはずの時期に。
セレシュ第三王子とフェリスのみならず、第二王子までここにいるのに。
王太子殿下が王都を離れられるわけ、あるはずがない。
もしかしたら、とハインツからの迎えに目をやる。
でも、彼らも一斉に最敬礼を取って顔を伏せているから、確認のしようがない。
二つある馬車のどちらかにまだ乗っているのかもしれない、なんて薄い望みを抱くも、馬車を守ろうとする者はいない。
……ええ、そうよ、いるはず、ないわよね。
自分に言い聞かせる。胸が切り裂かれるように痛むのをごまかしながら。
そうしなければ、わたしは……。
首を横に振って視線を兄に向ければ、王宮であの方の後ろに立っていた時と同じく、無表情なまま、こちらを見ようともしない。
どうしてレオ様と共にいるの。
どうしてレオ様の護衛騎士を務めているの。
どうして……あの方のそばを離れたの……?
聞きたいことはたくさんある。でも、聞いたところで返してくれる兄ではないことも、よく知っている。
わたしは全てを押し隠して、微笑みを浮かべると再度腰を折った。
「レオ殿下がおいでとは伺っておりませんでした。何が危急の事がございましたでしょうか」
両親はこの場にいない。ユリウスおじさまもライラ様も来賓で、レオ様を迎えるべきはわたししかいない。
「いや、母上に命じられてね。……駄々をこねるだろう子供たちを回収してこいってね」
「わたくし、子供じゃありませんのっ!」
レオ殿下の言葉にフェリスが噛み付いた。先ほどまでの悩める少女の姿はもうどこにもない。
「でも、駄々はこねたのだろう? ねえ、ユーマ殿」
くすりと笑うレオ様に、わたしは低頭したまま苦笑いを返す。
「兄上、まさかそのためだけに来たんですか」
気がつけば怒られていたはずのセレシュ殿下もこちらに来ていた。
「だけじゃないけどな。お前たち、お忍びだってわかっているか?」
「……えっ」
わたしは目を丸くする。
フェリスからは公務だと聞いていた。そのつもりでいたし、もてなしも警護も王族ということを前面に出していたはず。お忍びならお忍びで守り方が違ってくる。……もちろん、周囲の者たちの立ち居振る舞いも。
フェリスとセレシュが来ることはお師匠様はご存知だったし、そのつもりで警備計画も立てていた。
来られなくなったからと代わりに来たライラ様もその一環で祭りの間は護衛はされていたし。
そうでないなんて、誰も言わなかった。……そうよ、公然の秘密だから、だわ。どうして忘れてしまっていたのだろう。
レオ様は、わたしをちらりと見るとため息をついた。
「そんなことじゃないかと思った。……セレシュ、フェリス。この地を王族が公式に訪問したことがないのを知らないわけじゃないだろう」
「それは……でもっ」
言い募るフェリスに、レオ様は冷たい視線を向ける。
「馬車もお忍び用か騎士団のものだっただろうに……。ここに王族が来てはいけないんだ」
「……はい」
苦々しくセレシュが応じる。
わたしも自然、俯く。
そう、ここは最前線。休戦中の北の国を刺激しないように、常に策が巡らされている。
この地に間諜がいないはずがない。北も、それ以外の国も、一瞬たりとも目を離してくれない。
そんな土地だ。
ほんの少しのことでさえ、簡単に火種になる。
最前線を王族が視察したとなれば、北がどう動くか分かったものじゃない。
この地から王太子妃候補が出たこと自体、他国にとってはおいしい餌だったろう。
婚約が破棄されて、ホッとしたのはわたしだけじゃないはず。
「だから最敬礼はなしだ。俺も今はただのレオ。ユーマも顔を上げて」
レオ様の言葉に、周りの者たちが身を起こす。わたしもゆっくりと顔を上げた。