164.王太子はベルエニーの地に辿り着く
早朝、麓を出発した一行は、ハインツの騎馬隊を先頭に山を登っていた。
ベルエニーを北の大国との最前線とすれば、ハインツはベルエニーにとって唯一の補給線であり……ベルエニーが突破された場合の第二の砦だ。
もちろん、ベルエニーと同様私兵を擁してベルエニーの背後を守ることが許されている。
騎馬隊は有事の際には斥候や連絡役も担うため、山道を熟知した人馬が選ばれていると聞いた。きびきびと縦横無尽に動く隊員たちは、馬車の中の貴人を守るべく尽力しているのだ。
その後ろを、レオの護衛でもある正規の近衛兵に守られた馬車が行く。横に付き添うのはフィグだ。
前を見据えたまま、後ろを行くミゲールに視線をくれることもない。
お忍びとはいえ王子の、臨時とはいえ護衛騎士として任じられてしまったフィグにとっては、今の最優先護衛対象はレオだ。
ここにいるミゲールは王子ではないのだから、当然の帰結と言える。
そうさせてしまった自分を不甲斐ないと思いながらも、ミゲールは馬を進める。
ちらりと左右を見れば、今朝紹介されたばかりの護衛兵の顔が見える。
朝になってハインツの護衛たちにいきなり加えられたミゲールを、彼らはどう見ているのだろう。
きっちり前後左右を封じられていることから、警戒されていることは見て取れた。
主賓でもあるレオの一声で参加が決まった、とだけ伝えられたのだ。おそらく唯一自分の素性を知るあの家令も、彼らには何も告げていないのだ。当然の帰結だろう。
身元もレオが保証すると言っただけで、どこの誰ともわからない自分を隊に加えるなど、普通に考えれば迷惑な話だ。
故に、この状況をミゲールは受け入れた。
休憩の間も、遠巻きにしているだけで兵たちは近寄っては来ない。が、身分を明かせないミゲールにとっては都合がよかった。
馬車の扉が開いて、レオが出てくるのが見える。
昼前にはベルエニーに到着すると聞いた。日の高さからすると、もうじき着くのだろう。
その後に繰り広げられるであろう光景を想像して、眉根を寄せる。
レオが彼女の手を取るところを、彼女がそれに応えるところを、見せつけられるのだろう。
……その時、俺はどうするだろう。
ぎりりと心臓を掴まれるが如く軋む。
彼女を一目見たいと願ったのは本心だ。
彼女が自分をどう思ってくれていたのか。自分の思いは届いていなかったのか。
……あの手紙でわずかばかりの光明を見出したのは事実だけれど、自分の都合の良いように読み取っただけであることもまた、自覚している。
レオの手をはねのけてくれればいい。
俺を欲して欲しい。
そんなことを、言えるはずもないというのに。
そして。
……弟の方側で笑う彼女を見ながら今まで通りになんて、生きていけるはずもない。
ふと顔を上げれば、レオがこちらを見ていた。
隣に立つフィグが何事かをレオに告げる間も、視線は外れない。賭けに負けた俺を哀れんでいるのか、それとも優越に浸るっているのか。
自分に向けられる視線すら厭わしくて不機嫌を隠そうともせずに眉間のシワを深くすれば、レオはあからさまに眉根を寄せる。
隊の輪を崩すなどでも言いたいのか。
いつもにも増して何を考えているのかわからない。
ミゲールはため息を一つつくと、視線を地面に落とした。
その後も、しばらく自分に向けられた刺すような視線は付いて回った。
山道が途切れたのは出発してしばらくたってのことだ。
空の青さに目を細め、山々の彩る様に視線を取られる。
ミゲールは聳える北の山に目をやり、安堵の息をついた。
……まだ、雪は降っていない。
自分たちが登ってきた山の向こうを振り返り、後ろに張り付いている兵士に凄まれながらも山が白くないことを見て取る。
兵士にせき立てられるように前を向き、馬を歩かせながら、ミゲールは口元を緩ませた。
あれから十四年も経っているというのに、彼女について回ったあちこちを、ミゲールは鮮明に思い出していた。
山が白くなれば帰れなくなることも。
それは雪というものだということも。
雪は冷たいのだということも。
雪で家が潰れることもあることも。
……全て彼女に教わった。
何一つ忘れたくなくて、何度も思い出した。
彼女と共にあるために、苦い薬も我慢した。
彼女の笑顔を見たくて、その笑顔を守りたくて。
……王都に戻ることを決めた。
だというのに。
一体何を間違えたのだろう。
自分が彼女を、自由を愛する彼女を殺してしまった。
自由にするためには、これしかなかった。
だというのに。
どうしてこうなったのか。
再び王家の手に絡め取られようとしている。
俺のやったことは無駄だったのか?
ミゲールは先を行く馬車とその隣に侍る友を見つめながら、落胆のため息を隠せなかった。