159.子爵令嬢の兄は第二王子と話す
馬から降りたフィグは、目の前に広がる館と、並び立つ使用人達に舌打ちをした。
何年ぶりかに見た、ハインツの……ユリウス爺の館がそこにはあった。
レオの乗ってきた馬車の紋章でどこに向かうか大体予想はついていたが、記憶と変わらない姿に感慨深いものを感じる。
随行していた馬車からミゲールとレオが降りてくると、若い家令が案内役についた。
レオがミゲールを兄と呼んだ瞬間、家令は振り向いて最上級の礼をする。さすがはユリウス爺の配下だ。
「お久しぶりでございます、フィグ様」
声に振り向けば、あの家令と同じ制服に身を包んだ老齢の紳士が立っていた。
明るい茶色の髪には白いものが混じっているが、優しげに細められた灰色の瞳には覚えがあった。
「……ザルク?」
「はい、フィグ様はすっかり大きくなられましたな」
記憶の名を呼ぶと、紳士は嬉しげに笑みを浮かべた。
ハインツ家の家令だったザルクのことは、子供の頃から知っている。当時はまだこれほど白髪は多くなかったが、当時のフィグにはジジイに見えていた。
白髪を見ながら最後に会ってからどれだけ時間が経ったのか、とも思う。
「もう十年になるか」
「騎士養成学校に入られて以来ですな。ご活躍は聞き及んでおります」
「それほどでもないさ。……ウェイド侯爵には負ける」
ユリウス爺の娘婿を持ち上げれば、ザルクは目尻を下げた。
「どうぞこちらへ。ご案内いたします」
「家令職は孫に譲ったんじゃないのか」
「ええ。優秀な孫ですよ」
やはり孫か。どことなく見覚えがある気がしたのは、ザルクの血統だからなのだろうな。
「あの二人とは階を分けてくれ」
「ええ、承知しています」
二人の入る客室は最上階、主人と同じ階にある。おそらくは、王族専用の部屋だろう。一度幼い頃に迷い込んでザルクにつまみ出されたのだ。
前を行く背中が小さくなったのを寂しく思いながら、フィグはハインツ邸に足を踏み入れた。
風呂を借りて食堂に降りれば、レオがすでに円卓の一つに座っていた。
「遅かったね」
「湯浴みをしていましたので、レオ殿下」
「……今ここにいるのはただのレオだ」
お忍びという設定は続いているのだろう。ちらりとザルクを見たが、特に表情には何も浮かんでいない。
「そうか。じゃあ初めましてからか?」
するとレオは面白くなさそうにため息をついた。
「いずれ義兄となる人にそんなよそよそしい態度はとって欲しくないな」
「俺の妹はどこの誰とも知らねぇ男にゃやらねえよ」
すかさず反応を返す。
今回ばかりはレオに対しても怒っているのだ。
「そもそも、妹をトロフィー扱いするような男は論外だ」
「……おや、怒らせてしまったみたいだね」
まだ余裕な表情のレオに、フィグは目を吊り上げる。
「向こうに着いたら妹に全部ぶちまけるから覚悟してろ」
「それを許すとでも?」
「関係ない。このまま強行する気なら、こっちにも考えがある」
明確な言葉にはしない。
だが、レオのことだ。こちらの意図は汲み取っているのだろう。眉根を寄せたのは単にフィグの怒気に当てられたせいかもしれないが。
「それにな。賭けってのは公平な審判役がいなきゃ成立しない。一方的に宣言したところで、相手が受けなきゃ意味はねえよ」
「分かってますよ。……気がついてないのはあの人だけだろうね」
ふふ、と笑うレオに呆れ顔をすると、「実は両親にも突っ込まれたので」とにこやかに返された。
「こんな方法で賭けが成立してしまったと他国の者に知れれば、兄の治世はさぞかし大変なことになるだろうね」
「……分かってんなら撤回しろ」
しかし、レオは薄く笑う。
「あの人、少しは焦ってた?」
「……人を試す奴はろくなことにならねぇぞ」
「試したわけじゃないよ。あの人の本気を、見たかっただけ」
「その割にはえげつない手を使ったよな。一日早く出発したり、途中でダミーの馬車を置いたり」
「そりゃあ、全力を出さなきゃ失礼だろうし」
フィグは改めて微笑むレオを見つめる。
ミゲールを政務や外交の面で支える役目を期待されているレオだが、セレシュが卒業するまでは軍事面も担ってきた。
病弱だったミゲールと並ぶとはっきりわかるほどに、身体的にも恵まれている。
そのレオが本気で全力を出したのなら、ミゲールに勝てる隙はなかっただろう。
「まあ、少しは本気も入っていたよ。……あの人はどこまでも我慢するから」
「……それについては同意する」
「昔からああなんだよね。知ってると思うけど」
「ああ」
レオの言葉にフィグは首肯してため息をついた。
「いつまでその地位が借り物だと思ってるんだろうね」
それが原因なのだろうか。
レオが望まれるなら明け渡してもいい、と思いつめた顔をしていたのはいつの時だったか。
そんな弱音を蹴り飛ばしたのはフィグ自身だ。
以来、ミゲールはきちんと自分の足場を固め、その地位を確固たるものにしてきた。……はずだ。
今回の北の姫騒動で病気療養としたことで、人々の昔の記憶を刺激したのは間違いない。
だが、それはちょうどいいふるい落としの材料に過ぎなかったはずだ。
それとも、なりふり構うなと入れた喝が、もしかして悪い方に向いたか。
「もし。……ユーマが王位を捨てろと言ったら、どうするかな」
「兄が? あの人は応えないだろうね。でなきゃあんなにあっさり婚約破棄なんかしない。……と以前なら言ったんだけど」
レオの含みのある言葉に、フィグは顔を上げる。
「正直、今の兄ならやりかねないと思うよ。……俺に全部押し付けて、一人北の地に逃げるくらいのこと」
「だが」
フィグが挟みかけた言葉をレオは片手で押しとどめた。
「責任を放棄した兄を、彼女は許さないだろうね。……どうやったら二人とも幸せになれるんだか」
レオの嘆きにフィグも頷く。
ユーマは許さないだろう。でなきゃあそこまで一生懸命に王妃教育をこなしたりしない。自分を殺し切ってまで、教師のいいなりになったりしない。
自分のやるべきことはきちんと認識する人間だ。
放棄するなら最初から何が何でも辞退したに違いない。
それがわかっているからこそ、フィグはミゲールの仕打ちが許せなかったのだ。
「……それこそ俺たちの考えることじゃねえだろ」
「まあ、そうなんだけど。……まあ、この件は帰ってから考えよう。明日は忙しいしね」
「……本気でプロポーズすんなよ」
フィグの本気の殺気は、レオの微笑みに誤魔化された。