156.子爵令嬢は次期侯爵の背中を押す
結局、マルス殿は北の砦からウェイド侯爵の配下に異動となった。
急な話だけれど、視察団と一緒に王都に戻るのだそう。
住まいの問題は、と思ったけれど、マルス殿は北方騎士団の家族用宿舎を借りていただけなので、手続きさえすれば問題はないらしい。
荷造りがそれまでに終わるとは到底思えなかったのだけれど、お師匠様の号令のもと、砦の騎士たちやその家族たちがあっという間に荷をまとめてしまった。
そんなこんなで、出発まで間があると言うのに宿舎を追い出されてしまった二人はそのまま我が家の客人となっている。
マルス殿はといえば、王都に戻ることになってもまだワタワタとしているけれど、以前見せたような強い拒絶はもうない。
むしろ、久しぶりに会う奥様や義父母に対して戸惑いやら焦りやらが見える。
あとでミーシャに聞いたら、お土産をどうしようと悩んでいたのだそうで。
……まあ、マルス殿は大丈夫でしょう。
ミーシャが一緒に王都に帰ることになって、ユリウス君はとても嬉しそうだった。
侯爵はかなり渋い顔をしていたけれど、そもそもマルス殿をスカウトしたのはユリウス君のわがままを聞くためでしょう?
それで渋い顔というのもおかしいと思うのだけれど。
……まあ、思うところがあるのはわかるわ。
そして。
問題はユリウス君と侯爵のこと。
マルス殿親子が引越しのために早々に退出したあと、二人も帰る支度に入るのかと思っていたのよ。
もともと今日のうちに山を降りるスケジュールだったから、視察自体は終わっているの。だから、視察団の人たちは町の視察と称して遊びに行っている。
カレルとセレシュは我が家に遊びに来ているのだけれど、侯爵の件で会えていない。
待ってもらうのももったいないので、秋の庭にでも連れだすようにとカレルには伝えてある。
春先には春の館でお茶をしたものね。秋の庭の美しさも楽しんでいって欲しい。
ともあれ、目の前にはユリウス君と侯爵がいる。
先ほどまでは並んで座っていたけれど、マルス殿親子が退室してすぐに侯爵が席を移った。
今の二人はテーブルを挟んで向き合っている。
「父上」
ようやく心が決まったらしい。
わたしを見ることなく、ユリウス君はまっすぐ侯爵を見つめている。
侯爵はといえば、少し驚いたようで、眉根が跳ね上がったのが見えた。
……ユリウス君が戻ってきたときの男泣きした姿からは想像もできないほど、この親子は距離が遠い。
あの時は、少なくとも近づいたとーー少なくとも侯爵の心の距離はーー思っていたのだけれど。
こうやって親子が会話することも今までなかったのかもしれない。
「なんだ」
硬い、低い声。猛獣を威嚇するような声に一瞬ユリウス君が肩を揺らす。
でも、視線はそらしていない。そして。
「ぼくは……父上のような将軍にはなりません」
目をそらすことなく、ユリウス君は言い切った。
侯爵はじっとその視線を受け止めている。動揺した様子は微塵もない。……さすが将軍。というよりはさすが父親、と言うべきかもしれない。
ユリウス君は侯爵の様子をじっと見つめたのち、言葉を続けた。
「ぼくは、お爺様のような騎士になりたい」
侯爵の目が心持ち細められる。
息子の言葉の意味を読み取ろうとしているのだろう。
ユリウス君は、将軍にはならないと言い切った。そして騎士になりたいと願いを告げた。
「騎士か」
「はい」
侯爵の手が、膝の上で拳を作る。そのまま、侯爵とユリウス君はじっと見つめ合う。
わたしは不要な音を立てぬようにと、二人を見守った。
言葉のない鍔迫り合いは、やがてため息とともに決着がついた。
侯爵の方が先に視線を外したのだ。
ユリウス君はとみれば、体の力を抜きつつも侯爵から目は離さない。
ゆっくりと頭をあげた侯爵は、しかし「だめだ」と言った。
わたしは目を見開いてユリウス君を見る。息子と二人きりとか、身内だけの場であれば、それもあり得るのかもしれない。
だけれど、この場には部外者たるわたしが同席している。
なかったことにはしづらいはずなのに。
ユリウス君は動じない。
じっと目を見つめたままで侯爵に対峙し続ける。少し俯いた侯爵の、上目遣いの視線を受け止め切って、動揺すら見せないユリウス君は、正しく『侯爵家の後継者』であった。
「だめだ。お前は……俺の息子だ」
二度目のダメは、少しトーンダウンしていた。
それでも態度を変えない息子に、侯爵は深くため息をついた。
「……お前を義父にやるつもりはない」
それが何を意味するのか、ユリウス君には分かったのだろう。
初めて視線が横へ流れた。
だが、すっかり俯いてしまった侯爵は息子の様子に気づかない。
「将軍になりたくないと言うのなら、ハインツ家だけはやめておけ」
「父上」
侯爵の続く言葉にたまりかねたのだろう。ユリウス君の呼びかけに侯爵は顔を上げ……動揺を見せた。
ユリウス君は、泣いていた。
「お前……」
「ぼくは、おじいさまのところに行かなくていいんですね」
泣きながら微笑む息子に、侯爵は立ち上がると向かいのソファに座っていた息子を抱き上げた。
「当たり前だっ! 誰がやるかっ!」
ユリウス君はしがみついたまましばらく泣き、それからわたしに気がついて父親の腕をタップした。
視線で促されて初めて、侯爵はわたしのことを思い出したらしい。
わたしは黙ったまま首を横に振る。
ユリウス君を見ると、涙を拭った彼の目にはもう一つの決意が浮かんでいるのがわかる。
少し心細いのか、わたしに向けてくる弱い視線を、わたしは頷いて促す。
親子の会話が少なくてすれ違っていたのなら、話をすればいい。
寂しい思いをしたのなら、きちんと抗議すればいい。やりたいことがあるなら、そう主張すればいい。
ユリウス君はまだまだそれが許される年なのだから。
こちらに向けられた侯爵の視線も、きちんと父親の目をしている。……きっともう大丈夫。
ユリウス君は前に向かって歩き出した。
「父上、話を聞いてくれますか?」
「ああ、もちろんだ」
息子を抱きしめたままソファに向かう侯爵の背に一礼して、わたしは部屋を出た。