149.子爵令嬢は騎士の娘と話をする
「あのっ」
後ろから声をかけられて振り向くと、ミーシャと彼女の父親であるマルス殿が立っていた。
風呂に入ってぬくもったとはいえ、配られたはずの毛布も纏っていない。廊下は部屋の中と比べても寒いのに。
「どうしたの、ミーシャ」
わたしは歩み寄り、視線を合わせるのに膝をつく。後ろでマルス殿が慌てた様子なのはこの際見なかったことにする。
「……ユリウスは、将軍の息子なの……ですか?」
そう尋ねるミーシャの目は潤んでいて、今にも溢れそうなほどだ。
はっと顔を上げれば、マルス殿は眉根を寄せ、娘を見下ろしている。……何かを堪えるみたいに。
視線を合わせたマルス殿はしかし、首を振らなかった。
「……ええ」
「そう」
ミーシャは俯いた。その拍子に足元に水滴が落ちる。
どう声をかけるべきか悩んで、口を開け閉めする。だが、当たり障りのない慰めの言葉しか出てこない。
マルス殿も何も言わない。
きっと彼はユリウス君の正体を知っていた。けれど告げることはできなかったのだろう。
どれくらい経ったのか、ミーシャは目尻を拭って顔を上げた。いつもの笑顔を見せる。……いや、見せようとした。
「パパのお迎えも来たし、王都に戻るんですよね? あー、せいせいした。坊ちゃんのお守り、大変だったんだから」
そう言い笑う彼女の目尻からポロリと雫が落ちる。
わたしはぎゅうと抱き寄せた。
「あんな世間知らずっ……」
彼女がいたから今のユリウス君がある。
わたしが初めてハインツ邸の庭で会った彼は、子供らしさのまるでない小さな大人、だった。誰も信じず、誰にも頼らず、親や祖父でさえもーー。
あれほどに感情をあらわにして泣きじゃくるなど、あの時のユリウス君からは予想もできなかったことだ。
わたしは結局何もできなかった。ここに連れてきただけ。
全てはミーシャが引き出したことだ。
「ミーシャはすごいわ」
ミーシャの背中を撫でながら言うと、腕の中で彼女はふるふると首を振る。
「すごくなんか」
「すごいわよ。ユリウス君が笑うようになったのも、鍛錬に欠かさず通うようになったのも、嫌いな野菜を残さず食べるようになったのも、街の子たちと一緒に遊ぶようになったのも、全部ミーシャのおかげだもの」
「そんなこと」
「ああやって素直に泣けるようになったことも」
彼女たちが出てきた扉を見やる。
「全部、ミーシャのおかげ」
「わたし、何にもしてない」
「したわ」
にっこりと笑いかける。
きっとミーシャがいなければ、彼はいまだに侯爵家の跡取りという立場に縛られて、踊らされていただろう。
近寄る者全てを敵とみなし、周りを威嚇しては蔑み、心をすりつぶして。
わたしができたのは、あの場所から連れ出すことだけ。
わたしが剣で打ち負かしたところで、今のように素直にはならなかっただろう。
だから。
「ありがとう、ミーシャ。……きっとユリウス君もあなたのことが大好きよ」
そう告げて少し体を離して顔を覗き込むと、ミーシャは目を丸くしていた。
それから、じわじわと頬が赤くなっていったけれど、やはり目を伏せて力なく首を振った。
「でも、もう会えない」
「そんなことは」
ちらりとマルス殿を見ると、あまり芳しい表情ではない。
王都から来た騎士の一人だと認識していたのだけれど、戻らないつもりなのかしら。
首を傾げてみるも、マルス殿は目を伏せて後ろを向いてしまった。
王都には何かあるのかしら。だとしたら、王都で会うことは難しいかもしれない。
でも、そんなのはどうにでもなる。
ユリウス君一人ではここまで来ることは難しいだろうし、ミーシャ一人で王都に行くのもマルス殿は許可しないだろう。
ならば、わたしが連れて行けばいい。
「大丈夫、わたしがなんとかするわ」
「だめだよっそんなの」
驚いてわたしにしがみついてくるミーシャに、にっこりと笑う。
王都に戻る。
半年前なら自分から口に出すことはできなかった。
今だって気を張ってなければ後ろ向きになってしまいそうだ。
けれど。
いつまでも後ろを向いていられない。
祭りが終わったら、前を向く……そう決めたんだもの。
王都に戻るのだって、ミーシャとユリウス君のためなら、頑張れそうな気がするから。
「ユーマ様」
マルス殿が側にやってきた。差し出された毛布を受け取って冷え始めたミーシャを包み込むと、わたしは立ち上がった。
「ここは寒いわ。部屋に戻りましょう?」
毛布の温もりで寒さを思い出したのだろう。小さくうなずいたミーシャをマルス殿が抱き上げる。
わたしは父親の腕の中のミーシャをそっと撫でて、マルス殿を見上げた。
「客室を用意させましたから、今日は泊まって行ってください」
「いえ、すぐ近くですから」
「もう遅い時間ですし、寒い中を帰らせるわけにはいきません」
正直なところ、子供たちに何があったのかを把握できていないのだ。そんな中を帰らせるわけにはいかない。
子供たちには明日話を聞くことになっているし、ここにいてくれる方がわたしも安心できる。
「しかし、わたしはこの後深夜まで仕事で」
「……それならなおさらミーシャを一人にするわけにはいかないわ。仕事が終わったらここに戻ってきてください」
じっと見つめると、マルス殿は諦めてくれたようで了承してくれた。
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