119.子爵令嬢は王家の代理人と会う
開かれた扉からまず見えたのは濃い紫のドレスの裾だった。
護衛の差し伸べた手に乗せられた白い手袋の手、銀の暖かそうなケープ、そして肩に流れる金髪に縁取られた白いかんばせ。
周囲のざわめきが一瞬遠ざかる。
馬車から降りて来たのはーーチェイニー公爵令嬢のライラ様だった。
久しぶりに友の顔を見られたのは嬉しい。
けれど。
……ライラ様が王家の代理人。
それが何を意味するのか、わからないはずがない。
胸がずきりと痛む。
わかっていたことだ。
あのお三方の中ではライラ様が最有力候補だった。北の動向がきな臭くなって来たことを考えれば軍務を司るチェイニー公爵家との縁結びは最善だろう。
わかっていたことなのに。
降り立ったライラ様はぐるりと周りを見回している。出迎えを探しているのだろう。
わたしが出るべきなのに、足が動かない。
「ユーマ様、お出迎えを」
改まった口調でクリスに促される。
個人的な思いに蓋をして、今はするべきことをしなくちゃ。
意を決して足を踏み出すと、ライラ様はわたしに気がついた。
ふわりと慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、わたしの方に歩いてくる。さすがはライラ様、完璧だわ。……まがい物のわたしとは違う。
ライラ様はわたしの前で足を止めると、嬉しそうに笑った。
「お久しぶりです。ユーマ様」
「お久しぶりです、ライラ様。この度はおめでとうございます」
なんとか笑みを作ってそう告げると、ライラ様の笑顔が一瞬曇った。もしかして公告されるまでは秘密だったのかしら。
「まずは我が館へご案内いたします」
「ええ、お願い」
クリスの方をちらりと見ると、クリスは小さく頷いて近くの警備担当を呼んでくれた。
いつもなら馬車で街中の大通りを抜けてそのまま館に入ってもらえるけれど、祭りの間は町の外側を回ってもらうことになる。普段は閉鎖してあるから、誘導が必要なのよね。
「街中は馬車が通れませんので、迂回路をご案内します」
「わかったわ。……あなたたちは誘導に従って。わたくしはユーマ様と歩きますから」
「えっ」
後ろを向いて言ったライラ様の言葉に目を丸くしていると、振り向いたライラ様は含みのある笑みを浮かべた。
「そこの護衛がいれば問題ありませんでしょう?」
ライラ様はクリスの正体をご存知なんだ。……それも当然か。王太子妃になる方だものね。
もしかしたらお師匠様は彼女が来ることをご存知だったのかもしれない。だから、クリスをわたしの警護につけたのかも。
ああ、きっとそうに違いない。
どうして教えてくれなかったのだろう。隠される方がよほど辛いのに。
「わかりました。どうぞこちらへ」
踵を返して市門への道を先導しながら、そっとため息をつく。
ライラ様もあの方も、もう前を向いて歩き出している。わたしだけが取り残されたまま。……終わらせなくちゃ。
ベルエニーの館に到着するまで、ライラ様とクリスの声を聞きながらも心は祭りが終わった後のことに飛んでいた。
◇◇◇◇
両親には王家の代理人が到着したことを知らせたけれど、初日の今日は両親とも忙しい。ひとまず先に部屋にお通しして、後ほど街を案内することになった。
昼食後、ほどなくして町歩きのできる身軽なドレスに着替えたライラ様は、どう見てもお忍びの令嬢にしか見えなかった。
滲み出る品の良さや優雅な所作が出自を隠しきれないのだ。
その上、仮装のつもりなのだろう、深い緑色のドレスとケープに、ミリネイア様のように真っ赤な色に染めた髪がゆらゆらと揺れて、つばの広い赤い帽子も相まって一輪の薔薇の花のようにも見えた。
館を出て街への道のりをゆっくり歩く薔薇の精は、珍しげにあちこちを眺めている。
「寒くはございませんか?」
「ええ、大丈夫。……それよりユーマ様」
不意にライラ様は立ち止まるとこちらを向いた。その表情は明るい外だというのに暗く、口調も低い。
「どうしてそんなに他人行儀ですの? お茶会の時には砕けた口調で話してくださったのに」
その言葉にうなだれる。
だって、もう立場が違うのだもの。
ただの子爵令嬢と、公爵家の姫君……ううん、王太子妃になる方と、接点なんか何もない。
「立場が違いますから」
「……あなたまでそんなくだらないことをおっしゃるのね」
え、と顔を上げると、ライラ様は眉根を寄せてわたしを見つめている。
「肩書きしか見ない人にうんざりしているのはあなただけではないのよ」
ふいと顔を背けたライラ様に、わたしは言葉を飲み込んだ。
ライラ様の言葉は、かつてわたしが口にした言葉だ。
それを、ライラ様に言わせてしまうなんて……。
「せっかくフェリス様に頼み込んで代理になれたというのに、つまらないことを言わせないでくださる?」
「……ごめんなさい」
「ええ、もっと謝っていただいてもよろしくてよ」
そう告げるライラ様の口調はしかし、内容と違って笑いを含んでいるのが分かる。伏せていた顔を上げると、ライラ様は唇を尖らせて横目でわたしを見ていた。
「ユーマ様、わたくし怒っているんですのよ? 二人きりの時くらい楽にお喋りしようとおっしゃったのはユーマ様の方ですのに」
そうだった。
友達なのだからお喋りくらいは堅苦しい思いをしたくないとライラ様にお願いしたのはわたし。
茶会にお誘いしたのはあの方との婚約が整ってからだった。
四人で王妃教育を受けることもなくなって、顔を合わせることすらなくなった。
争う理由のなくなった今なら、彼女たちともいい関係を持てるのではないかと、ほんの少しだけ思ったのよね。
もちろん、受けてくれるかどうかは賭けだった。
だって、婚約したって言ってもわたしはただの子爵令嬢。あの方の名をかさに着て呼びつけたと思われても仕方がない。
だから、ライラ様から参加のお返事を頂いた時は嬉しかった。
でも、公爵令嬢のライラ様がわたしにへりくだる態度を取った時、とても悲しくなった。
たかが田舎の小娘(実際にそうだったし、マナーも付け焼き刃だったもの)と言ったライラ様が、王太子妃の立場に頭を下げる。
貴族としてそれは正しいことだとわかってはいた。けれどそれを受け入れてしまうと、もう誰の笑顔も信じられなくなると思った。
立場なんか関係なくライラ様には凛としたままでいて欲しかった。わたしにとっては目標でありお手本でもあった方なのだもの。
だから、肩書きではなくわたし自身を見て判断して欲しいとお願いしたのに。
同じことをしてしまった。
「本当にごめんなさい」
「謝らないで。……わたくしは、あなたが王太子様の婚約者だったから友達になったわけではないわ。そして、あなたが王太子様の婚約者でなくなったからといって友達をやめるつもりもないから」
ライラ様はそう言うとにっこりと微笑んだ。