110.子爵令嬢は見回りに出かける(9月)
夕方に涼しい風が通るようになって気がつけば、もう月が変わっていた。
この辺りは夏も短ければ秋も短い。
涼しくなって来たらあっという間に冬になる。
その前に十分な蓄えを、とみな冬支度に余念がない。
それは我が家でも同じことで、領民全てが無事長い冬を耐えられるための準備に父も母も走り回っている。
そのかたわら、祭りの準備も進められていた。
楽団や曲芸師、魔術師などの手配は滞りなく済んだし、広場に設える舞台の建設も順調だ。
皆に振る舞うための酒や食材も、冬越し資材とともにベルエニーに向かったと連絡があった。
王都ではそろそろ避暑地に行っていた王族と貴族たちが戻って来ていることだろう。
昨日到着したフェリスの手紙にも、そんなことが書かれていた。
以前と違って届くのに十日かからなくなったおかげで、受け取った手紙の返事がフェリスに届く頃には季節が変わっていた、なんてことはない。
だけれどその分、手紙の内容が時候の挨拶ではなくつい三日前の出来事だったりして、どこか遠くに感じていた話が身近な話に聞こえてくる。
「……ですよね、ユーマ様」
不意に声をかけられて振り向けば、驚いた顔の護衛…ミケと目があった。
「ごめんなさい、考え事していて」
「ああ、いえ」
わたしは今、収穫祭の準備を見て回っている。
街の正門から広場までの誘導と迂回路、警備のポイントをミケやボーノと確認していたところだった。
ミケのことだから、大事なものに違いない、と重ねて聞くと、ミケは広場の奥の方を指差した。
「ほら、あれです。子供たちが素焼きのタイルに色をつけている」
そこには二十人ほどの子供たちがいて、思い思いに筆をふるっては色を塗っていた。
色を乗せたタイルは釉薬をかけてもう一度焼くと硬くなる。王都では見慣れたものだけれど、ここでは二度焼くことはしない。冬に向かうこの時期、薪も炭も貴重なのだ。
床や木箱の上に置かれたタイルに向かって、真剣に筆を走らせているうちの一人は、ユリウス君だった。
彼の傍には五歳くらいの子供がいて、食い入るように彼の筆先を見つめている。
その向こう側でやはり同じように筆を持っているのは、鍛錬場でユリウス君と対峙したあの女の子だった。
「見ていかれますか?」
視線を外せないでいるわたしにミケが申し出てくれる。
わたしが近くに行ったら周りの子たちが騒いでしまうのではと思う。でも、他の大人たちが広場を早足で横切っては子供達に声をかけているのに、ユリウス君だけは顔を上げない。
わたしに気がついた子が手を振ってくれる。周りの子たちがこちらに顔を向けるので、わたしは微笑みながら唇の前に人差し指を立てた。
それをきちんと読み取ってくれたようで、子供たちは同じ仕草で周りの子たちを鎮めていく。
ミケをちらりと見れば小さく頷いてくる。
わたしはそっとユリウス君の後ろに回った。
素焼きのタイルの上を筆が滑っていく。深い赤が柔らかく曲線を描き、重ねられていく。
迷いなく紡がれていくそれは、バラの蕾に見えた。
「ユリウスにーちゃん、すっごいうまいんだ」
近くにいた子が胸を張って嬉しそうに言う。
ほら、と指差したのは並べられたタイルたちだ。
かわいらしい花々に囲まれて、可憐な花を咲かせているタイルたちがひときわ目を惹く。
「あれ全部ユリウスにーちゃんが描いたんだ」
このタイルは祭りの間、あちこちに埋め込まれ、皆の目を楽しませてくれる。花の少ないこの地域では手に入れにくい生花の代わりなのだ。
わたしも子供の時には皆に混じって描いたけれど、絵心がないのかセンスが悪いのか、とてもじゃないけど胸を張れるようなものではなかった。
でも。
目の前でどんどん仕上げられていくバラを見つめ、ユリウス君を見つめる。
彼の描く絵は、とても繊細でリアルだ。
この絵を十歳に満たない子が書いたと王都の絵師に見せたら、きっとすぐにでも弟子入りの声がかかるだろう。
それくらい、素晴らしいと思う。
「すごいわね……」
ついそう口に出すと、ぱっとユリウス君は顔を上げた。その表情は、先ほどまでの真剣さはかけらもなく、なぜか絶望に満ちていた。
驚いて一歩後ずさったわたしを睨むと、ユリウス君は手元にあったタイルめがけて筆をぶつけた。綺麗に描かれた蕾の少し上のあたりにぐちゃりと赤が散る。
「なにすんだよっ、ユリウスにーちゃんっ」
すぐ近くで見ていた子の声に、ユリウス君はぱっとその子を見て、わたしの方を見てーーわたしがいるのとは反対の方角へ逃げ出した。
声を上げた子が周囲にいた子たちを巻き込んで追いかけていくのを見送って、足元に残されたタイルと筆をを拾い上げる。
今にも開きそうな蕾のそばに落ちた無粋な筆の跡が、赤い涙のように見えた。