106.子爵令嬢は秘密に気付く
館に帰り着いたのは、日も落ちかけて周り中が茜色に染まった時分だった。
一人で動く気楽さに、ついホルラント近くの南の池まで足を伸ばした。
もちろん護衛は二騎、後ろから追いかけて来ていたけれど。
今日の護衛は二人とも新人で、常に一歩引いて着いてくる。まあ、だからワーズワルトの自生するところまでは着いてこなくて、逆にホッとしたのだけれど。
それでも、砦の訓練にはついていけてるのだから、わたしよりはよほど腕が立つに違いない。
そうでなくては新人二人をつけるとは思えないものね。
幸い、その腕前を披露してもらうようなことはなくて、無事に帰り着いたのだけれと。
二人と別れて馬を玄関前まで進めると、ベルモントが戸口に立っていた。
「こめんなさい、少し遅かったかしら」
晩餐前に着替える時間はあるはずだけれど、と思いつつ眉を下げて謝ると、ベルモントは小さく首を横に振った。でも、表情は厳し目で。
「お嬢様、砦より使いが参っております」
「……わかりました。案内を」
今日は父上もいらっしゃる。のに、わたしを名指しの使いなんて、嫌な予感しかしない。
なにより、今日はユリウス君が砦に行っているはず。
「ユリウス君は帰っている?」
「ええ、先ほどお戻りです」
「そう、よかったわ。それで、誰が来ているの?」
「クリス・エディット様です。……通信兵の。彼がユリウス様をお連れくださいました」
「そう。……着替えてくる間、リリーに相手をお願いできるかしら」
クリスは今、我が家の客室に一応逗留している……ことになっている。
一月で終わる予定だった砦の工事がはかどらなくて、部屋が使えないからなのだけど、ほとんど部屋にいないのよね。
早朝には砦に向かい、夜遅くに帰ってくる。食事も砦で摂っているらしくて、ここには本当に寝に帰るだけらしい。
幼馴染のリリーともほとんど顔を合わせていないと聞いている。
ここに赴任してからもう一月は経つ。
リリーはクリスに対しては他の男性に比べて距離が近い。普段は見せない気の緩みさえ見せていたように思うのだけれど。
「それが、お嬢様だけを呼ぶようにと」
「……父上にも伝えていないの?」
前を歩くベルモントがほんの少しだけこちらを振り向いて見せた顔には、珍しく戸惑いの色が見えた。
少なくとも、ユリウス君を連れてきたのが誰かは伝えるべきなのに、来客そのものを父上にも告げないなんて、どれだけの機密事項だろう。
わたしにも、家族に告げられない秘密はある。……主に王族関係の。
それと似たものを感じて、ぎゅっと両手を拳に握った。緊張でじわりと手が湿ってくる。
まさか、ここでそんなもの、あるはずないのに。
「クリス様のご指示です」
「そう。……食事はあとで部屋に運んでくれる?」
「かしこまりました」
ベルモントが父上よりクリスを優先する。……それがどういうことか、わからないわたしじゃない。
ベルモントが扉を開くまでの間、底の見えない不安にじわじわと足元から浸されていった。
ベルモントを置いて部屋に入ると、焦げ茶色の目がまっすぐこちらを見ていた。
既視感を感じたのも当たり前よね。以前顔合わせした時と同じ部屋で、同じ顔をして立っているのだもの。
握りしめた拳に鎖が巻きついているのを確認して、腰を折る。……今日も彼は公爵の名代だ。
「お待たせしてしまったかしら」
「いえ」
茶器がテーブルに乗っているのは見えたが、中身は減っていない。
クリスに座るよう促して、反対側の空いているソファに移動する。
「ユリウス様をお連れいただいたと聞きました。ありがとうございます」
「仕事ですから」
そう告げたクリスは相変わらず不機嫌そうで、口調とまるで噛み合わない。
どうしてこんなに不機嫌そうなのかと思ってみたけれど、王都に住んでいたのならそれもそうかと思い直す。
この地はきらびやかなあの街と比べるべくもない。
遊ぶ場所もささやかで限られている。日が暮れれば酒を飲む以外にどこにも行く場所はなく、砦の兵士たちは休みになると麓の町まで行くという。
不機嫌にならないはずがない、とずいぶん前に誰だったかに聞いた。
しかもクリスは宰相閣下の名代として来ている。気を緩める暇もないのではないか。
そんな境遇を気の毒に思わないでもなかったが、それが仕事、と言われてしまえばそれ以上かける言葉は見つからなかった。
「……それで、今回はどのような御用向きですか?」
沈黙を破ってそう聞くと、彼の眉間のしわが深くなる。
そのままだんまりを決め込むのかと思うほどの沈黙の後、ようやく口を開いた。
「……今日の鍛錬に来なかったのは何故だ」
「……どういう意味です?」
閣下の名代として来ているのではないの?
なのにどうして、そんな個人的なことを聞くのだろう。何か用があったのだろうか。それとも、ユリウス君を一人で行かせたから?
クリスはこちらの問いにはまるで反応せず、黙ったままじっとわたしを見つめている。わたしが何かを言うのを待っているのだろうか。
そういえば、なかなか寝られなかった原因はあの紋様だ。クリスが受け取った時にあったのかどうか聞くのは悪い考えではないように思った。
「……すみません、昨夜少し寝付けなかったものですから寝坊してしまいまして」
「何かあったのか?」
「いいえ、届けていただいた手紙を読んでいただけです」
「手紙……ああ」
「はい、昨日届けていただいた分です。そのことで、少し聞きたいことがあるのですがよろしいですか?」
「ああ、構わない」
「クリス様があの手紙を受け取った時、裏に赤い模様はありましたか?」
そう告げた途端、クリスがほんの少しだけ目を見開いた。そこに乗っているのは恐れの色だろうか。それとも。
「いや……すまない。覚えていない」
そう言いながらクリスは視線をそらす。……嘘、なのね。
クリスはあれを知っている。でも、それを教えてはくれない、ということ。
「……そうですか」
「その模様が何か?」
「ええ、少し。……あの手紙を我が家まで運んでくださったのは、クリス様ですか?」
「ああ」
「ありがとうございます。ほかにどなたか封筒に触った方は」
「いない。俺が直接持ってきて、あの執事に渡した」
となると、最初から付けられていたものでなければ、ベルモントかクリスがつけたことになる。
でも、ありえない。……ありえないはずよ。
昨夜の風も手合わせの時に吹いたつむじ風も、おそらくは……そう、魔法によるもの。
そうだ、どうしてその可能性を忘れていたのだろう。
石や紙に込められた魔法なら、ここでも何度も見てきたというのに。
我が領には魔術師はいない。そもそもウィスカ王国には数えるほどしか魔術師はいないのだ。
こんな辺境に来るぐらいなら、王都に行くことを選ぶだろう。絶対いい暮らしができるもの。
王宮にも宮廷付きの魔術師がいた。顔を合わせたことはなかったけれど、祭典や記念日などの華やかな演出は彼らによるものだと聞かされていた。
我が領の収穫祭でも演出のために魔術師を呼ぶ手はずになっている。国外から呼ぶ彼らは、祭りで露店を構える。
そこで売られる護符には彼らの使う魔法が込められていて、特に恋愛に効くものが人気が高いらしい。祭に来る若い娘の多くはそれ狙いなのだと、祭の準備の中で知った。
手紙につけられていたあの紋様は、きっとそういう類のものだ。触れれば発動するタイプの。
あれがただのつむじ風で本当に良かった。
昼間見たような強い風や、もっと直接的にけがを負わせるような魔法だったらどうなっていたことだろう。
いたずらなのだろうか。それとも悪意のある……。
「……おい、大丈夫か」
声をかけられて顔を上げると、眉根を寄せたクリスが見えた。
「え、ええ」
「真っ青な顔してるぞ」
「……すみません、大丈夫です」
……悪意は向けられ慣れている、と思ったのだけれど、こちらに戻って来て鈍ったのかもしれない。
「大丈夫な顔してねぇぞ。……執事呼ぶか?」
「いいえ!」
つい強い口調になってしまった。クリスが目を見開いているのを見て、苦笑を浮かべる。
「本当に大丈夫です。……心配かけたくありません」
「……何があった?」
言ってから、余計なことを言ってしまったと後悔する。
クリスは宰相閣下の名代で、当然わたしの事情を知っている。名代の役目の中に、それも含まれているのだろうか。
でも、それに頼るわけにはいかない。……少なくとも今は。
「大丈夫、少し考えすぎただけです」
「……そんなに震えてるのにか?」
言われてぎゅっと口を閉じる。握った拳に力を込め、口角を上げて見せた。
「ええ。……慣れていますから」
油断したのはわたし。
あれで終わったと思っていた。もう、悪意を向けられることはないと、甘いことを考えていた。
わたしとフェリスたち……王族との関係が続く限り、終わらないのだ。
……あの方が、誰かを選ぶまで。
フェリスからはそんな話は聞いていない。
きっとすぐに三人の中から決まるのだろうと思っていたのだけれど、そんな噂も聞こえてこない。
三人からの手紙でもそう。……もちろん、彼女たちが全てを教えてくれるはずがないのはわかっている。
でも、決まっているのなら、早く知らせてほしい。
……その方が、諦めやすくなるのに。
「……クリス様、誰に頼まれたのですか?」
ひゃー、間に合いました!
ユーマがどっちに走りたいのか迷走してくれて、ギリギリになっちゃいました。
ここで章をぶった切るか、悩みます。
なので、来週の更新は遅れるかもです。
なるべく早くにお届けできるようにがんばりますー。