105.子爵令嬢は二度寝する
眠気の滲む目をこすりながら窓の外を見ると、もう外は明るくなり始めていた。
昨日の一件のせいでまったく寝付けなかった。
あのあと、紋様をもう一度よく見ようと封筒を確かめたけれど、赤い紋様は綺麗に消え去っていた。
風が吹いたのは間違えようもない事実だけれど、便箋を浮き上がらせた以外の痕跡はない。父上に話したところで夢でも見ていたのかと言われるのは目に見えている。
この部屋に誰かが侵入したのならともかく、そういった痕跡もない。
騒ぎ立てても仕方がない、と諦めた。
とはいえ、ここで起こったことはわたしにとっては事実。
自然に室内であんな風に渦を巻くなんて、ありえないのに実際に起こって。
もしかしたら目に見えない何かがここにいるのかも知れない。そんなことを考えたら目が冴えてしまった。
自分の部屋なのに安心できなくて眠れないとか、まるで子供に戻ったみたい。
子供の時なら母上のベッドに飛び込む手法が取れたけれど、もうそんな歳じゃない。
あの紋様はなんだったのだろう。全く関係ないとは思えない。あれが風を起こしたと言われたら信じてしまいそう。
フェリスが書いたものだろうか。それとも他の……封筒に触れた誰かが? 何のために。
目が冴えたついでに今までに来た手紙を引っ張り出して、封筒も便箋も全て確認したけれどなかった。
それまでと何かが変わったかといえば、鳥便に変わったことくらい。
それでも、今回届いたのが初めてではないし、すでに何度かやり取りはしている。
今回だけ違うというわけではない。
そういえば、今回だけ違うことがあった。
セリアを通じずに直接ベルモントから渡された。
ちょうど手紙が届いたからそのまま渡した?
……いいえ、ベルモントはそんなことはしない。
目の前で預かったのなら別だけれど、きっとわたしが部屋に戻るのを待って、セリアに持たせる。
昨日は色々忙しかったし、砦から帰っても部屋で落ち着くのはずっと後の時間だった。
それでも、緊急でもない限り、帰ってすぐに渡されたことはなかったはず。
……緊急のことだったのかしら。
でも、内容はいつもと変わらない。
何かをほのめかすようなことも書かれていなかったと思うし、そもそも緊急ならわたしではなく父上に持って行くはずよね。
もう一度、封筒の中身を確かめる。
ライラ様が避暑地に行かれた話、シモーヌ様の孤児院の子供たちの話。ミリネイア様からは南のろうけつ染めのハンカチが同封されていた。
道理で封筒が分厚かったはずよね。
レオ様からは最近の王都で流行っているお店の話。どうもお忍びで出歩いているらしいのよね。護衛騎士は止めないのかしら。
……まあ、無理よね。
セレシュからも同じように王都で流行っているお菓子屋さんの話が書き送られて来ていたから。
カレルが止めようにも止められないのね、きっと。……同封されていたレシピは、通いつめて手に入れたと書かれていたけれど、見る気にはなれなくて見てもいない。
もしかしてそれに書かれているのかも、と仕方なく開いたけれど、美味しそうな木苺のタルトの作り方に詳しくなっただけだった。
フェリスの手紙は手紙を託してきた五人に対する愚痴入りだったけれど、緊急な内容ではなかった。
なら、どうしてあの時、ベルモントはわたしに手紙を手渡ししたのかしら。
視界の端にあの白い封筒を認めながら、もう一度紋様を思い出そうと目を閉じた。
次に目を開けると、すでに昼を過ぎていた。まさかあのまま眠ってしまうなんて、意外とわたしも図太かったみたい。まあ、疲れていたのは事実だけれど……。
セリアに聞くと、何度か起こしに来たらしいのだけれど、まったく記憶がない。
テーブルの上の封筒を見て、夜遅くまで読んでいたのだろう、とそのまま眠らせてくれたのだとか。
今日もユリウス君と砦の鍛錬に行くつもりで朝早くに起こしてもらう予定だったのに。
「それならご心配はいりません」
「どうして?」
着慣れた薄手のワンピースに袖を通しながら聞けば、セリアはため息をついた。
「日が出る前にお一人で砦に向かわれましたから」
「ええっ?」
鍛錬に参加するのは予定通りだけど、わたしと一緒に行くって話だったわよね?
それに、そんな早くだと朝の食事だって間に合わない。何も食べずに行ったの?
「聞いてないわ」
「ええ、私たちだって聞いていませんでした。朝起こしに行ったらもういらっしゃらなかったんですから! だから、使用人総出で探そうかって話になって。その時に馬丁と門番から報告があって」
馬に乗れるのはわかっていたし、鍛錬に前向きなのもわかっていた。
でも、一人で?
まさか、警護も付けずに?
「すぐ別の門番が後を追って送り届けたそうです。帰りは砦の兵士をつけると連絡がありました」
「そう」
それにしても、思わぬ行動力だわ。
二日前に来たばかりの土地だと言うのに、肝が座っている。
というか、あの四阿で泥遊びをしていた子とは思えない。
あの姿はやっぱり演技だったのだろう。昨日の一件はそれを止めるほどに強烈な体験だったのかもしれない。
「それで、まだ帰っていないの?」
「はい、砦でお昼もいただいてくるからと」
「……大丈夫かしら」
思ったよりしっかりした子なのはわかったけれど、それでもまだ十に満たない子供なのだ。
それにーーあの勉強量。
ユリウスおじさまのところにいた時のタイムスケジュールをもらったのだけれど、ぎっしり予定が詰まっていた。
おじさまに聞けば、あれでも自領にいた時よりは少ないらしい。
住んでいる世界が違えば学ぶことも桁違いなのだ。
こちらにいる間も、できる講義はするらしい。
砦にはお師匠様もいるし、無理はさせないだろうとは思うけれど……。
この時間から向かったところで鍛錬場は使わせてもらえない。行ったところで邪魔にしかならないのはよく知っている。
寝過ごしてしまったから午後の予定も全部こなせるかは微妙なところだ。
ユリウス君のことは気にかけつつも、この後の段取りに頭を切り替えた。