101.子爵令嬢は伯爵の部屋を訪う
招かれたのはおじさまの執務室だった。部屋に入ると、家令が壁際に控えている。
家令がいるならとここまでついてきてくれたセリアには部屋の前で待機してもらったけれど、同席してもらった方がよかったかしら。
「こんな時間にどうした」
夜遅いというのに、おじさまはまだ晩餐の時と同じ服装で執務机の前に座っていた。机の上には書類らしい紙束が載っていて、インク壺の蓋も開いたまま。さっきまで仕事をしていたことが伺える。
「はい、あの……」
意気込んで乗り込んでは見たものの、何をいうべきかを迷う。
忙しいおじさまの時間をいただくには根拠が薄いけれど、でも気になってしまったのだもの。
ちらりと家令を見るが、こちらを見ることなく真正面を向いたままだ。
「彼のことなら気にしなくていい」
わたしの目の動きを人払いと思われたのね。そのつもりはないのだけれど、夜中にわざわざ訪ねたことで、よほど込み入った話をしにきたと思われたみたい。
「あの、おじさま。……勘違いだったらごめんなさい。彼……ユリウス君に、何か言いました?」
「え?」
こんなこと、自意識過剰だと言われても仕方がない。
でも、あの子はたしかに『おまえを見習う』と言った。誰かに言われたとしか思えないもの。
「あれが何か言ったか」
「ええ。どなたかに、わたしを見習えと言われたそうです」
そう告げた途端、おじさまは体をゆすりながら大声で笑い出した。
「おじさま……?」
「ああいやすまん。そうか、そんなことをなあ」
笑いを噛み殺しながらおじさまは机から離れてわたしをソファに誘う。お仕事の邪魔をしてしまったようで気になったけれど、おじさまはわたしの向かいに座った。
「なるほど、それで拗ねてたのか」
拗ねる、と言われてあの子の悔しそうな顔がよぎる。
おじさまはまだにやにやとわたしを見ながら笑っていて、ちょっと居心地が悪い。
というか、わたしが笑われてるような気がするのだけれど……。
目の前をいい匂いをさせながら紅茶のカップが横切る。はっと目をやれば、いつのまにか家令がお茶の用意を整えていた。
「もういい、お前も下がれ」
「ですが」
おじさまの言葉に頭を下げつつもわたしの方をちらりと見やる。
若い若いと言っていたけれど、見かけによらず落ち着いた物腰だ。
「あとは私がやっておく」
かしこまりました、と頭を下げて、家令は出て行った。
扉が閉じると、おじさまは笑いも落ち着いたのか沈黙が落ちた。
「すまないな、本当に。……エヴァの仕業だろうな」
「エヴァンジェリン様の?」
どういうこと、と眉根を寄せると、おじさまはカップを取り上げてニヤリと笑った。
「うちの女どもは皆そなたを好きだったからなあ」
「え、と、一体何のお話を……」
「うちに来るといつも娘たちに遊ばれていただろう?」
「遊ば……ええと、エヴァンジェリン様とは幼いころはよく遊んでいただきましたけれど」
長女のリリアンジェス様と次女のメリジェンヌ様はずっと年上の方で、わたしがここに来るようになった時にはすでに嫁がれたあとだった。
三人の中で面識がきちんとあるのはエヴァンジェリン様だけのはず。
そのエヴァンジェリン様も、早々にお輿入れされた。わたしは十にもなっていなかったと思う。
エヴァンジェリン様の小さい頃の衣装を見せていただいたり、実際に着せていただいたりもした。プレゼントされることもあって、母上がとても恐縮していたことを覚えている。
「言葉を選ばんでもいい。あやつらはそなたを娘や妹のように可愛がっておったからな。……そんなそなたが剣を習いだしたと聞いて、うちで引き取ろうとまで言いだした」
「ええっ?」
そんな話があったなんて、初耳だ。
「ニールに無理やりやらされていると思ったらしい。それで北の砦に連れて行った。小さななりで大人に混じって真剣に剣を振るうそなたを見て、感じるものがあったのだろうな。何も言わずに帰ってきた」
昔の話だ、とおじさまは言い、カップをテーブルに置く。
「エヴァは同じ年頃のあの子に昔のそなたを重ねてしまったのだろうな。……そなたも気づいておろう。春先に妹が生まれてから、まるで幼い子供のようになってな。しばらくの間、預かることにしたのだ」
おじさまの言葉に、わたしは頷く。あの時感じた違和感は、やはり間違ってはいなかった。
「ええ、気づいていました」
でも、それはたぶん逆効果だ。……あの噂は、ユリウス君の耳にも入っているだろう。
「おじさま、立ち入ったことを聞いても構いませんか?」
「なんだ、急にかしこまって」
訝しげなおじさまに促されて、わたしは口を開く。
「おじさまは彼を後継者に据えるおつもりですか?」
「まさか。そんなことをすればウェイド侯爵が黙っておらんよ。誰かそんなことを言っているのか?」
わたしが頷くと、おじさまは顔をしかめた。やっぱり、おじさまはご存じなかったのね。
「……まさか、ユリウスにも?」
「直接は聞いていませんが、セリアが知っているくらいですから」
「……なんてことだ」
おじさまはソファに背を預けると、両手で顔を覆った。
「それでは、あの子は親に捨てられたと思っているのか」
「ええ。……おそらくは」
子供のような振る舞いも癇癪も、今や親元に帰るために行なっているのではないだろうか。
後継者にふさわしくないと思われれば返される、と。
「……明朝すぐにウェイド家に送ろう」
おじさまはそう告げ、重くため息を吐いた。
「でも、それではエヴァンジェリン様がお困りでしょう」
「背に腹は代えられん。あの子はウェイド侯爵家を継ぐ者だ。……こんな傷をつけるつもりはなかった」
「ですが、何も説明せずに帰せば今度はおじさまにも見放されたと思います」
わたしに泥を投げつけた時のユリウス君の表情を思い出す。
あの子は自分がやったことをきちんと理解していて、もたらされる結果に恐れも抱いていた。
それほどに傷つきながらも、完全におじさまに呆れられる道は取らなかった。
家には戻りたい。けれど、おじさまに失望されるのも怖いのだろう。
おじさまに失望されて返されたとなれば、ウェイド家に戻ってもご両親はいい顔はしないだろうから。
子供でもそれはちゃんとわかっているのだ。
だからこそ、どうしていいのかわからないのだろう。
「では、どうすれば良い」
「……おじさま、わたしの提案を聞いてくださいますか?」
それが最善かどうかはわからない。
でも、少なくともここで噂に翻弄されながら傷を負い続けるよりはましなはず。
おじさまの首肯を待って、わたしは切り出した。
「収穫祭まで、我が領に遊びに来ませんか」