98.子爵令嬢はハインツ領を訪ねる
馬車を降りると、灰色の館と焦げ茶色の扉がわたしを迎え入れる。
ここはハインツ領の領主館。
山の麓とはいえ、我がベルエニー領の入り口ということもあって賑やかな街の真ん中にある。
雪の頃になると壁と雪の境目がわからなくなるのだという。だから、扉だけは目立つ焦げ茶にしたのだとおじさまに聞いたのは、何年前だろう。
見覚えのない若い家令に迎えられて扉をくぐる。
以前はユリウスおじさまとそう年の変わらない方だったと思うけれど、それも少なくとも六年以上前のこと。
きっと代替わりしたのだろう。だとしたら孫かもしれない。息子というには若すぎるもの。
などということをつらつら考えながら、館の中を歩く。
館の中はあまり変わっていなくて、懐かしさがこみ上げてくる。
そういえば昔、かくれんぼをして部屋から出られなくなったことがあったわね。あの時遊んだ子供たちは元気にしているかしら。
「どうぞ、お館様がお待ちです」
家令の声で我にかえると、目の前の扉が開かれたところだった。後ろから小さな声でお嬢様? と促される。ちらりと見れば、セリアが籠を抱えてこちらを下から伺っている。
そんなに上の空だったかしら。心配かけてしまったみたい。
にっこりと微笑みを作って小さく首を横に振ると、セリアの目がほっとゆるむ。
今日のわたしは母の代理だ。きちんと勤めなくては。
部屋に入ると、ユリウスおじさまがソファに腰掛けて待っていた。
「おじさま」
ほっと表情をゆるめる。記憶にあるおじさまより少しお年を召していらっしゃる。
髪も髭も、量こそ変わらないものの、艶やかだった銀色は白っぽい。
それに、ずいぶん痩せられた。
記憶の中のユリウスおじさまは、父やお師匠様ほどではないものの、もう少しふっくらとしていらしたはず。
ハインツ領はベルエニーが突破された場合の第二の砦。その指揮官だからと体を鍛えてらっしゃったと記憶しているのだけれど。
「ご無沙汰いたしております、ユリウスおじさま。本日は母の名代としてまいりました」
出しかけた足を踏みとどまって、淑女の礼を取ると、おじさまの目が嬉しそうに細められた。
「ほう、あのおてんば娘が、変わるものじゃな」
以前のように駆け寄っておじさまに抱きつきたい気持ちを抑えてよかった。満足そうに頷くユリウスおじさまは、立ち上がるとわたしの頭に手を乗せた。セリアが編み込んでくれた鈴がちりりと鳴る。
そうだった。いつもおじさまは抱きついたわたしの頭を撫でてくれていた。力が強くて、すぐぐしゃぐしゃにされるから、おじさまを訪ねる時は髪を編まないようにしてもらっていたの。
今日は母上の名代なのだからと押し切られたのだけれど、おじさまは髪が乱れないように、手を乗せるだけにしてくれたのだろう。
それがありがたくもあり、寂しくも思う。
下から伺うと、おじさまは一瞬だけど寂しそうな顔をした。
「おじさま?」
「それにずいぶん伸びたな。ニールが悔しがるわけだ」
「父上が?」
しかしその問いに答えず、おじさまはわたしの手を引いてソファに導いた。
座る前に渡そうとセリアから籠を受け取ろうとすると、おじさまはわたしの手よりも早くセリアの手から籠を取り上げる。
「母からおじさまに預かってきたものです」
慌てて告げると、おじさまはにっこり笑い、そばに来ていた若い家令に渡した。
「ああ、いつもありがとうと伝えておくれ。あとで皆でいただこう。彼女のパイは皆好きでね」
籠の中身をご存知なのは、きっとおじさまがリクエストしたからね。母上が少し困った顔をしながらレシピを考えていたもの。
わたしが座り、おじさまが腰を下ろすと、セリアはさっと壁際に寄る。いつのまに整えたのか、ワゴンを押した若い家令は手際よく茶の準備をすると部屋を出ていった。
「わざわざすまないね」
「いいえ。わたしが来たかったのです」
少し体調を崩した母は、おつかいをセリアに頼むつもりだったらしい。
今朝それを聞いて名乗り出たのはわたし。
母の侍女のことでご迷惑をおかけしたことを直接お詫びしたかったのよ。
直接的には母の侍女だけど、そもそもわたしが王太子妃候補にならなければ来なかったはずで、やはりわたしにも責任はあると思うから。
「あのことならもう詫びはいらんぞ」
「ですが」
「そうでなくともニールたちに散々詫びられたわ」
つまらん、とおじさまはつぶやいてカップを傾ける。
「詫びるよりも楽しい話をしに来いとニールに言っておけ」
おじさまが心底嫌そうに顔を歪められるのを見るのは初めてかもしれない。
いつだってわたしやカレルには楽しげに笑ってくれていた。それも、わたしたちが子供だったからなのだと再認識する。
「では、お詫びに収穫祭にご招待いたしますわ」
くすりと笑いながら封書を差し出すと、おじさまは口元をゆるめる。
「それは詫びとは言わんぞ?」
実のところ、母から預かったパイよりもこちらの用事の方が主目的だ。
「お師匠様……ダン・グレゴリ隊長からも楽しみにしていると伝言を預かっています」
「ふむ、確かに受け取った」
封書を家令に渡したのち、おじさまは視線を窓の外に向けた。
「今日は泊まっていくのだろう?」
「はい。お世話になります」
すでに日は傾き始めている。この時間からベルエニー領に戻るのは単騎で来ているならともかく、馬車では無謀でしかない。
「部屋に案内させよう。……すまないが、まだやることが残っていてね」
申し訳なさそうに言うユリウスおじさまに、わたしは首を横に振った。
年齢を理由に社交界への参加は免除されているが、領主としての仕事は変わらない。その上伯爵位にまつわる役務もあるはずで、子爵位たる我が父と比べると圧倒的に忙しい。
そんなおじさまを煩わせてしまったのはやはり申し訳なく思う。
「大丈夫ですわ。久しぶりだし、庭を見て回っても?」
「ああ、もちろん」
ほっとした顔のおじさまに腰を折ると、わたしはセリアとともに部屋を出た。