プロローグ
北の秋は短い。あっという間に冬になる。
少女は広い原っぱから、こげ茶の瞳をきらめかせながら北の方角を仰ぎ見ていた。青く見える山のてっぺんはすでに白く帽子をかぶっていて、冷たい風がむき出しのまあるいほっぺを撫でていく。
耳まで冷たくなる感覚が少女は大好きで、帽子も耳あてもせずに風に栗色の髪をばらまかせていた。かなり寒いはずなのに、少し厚めの紺のコートを羽織っただけで寒そうな顔一つしない。
遠くの方で誰かが呼んでるのが聞こえて少女は振り返った。原っぱをもこもこの格好をした人影がこっちに向かって歩いてきているのが見える。
足元が危ういのだろう、人影がぐらつくのを見て少女はしっかりした足取りで走り出した。
「危ないからそこにいろって」
「大丈夫だってばー」
くすくす笑いながら踊るように駆けって少女は人影――少年のところにたどり着いた。年のころは十歳ほどで、少女よりは年上だ。が、少年のほうが小さく見えるのは、着ぶくれしてもこもこだからだろう。
「とーちゃくぅ」
「そんなに走るなよ。危ないだろ」
白と青の縞々マフラーで顔を半分隠し、同じ柄のニット帽で頭をすっぽり覆われた少年は、冬の空のように青い瞳を真ん丸に見開いて少女を見つめた。
「このくらいへーきだよ、慣れてるもん。それよりさ、暑くない?」
少女は少年の周りをぐるりと飛び跳ねて、すぽっと帽子を引っ張った。黒い髪の毛がパラリと顔にかかる。
「あっ、返せよっ」
「だってほら、汗かいてるし」
帽子を手にひらひらと逃げ回る少女に、少年はむっと唇をとがらせて、手を伸ばして追いかける。
少年と遊ぶようになったのは春先のこと。
いつからいたのかは知らない。町の子たちと一緒に遊んでいるときに一人ぽつんと立っていたのを見つけて、少女から声をかけたのが始まりだったと思う。
それから時々見かけるようになった。
引っ込み思案なくせにぶっきらぼうで、口が悪い。
「ここの風は気持ちいいんだから」
「寒いって」
「走ったらあったかくなるよ。マフラーも外せばいいのに」
「お前と違って体力バカじゃないんだから……」
ぜいぜいと荒く息をしながら少年が立ち止まると、少女は慌てて駆け寄った。
「ごめん、大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
少年はぶすっとむくれてその場にしゃがみこむと枯草の上に腰を下ろした。
「みんな無茶ばっかりさせる」
「でも、ずいぶん元気になったよね。肌の色もよくなったし」
「よくない。日に焼けて真っ黒になった」
「顔色もよくなった」
少女はにっこり微笑むと少年の横に座り込んだ。
「それにさ、体もがっしりしてきたよね」
「そりゃ、これだけ毎日あちこち走り回ってればな」
「初めて会った時なんかあたしより細かったもんね」
「……仕方ないだろ、病気で外に出るなって言われてたんだから」
「うん、だから元気になってよかったねって」
「……まあ、な」
細いと言われて唇を尖らせていた少年は、照れたように頬を染めてぷいと横を向いた。
「発作も出なくなったし。……ここに来てよかったと思ってる」
「うん」
よかったよかった、とにこにこする少女をちらりと見て、少年はマフラーを外した。冷たい風が首筋を通り過ぎて思わず首をすくめる。
「で、今日はどうしてここに来たんだ? 広場にお前だけいないから探したぞ」
「え、そうなの? ごめん」
少女は立ち上がると、北の山脈を指さした。
「あの山の観察に来たの」
「山の?」
つられて少年も立ち上がる。少女の指先には青くそびえる山脈がある。
「あの山に雪が降ると、もうすぐ冬なんだ」
「もうすぐって……もう冬だろ?」
きょとんと少女を見ると、少女はぶんぶんと首を振った。
「今は秋だよ。あの山に雪が降ると、一週間ほどで霜が降りるの。霜が降りる前に作物の刈り入れをしなきゃならないから、毎日確認しに来てるの」
「へえ」
「霜が降りるとぐんと寒くなって、すぐ雪が降り始めるよ。雪って知ってる? 見たことある?」
少女の言葉に少年は首を横に振った。
「王都に雪は降らないから」
「そうなの? じゃあ初めて見るんだね。きれいだよ、雪って積もると一面真っ白になるの。でも、きれいだけじゃなくて、積もると道が歩けなくなるから、大変なんだ」
「道が?」
首をかしげる少年にうふふと少女は笑った。
「見てみないときっと分からないと思うから、楽しみにしてて。雪降ったらいっぱい遊ぼうね」
「えっ、寒いんだろ? やだよ」
「大丈夫だってば。それに、これくらいの寒さでそんな厚着してたら、冬に着るもの困っちゃうよ? 寒さに慣れないと」
「やだよ。そんなに寒いんなら王都に帰る」
「え? もう帰れないよ?」
思いっきりいやそうな顔をした少年に、あっけらかんと少女が言った。少年の顔が曇る。
「……どういう意味?」
「山にあれだけ雪が積もったら、王都に通じる山道はもう閉鎖されてるよ」
「あれは北の山だろ? 王都に通じる道は南側の平坦な道じゃないか」
驚いて少年が反対側の王都の方角を指さすと、少女は首を横に振った。
「南に下る途中も山があるんだよ。そこはもう雪が積もりはじめたって言ってたから」
「聞いてないぞっ」
「だから、寒さには慣れといたほうがいいよ。……どうしたの?」
少年はぶるぶる震えると、来た道を戻り始めた。
「帰るっ」
「だから無理だってば。昨夜お父様が封鎖したはずだもの」
ぐいと少女に腕を引っ張られて、少年はあっけにとられて目を丸くした。
「冬になるとうちの領って雪で閉ざされちゃうんだよね。お父様が王都から引き揚げてくるときに、街道封鎖するんだ。だから、もう帰れないよ?」
「そんな……聞いてないっ」
「王都に戻れないと困るの?」
「……寒いのは嫌いだ」
顔をゆがませる少年に、少女はにっこり微笑んだ。
「大丈夫だって。それでも寒いのがいやならうちにおいでよ。うちの館はあったかいから」
「……知ってる」
「え?」
ぼそっとつぶやいた少年の声は聞こえなかったらしい。少女は首を傾げて少年を見たが、少年はそれ以上何も言わなかった。
「じゃ、帰ろっか」
少女はしょげた顔の少年の手を握ると引っ張った。
「え?」
「山の観察は終わったから、急いでみんなに知らせないと。手伝ってくれる?」
ぱっと顔を上げた少年は、ちょっと思案顔をしたが、すぐに頷いた。
少年がここにきてからもう半年になる。
最初はよそ者と冷たい目を向けられるばかりだったのが、少女にくっついて遊んでいる間にすっかり村人にも覚えられて、昔からいるかのようにほかの子供たちと分け隔てなく接してもらえるようになった。
おかげで村人にならば普通に話しかけることもできるようになったし、村の中もすっかり把握している。
その程度ならわけもない。
「わかった。任せろ」
少女の嬉しそうな顔を見た彼の顔も、ほんの少しだけ嬉しそうだった。