僕の目には色が足りない
美術室で白一点、女子と混ざることができず、イーゼルに乗ったキャンパスに一人勇敢に立ち向かっている男の子がいた。他の男子生徒は女権強き美術部の免疫反応に耐えきれず、幽霊部員になるか、退部するかしたと言うのに、彼だけはここで健気に絵を描き続けている。
そんな彼がどんな絵を描いているのか気になって、私はそおっと彼のキャンパスを後から覗き込んだ。
「なんか、寂しそうだね」
彼の絵を見て、胸の辺りが冷やっとするのを感じた。
太陽の位置からして早朝だろうか、校舎の最上階に位置するこの美術室から見下ろせる副都心がどこか現実よりも冷たく描かれている。
私が溢した声を聞いても、彼は何の反応も示さなかった。
そのことに安堵しつつ、私は彼の絵を眺め続ける。きっとどこかに、寂しさの理由があるはずだ。
「あ・・・・・・」
そして、たっぷり一台の車が描き込まれるくらいの時間をかけて、私はその理由が分かった。
「葉っぱが、灰色だ」
副都心に辛うじて残っている木々の葉が、彼の絵の中では灰色だった。
黒い幹に、灰色の葉。
それが彼の描く木々だった。
「なんでこんな色に?」
「僕には、こう見えているんだよ」
問いかけて初めて、彼は口を開いた。そのことに、私は少し驚く。余りに静かだったから、彼は口を利かないものだとばかり思っていた。ならなんで話しかけてんだよって感じだけど。
「この前、コンクールに出す絵が間に合わなそうになって、こっそり学校で一夜を明かしたんだ。絵が完成して、ふと外を見たときにこの窓からこんな光景が見えて、新宿って意外と綺麗なんだなって思ったんだよね。まだ排気ガスに大気を汚されていない素顔の新宿は、いろんなものがキラキラ輝いて良いなって思った」
「じゃあ、なんで木は灰色なの?」
「僕にはそう見えるからだよ」
「東京じゃ、人が作ったものの方が綺麗ってこと?」
「それもあるかもしれない。でも、そうじゃないんだ」
「自然が可哀想ってこと?」
「そんな偉そうな意味は込めてないよ」
ネタ切れだった。私には彼が灰色で木々を描く理由を他に挙げられなかった。
「僕が色弱なだけだよ」
「色弱って、赤と緑の違いが分からないってやつ?」
「まあそうかな。僕の場合は、緑と灰色の違いが分からないんだけどね」
「じゃあ、間違えたの?」
「失礼だなぁ。間違えたんじゃないよ」
「わざとこんな風にしたの?」
「うん。だって、僕にはこう見えているんだよ。僕の世界はこうなんだ。だから、僕が絵を描こうとするとこうなるんだよ。キミには変に見えるかもしれないけど、僕にはこっちの方がしっくりくるんだ」
「自分の苦しみを分かって貰いたいの?」
「分かって貰う必要はないんだよ。僕にだって、皆の目には世界がどう映ってるかなんて分からないんだから。ただ、お互いに分かり合えないってことと、分かり合う必要もないんだってことを、この絵を通して誰に伝えられたら良いなって思ってる」
私には、彼のそんな願いが人間の愚かさへの警鐘とか、環境問題とかよりもずっと高尚なもののように思えた。
だから、私は言う。
「私は分かったよ」
そんな私に、彼は眩しい笑顔を見せてくれた。彼は笑うと目が潰れるんだな、なんて思って私が見とれてしまった彼の微笑みの向こう側から、西に傾いた太陽が朱い光を私達に届けてくれていた。