06 一緒にいこう
「こんな文章ではダメだね」
永渕教授は私達の書いた原画と原稿に目を通すと、机の上にばさりと音をたててぞんざいに落とした。始めから上手いと言ってくれることを期待していた訳ではなかったけれど、作品に対する扱いが悲しかった。そんな人だと思っていなかっただけに。
「廣田くんの絵はいい。透明感がありつつ、子どもの気を引くように計算されている。文章がこの作品の足を引っ張っていると言わざるを得ない。……いや、素材、発想はいい。澤野くん、もう少し練ってきたまえ」
永渕教授はそういうと、私たちの作品をまとめ、廣田さんに返した。二人揃って教授の部屋を出ると、ゼミ生に開放されている隣部屋へと移り、椅子に腰を下ろす。
「……」
なんだか気まずい沈黙が流れる。他にも院生やゼミ生がいるのだが、一様に静かでこちらの様子を窺っているのが知れた。
廣田さんが髪の中に指を突っ込んでかき回すと、悔しそうに顔をしかめた。
「廣田さん、やっぱりこの話、廣田さんが絵も文もした方が……」
書けば書くほど自信がなくなっていく。
夏休み、廣田さんに誘われて行ったイベントサークルのキャンプは、改めて自分が他人とコミュニケーションをとるのが苦手なことを再認識させられた。
こんなことで幼稚園教諭や小学校の教員資格を得たとしてもやっていけるのだろうかと自信を無くす。
バーベキューもカレーも美味しかった。膝と手のひらを擦りむいたけれども、都会では見られない星空と……。
その先を思い起こそうとすれば、頬が熱くなる。
そして廣田さんは私にひとつの提案をしてくれた。
メランコリックな気持ちで星空を見上げたまま編んだ物語。それを一緒に絵本にしようって。
肩を寄せ合って草原に座り星空を見上げた。廣田さんは神話にも詳しいらしく星座物語を聞かせてくれた。
その物語のほとんどは私も知っているものばかりだったけれど、廣田さんの声で語られる物語は、初めて聞いたように私を惹き付けた。
そして星空を指さして星座の場所を教えてくれるが、さっぱり分からない。でも、そんなことはどうでも良かった。あの時間、廣田さんを独占できたことが幸せか気持ちにさせた。
なんてエゴイストなんだ、私は。
「それじゃ意味がないよ。このおはなしを考えたのは楓ちゃんなんだから」
諭すように廣田さんが言う。
「わ、たしは……別に……、だって、廣田さんが……しようって……」
「俺が無理矢理嫌がる楓ちゃんにさせたって言いたいの?」
真剣な瞳が怖くて俯いた。
「そ、そういう、わけじゃ……」
「そういう風に聞こえるよ。俺は別にこのおはなしで何かを成功させたいって思っているわけじゃないよ。でも、楓ちゃんもこのゼミを選んだからには、何かを作りたいって思っているんじゃないの?」
小さい頃から絵本が好きで、でもあんまり買ってもらえなかったから図書館で借りてもらっていた。字が読めるようになって、児童書を読み漁り、それだけでは飽きたらなくなって大人の本にも手を伸ばした。
本が友達で、本さえあれば幸せで。でもそれで満足じゃなかった。
友達と遊んでみたり、お誕生日会に誘われたりしてみたかった。でもその頃にはグループが出来上がっていたし、同級生は中で本を読むよりドッヂボールを外でする方が好きな活発な子ばかりだった。
一緒にドッヂボールをしても、「楓ちゃん弱いからこっちのチームに要らない」と無邪気に残酷な宣告を受けることもしばしばで。
そんな私はますます殻に籠った。
もちろん大きくなるに従って、少しは自分も周りに溶け込む努力をしたし、同じ趣味の人間がいることも知って、ノートに交換小説を書いたりもした。
その思い出は楽しくて、絵本ならもっと簡単なんじゃないかって、心の中でどこか舐めていたのかも。
現役絵本作家の永渕教授の講義、ゼミだとミーハーな気持ちで選んでしまっていた。
何が偉そうに、『私はこの大学の講義に興味があって入学したのだ。シラバスを隅から隅まで読み込み、取りたい資格と卒業に必要な講義をチェックしつつ、興味のある教授の講義を聴く』だ。春の頃の私を殴りたい。
しばらく沈黙が続いた。
「昔の話をしてもいい?」
いきなりなんだろう。まさか、昔々あるところに……って始めるつもりだろうか。いやまさかそんなわけない。
「俺と兄貴はね、随分歳の離れた兄弟なんだ。兄貴は親父の連れ子で、俺は今の両親の子。つまり、兄貴とは腹違いの兄弟ってわけ。俺が生まれた年には兄貴が小学四年生だった」
ゆっくりと上げた視線が、廣田さんのそれとぶつかった。
「多分君が思っているほど、家族仲は悪くなかった。兄貴が胸の内でどう思っていたかは分からないけど……兄貴は俺とよく遊んでくれたし、継母の手伝いもよくして……母も兄貴を大事にしていた。むしろ俺の方が放って置かれていて、兄貴がよく面倒みてくれていた。でもどこか遠慮しているところもあったんだろうな。兄貴は、そう。とても『いい子』を演じていたから」
過去を懐かしむように、廣田さんが微笑む。その視線はどこか遠いところを見ているように感じた。
「そして今も『いい子』を演じてる。だけど、俺が中学生の頃に家を出た。兄貴はその頃もう26歳になっているんだから、世間的には何も変な話じゃないんだよ。むしろ遅すぎるくらいだ。自分が居たんじゃ、難しい年頃を迎えた弟に母親が遠慮なしに接することが出来ないって思ったんだろうね。ちょうど兄貴も小説家として売れてきた時期であったことも大きいんだと思う」
再び廣田さんと視線が合う。
「でね、話が逸れたんだけど、最初、楓ちゃんが兄貴とどこか似てると思ったんだ……」
似てる。その言葉を反芻する。
「兄貴は大人しい性格で、いつも本を読んでいるような人だった。俺は兄貴の傍でいつも絵を描いていた。家族の前でも、多分友達や学校でも、空気のような存在でいようとしていた。そんな兄貴の唯一の自己表現は小説を書くことだった。賞に応募したのは兄貴を知る人間にとって、青天の霹靂のような出来事だった。もちろん、賞をとってから知らされたんだけど」
廣田さんが歯切れ悪く話すのを初めて見た。
「……新歓コンパの日、楓ちゃんを見て可愛いなって思ったのは本当のことなんだけど……不器用で損ばかりしてた昔の兄貴を見ているみたいで、放っておけなくて……。今はそんなんじゃない。楓ちゃんを一人の女の子として好きだって、そう思ってる。でも、その、なんていうか……さっきはムキになってごめん。楓ちゃんの気持ちを無視してキツく言い過ぎたと思ってる。思い通りにならないって子どもみたいに楓ちゃんに八つ当たりした。ごめん」
……私と廣田アイキが似ている……?
彼の作品に惹き付けられるのも、勇気づけられるのも、私と彼が似てるから?
私もお兄さんみたいに何か周りに認められるものが出来れば変わると、そう廣田さんは思ったの?
「楓ちゃんが望んでないなら、無理強いはしない。今度こそ本当に……」
元気の無くした廣田さんは、いままで見てきた廣田さんとは違うように見えて……いっこ歳上なのに何故か可愛く見えた。
「私も実は絵を描くの好きなんですよ。だから、廣田さんが文を書いてくれませんか。廣田さんみたいに上手じゃなくて恥ずかしいけど、私、絵を描いてみたい」
廣田さんが微笑む。その笑顔に私がどれだけ勇気づけられるか、あなたは知っているだろうか。
「俺だって美術を専門に勉強してるわけじゃないんだからあんまり買い被らないで……」
廣田さんが真っ赤になって顔を両手で覆った。本当に可愛い過ぎる。どうしてくれよう。
私たちは永渕教授に突っ返された絵本の原画と原稿を捨て、最初からやり直した。
◇◇◇
「良いじゃないか。廣田くんの文はやはり秀逸だ。対象年齢の子どもに分かりやすい言葉を選んでいる。それに表現がとても素直だ。主人公に人間臭さがあって、子どもが親近感を覚えるだろう。読み聞かせなら四歳くらいから理解できるだろうね」
永渕教授は原稿を置いて原画を手に取った。
「ふむ……」
バサバサと紙を捲る音だけが教授室に存在した。
私と廣田さんは息を飲んで永渕教授の反応を待つ。
「雑で……素人が描いたってことがすぐ分かる。だが、このくらい素直な絵というのも案外子どもを惹き付ける時がある。若い内は何事も挑戦だ。試してみるが良いだろう」
ケチョンケチョンに評価しながらも、前より丁寧な手つきで茶封筒に原画と原稿を入れると廣田さんにそれを渡した。
「やった……」
永渕教授の部屋を引き取り、私は高揚した気分で廣田さんと向かい合い言った。
廣田さんは、前のように余裕のある微笑みで鞄から一冊の雑誌を取り出した。
「俺たちの挑戦はまだまだこれからだよ。一緒に行こう、未来の俺たちに向かって」
「未来の俺たち、って?」
フフッと廣田さんが恥ずかしそうに笑った。何を想像しているのやら。
廣田さんが雑誌をパラパラと捲り、目当てのページを開いた。そして応募要項の一文を指で示す。
「え……!」
「ほら、共作もオッケーだから。一緒に未来を築こう」
ちょっと、それ。プロポーズみたいです。
廣田さんは絶対そんな気ないはずなのに、ドキドキして期待、いや、誤解してしまいそうだ。
『この男、天然タラシにつき危険!』ってポスターを作って背中に貼ってやる。
そして私たちはその原画のカラーコピーを、ちょうど応募受付していたMOI絵本大賞に応募した。
私たちの未来への挑戦の第一歩だ。
悔いのないように頑張ってみようと思う。二人三脚でも良いじゃない!!
あなたの思い描く未来に付き合いたいと思う、いつまでも。