01 付き合って。
居酒屋どんぱっぱ。
お客様もバイトも学生ばっかりのこの居酒屋は、甲北大学の近くにあるからコンパなどによく使われる。
イベントサークルの新歓コンパで私は初めてそこの暖簾をくぐった。
履修登録を出す前に同じ学部の先輩に相談したいという友達に引っ張られ、連れて来られたのだ。
入学式でたまたま隣に座ったというだけのその友達は、今もまた私の右隣に座り、飲み物を手にさらに右隣の先輩と仲良く話している。誰々教授の抗議がどうのと聞こえている。学生運動は若気の至りとしてよくある話だろうから否定こそはしないが巻き込まないで欲しい。
私の左隣には、イケメンがちびりちびりと透き通ったグリーンの液体を口に含みつつ周りの会話に時々頷いていたりする。もともとあまり喋る方では無いんだろう。だがしかし周りに置いていかれまいとするわけでもなく、適切な距離を保ちつつ円滑なコミュニケーションを築くその姿は、コミュ障のあたしからすれば神々しい。その神々しい人の顔がこちらを向いた。正確には首を右に旋回しつつ45°下に視線を落とす。
「大人しいね、飲んでる?」
コクコクと頷く。そして意志表示をするため琥珀色の炭酸が入ったグラスを少し上に持ち上げた。ちなみにこれはジンジャーエールだ。断じて麦から造ったアルコール入りドリンクではない。私は手が前に回るような事態になるのはごめんだ。
その人は小さく頷いてにこりと笑うとまた視線を向こうへと戻した。
「それぞれのテーブルでとりあえず自己紹介しようか」
何回生なのか分からない髭の生えた先輩の音頭で、テーブルごとに自己紹介が始まった。名前と学部と学年。それと個人のセンスで趣味とかを暴露する。
自分の番がひとつひとつ近づいて来るたびに動悸がする。手のひらに人という字を書いて飲み込む。
どうして皆、そんなに爽やかに自己紹介が出来るのか、不思議でたまらない。とりあえず口の中でリハーサルをしてみた。
望月女子出身、澤野楓です。趣味は……。ええと、読書とか言ったらオタクだって思われるかな。どんな本読んでるのって聞かれたら答えづらいな。
「はい、次」
マイク代わりのおしぼりを手渡される。もう冷たくなったそれをぎゅっと握り締める。
「えっと、えっと…………」
「名前」
動転してリハーサルしたことが何も出てこない。それまで賑やかに話していたみなさまが、一様に静かになり視線を集める。頭に血が上り、逃げ出したくなる。
パニック状態の脳内に、アルプスの天然水のような声で助け船がどこからともなく流れてきた。溺れるものは泥舟にもしがみつく。舌をカミカミなんとか名前を言った。
「あっ! さ、さわにょ、かえ、で……です。よろしく……お願いしま……すっ!」
これ以上は無理。
集まる視線が耐えられない。
やっぱり3人飲み込んだだけでは足りなかった。
火照る顔を俯け、爆発物を押し付けるようにしておしぼりを左に受け渡した。
「人間学部、児童教育学科、二回生の廣田光輝です」
火照る頬を両手で挟みながら声の主をアホ面さらして見上げていた。
アルプスの天然水はここに湧き出ていた……!!
人と目をあわせて自己紹介ができる廣田さんは、テーブルを見回す。一瞬だけ私とも視線が合った。その瞳は穏やかで、バカにされていないことが分かって少し安堵した。
「趣味は読書です」
その瞬間、とくんと心臓が跳ねた。
その後、無性にウズウズする。本好きの習性が疼く。廣田さんがどんな本を読むのか聞きたくてたまらない。行きつけの本屋は何処だろう。でも待って!私もどんな本を読んでるか聞かれるのは恥ずかしい。
よく言うでしょ。本棚でその人が分かるって。
そりゃもう、丸分かりよ。趣味から性癖まで!
ああ! でも聞きたい!
そして出来れば面白い本を紹介したりされたりしてみたい。いや、でもこれは諸刃の剣なんだーー!
でも止められない止まらないこの気持ち。
いやはやしかし、人が話している時におしゃべりするのはマナー違反だろう。ウズウズする気持ちを抑えつつ隣のイケメンの挙動をこっそり観察した。
一通り自己紹介が終わると、おしぼりマイクは髭の先輩のところに戻った。そしてイベントサークルがどんな活動をするかの説明がなされる。なんてことない、花見にキャンプ、海に行ったりスキーをしたり、集団で遊びに行くだけのようだ。楽しそうではあるかもしれないが、私のような人間にはハードルが高い。絶対楽しめる気がしない。
全国本屋巡りとか図書館巡りなら行ってみたい。何を隠そう私は紙の本が好きだ。紙の匂い、インクの匂い、そこに人はいるけど静かでお互い干渉しない空間。
なんて素敵なんだろう。
気がつけば髭の先輩の話は終わっていた。
「楓ちゃん?」
声のする方にを向けると左のイケメン廣田さんと目が合う。
「は、はひ。何でしょうか……」
廣田さんはおかしそうに手を口の前にあてた。
手、でっか。
「何だか一人の世界に旅立っていたから。みんなみたいに履修相談とかしなくていいの? 楓ちゃんナニ学部だっけ?」
「いえ、あの……はい。大丈夫です。必修教科以外は自分の興味のある講義受けようと思ってますので」
「そう」
いかに楽に単位をとってバイトと遊びに時間を費やすかじゃなくて、私はこの大学の講義に興味があって入学したのだ。シラバスを隅から隅まで読み込み、取りたい資格と卒業に必要な講義をチェックしつつ、興味のある教授の講義を聴く。合間には豊富な蔵書が自慢の大学図書室に籠り……クスクスクス。
あ、いかん。また自分の世界に入っていた。
廣田さんに退かれただろうか。
別にもてたいと思っている訳ではないけれども、悪印象も出来れば与えたくない。微妙な乙女心なのだ。
大事なことを忘れていた。
「先ほどは助けて頂きありがとうございました」
「いえいえ。あがり症なんだね」
あがり症、そうなのだろうか。人前で話すばかりか、集団に入ると話に入れない。二人でも話が続かないんだけど。
廣田さんが焼鳥をもぐもぐと食べている。
「……ひとつ質問があるんですが、いいですか?」
「ん? どうぞ?」
こちらを向いた廣田さんの口の端にタレが!
おしぼりで拭って差し上げた方が?
いやしかし、ちょっと待て。それこそ退かれるだろう。指摘するぐらいに止めておこうか。それとも見ないふり?
と、思った拍子に形のいい唇から舌が……。ペロンと拭い去っていった。キュン死させる気か、この人は。
昨夜読了したティーンズノベルのヒーローみたいな顔をしているだけに生身への違和感がハンパない。
こほん、まあ気をとりなおそう。
「あのっ、廣田さんは……どこの本が好きですか」
廣田さんがきょとんとする。
聞き方が悪かっただろうか。どこの、といえば出版社に決まっているのに。出版社なら読書の傾向が分かる上に性癖までは垂れ流しにはならない。セーフティな質問のはず。
「どこの、って?」
「いや、あの。ですから出版社とか」
ゴニョゴニョと言い訳のように説明すると、廣田さんの目が可笑しそうに細くなる。
「う~ん、どこのかぁ。講○社とか集○社かな」
うわっ。漫画から料理本まで手広すぎる。全然絞り込めない。
「えっと、じゃあ文庫派ですか、文芸本派ですか」
本当言うと何文庫が好きですかって聞きたかったけど、そこまで突っ込んだ質問は危険だろう。
「持ち歩くなら文庫派だけど……楓ちゃんは?」
「私はですね……!」
我が意を得たりとばかりに話してしまった。始めは警戒して出版社の好みから話していたのに、聞き出し上手な廣田さんに乗せられて、好きな作家や本のタイトルまで……!
素っ裸にされた気分です、本当に。
だって高尚な文学ならともかく、ミーハーなライトノベルや恋愛小説のタイトルまで……!
喋り過ぎて急に喉が渇いてきた。顔も熱いしもうカラカラ。
テーブルの上に置いてある琥珀色の炭酸の入ったグラスを手に取る。ゴクンゴクンと一気に飲んでようやく味が違うのに気付いた。
グラスを手に取ってから飲むまでの間に隣のイケメンさんが「あっ」とか言ったような気がしたけど。喉の渇きが癒せるまで止まらなかったんだ。
「それ、俺のモスコミュール……」
モコスコミュール? にゃんですかそれは。
予想していなかった味に舌が驚いて、飲み込み損ねて噎せた。ゴホゴホ。辛い、辛い、辛い!
胃からのど。顔も身体も熱い。噎せた背中を撫でてくれているのは誰? ありがとうございます。
「ちょっとお花つみに行ってきましゅ……」
立ち上がれば足元はフワフワ、ぐるぐる。
「マジか」
誰かの声が聞こえた。
こちとら真面目に19年間育って来てるんだよ。
ああ、もうダメだ。警察に捕まるんだ。
刑務所には本持っていけるのかな。
靴を履こうとしてふらつく。転けそうになった身体を支えられて、大人しく寄りかからせてもらう。
あ、廣田さん。
トイレは座敷を出て右の廊下の突き当たり。
人が通ってなくて、明るい照明に磨かれた大理石風タイルが光っていた。飲んでいる人の体温に合わせているのか少し寒い。
清潔感の漂う廊下はトイレにも期待が持てるとるんるんとしたらば、とんと軽く肩を押された。
「楓ちゃん、俺と付き合わない?」
「はいぃ?」
あり?
押されてふらついたのを支えられたかと思えば廊下の壁に背中を押し付けられていた。廣田さんの肘が壁に付いています。どうも廣田さんと壁にサンドイッチされているみたいです。
ちょっと待って下さい。これまでの展開にどこにそんな要素があったとですか?
自己紹介の後に趣味が一緒だったから思わず興味本意でちょこっと質問しただけですよね?
しかもあたし遠回しすぎて外しましたよね?
あたしみたいな冴えないちびっこ(148㎝)で眼鏡で本オタクに壁ドンとか、とか、とか!!
身長差30㎝。遥か上にそびえるご尊顔が今は覆い被さるようにゆっくり下りてきている。酒くさい……。ひょいと眼鏡を取り上げられて、思わず目を瞑った。
だけどここまで強引にしといて何だけど、乙女ゲーの俺様男子のようにキスをしてくるわけじゃなかった。恥ずかしい。穴が無くても掘って隠れたい。
そうっと窺うように目を開ければ、廣田さんの顔が間近にあった。
「ぎゃあ!」
「傷付くな」
楽しそうに言ってんじゃありませんよ!
「どどど、どこが!」
「この辺」
うわぁ。手首を握られて廣田さんの黒のニットの胸に押し当てられた。薄いニットを通して温かな体温を感じる。うわお、胸筋が盛り上がってる。たくましいんだ。理想の細マッチョ。
「楓ちゃんのえっち」
「ぅなっ! なんでそうなるんですか!」
「なんちゃってね。楓ちゃんと本屋巡りしたら楽しそう。だから『付き合って』?」
あーー、驚いた。心臓止まったらAED探して貰わなくちゃ。でもこの状況で心肺蘇生法やられたらブラ剥き出しの、マウスツーマウスでファーストキスもセカンドキスも奪われる。そんなことされてたまるものか。
廣田さんは、にやっと笑って私を囲いから解放すると、奪った眼鏡を返して気を付けてと一言付け加えて送り出した。
はて。一瞬何のことかと思ったけど、そうそう目的はお手洗いだったわ。
便器に腰掛けながらぐるぐると思考を整理する。うん、からかわれただけだ。こんな地味女、誰が好き好んで付き合うというのだろう……。きっと珍しいからだ、うん。本屋巡りはデートじゃない。断じてデートじゃない。
手を洗ってお手洗いを出ると、廣田さんはもういなかった。まあ、待っていてくれるとも思ってなかったけど。
胸に手を当てればまだドキドキしている。
それからはウーロン茶ばかり飲むようにして、もっぱら話の聞き役にまわった。廣田さんとも時折視線が合うものの、それ以上の何もない。
ウーロン茶を飲みながら、枝豆、揚げ出し、唐揚げ、焼鳥、干ほっけを黙々と食べる。
そして解散。最初に会費を払ってあるので、友達と一緒に居酒屋を出た。
「いやー、しかし、なんだか意外だったなー。ねぇ、楓ちゃんは廣田先輩と付き合うの?」
なんでそうなる!?
明るい通りを選んで歩いていると、友達がふいににやにやして言う。ばかな、そんなことあるわけがない。あんなイケメン様が私に本気になるわけないのに。
やけに熱い頬を両手で挟んで私は友達に抗議した。