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食べ物シリーズ

たまごかけごはん

作者: あわき尊継

 耳を澄ませて唾を飲み込んだ。

 秒針の進む音がやけに遅い。カチ、という音さえ間延びして聞こえてくる。

 視線を左から右へ。綺麗に整頓された書類と資料、無難な風景画を壁紙にしたPC画面、メモ帳の脇にはピンと尖った鉛筆と消しゴムが揃えて置かれている。机の角には真新しさが随分と薄らいできた『小山 幸久』のネームプレートがある。

 マウスを手に、カーソルをシャットダウンの文字に合わせた。

 目立たないよう足元に置いてあった鞄を手に持ち、ゆっくりと、あくまでもゆっくりと立ち上がる。指先に力が篭もる。

 足音が飛び込んできた。

「いやー間に合った間に合った」

 室内で次の瞬間を待ちわびていた十三人は決してそちらを見ようとはしなかったが、半分くらいの人間は諦めのため息をそっと付いた。就業のチャイムが今は遠い。

「この後外せない用事ある人って居るかな? いやー飛び込みの仕事を頼まれちゃってさ」

 席に座り、カーソルをシャットダウンから外した。

「うん、大丈夫みたいだね。それじゃあ頼むよ皆」

 時刻は17時00分、残業確定。


   ※  ※  ※


 たまごかけごはんという食べ物がある。

 日本人であるならば説明の必要はないだろうが敢えて言おう。たまごかけごはんとは、新鮮な生たまごと炊き立てごはんとを混ぜ合わせた究極の飯料理である。だが何事においてもそうであるように、追求していけばその奥深さはモナリザさんの微笑みにも匹敵する。

 まず第一に、一言に炊き立てごはんと言っても、本当に炊き立てのごはんをそのまま生たまごと混ぜ合わせればたまごのたんぱく質はあっというまに凝固してしまう。たんぱく質の凝固温度は43℃、それに対し炊き立てごはんの温度は100℃近い。いかに混ぜ合わせた時に冷えるといってもそこまでは下がらない。だから、器によそったご飯に少しばかりの冷却時間を与える必要があるのだ。一方でごはんのおいしい温度は60℃というから頭を抱えたくなる。そこはタイミングを見極め、手早く、されどたっぷりと味わって食べるのが理想的だ。因みに一般的な炊飯器の保温温度は70℃だから、炊き上がった後しばらく置いて粗熱を取るという方法もある。すぐにでも食べたいと暴れる胃袋と格闘し、時を待つあの十数分はなんともいえないものだ。

 たまごにおいても様々な考えがあり、濃厚なたまごの味を楽しむべく卵黄のみを用いる場合があれば、卵白共々しっかりとかき混ぜて用いる場合もある。上記のごはんをやや熱めの状態で混ぜ合わせることで半熟状態にする、というのが好みならば卵黄のみをおすすめしたい。逆にサラリといただきたい場合は卵白と卵黄をしっかりとかき混ぜ、粗熱をとったごはんと合わせるといい。この場合、ごはんを少なめにしてたまごが少し余るようにするといい。混ぜ合わせる時は椀に盛ったごはんの中央に穴を作り、そこへ流し込むのを忘れてはいけない。

 最後に、これは敢えて前提に含めなかったものだが、醤油を掛けることで味にアクセントを付ける。多め、少なめ、こいくち、うすしお、他にもメーカーごとの違いなどパターンはあるが、前提に含まれない以上、代替となるものがある。

 それが、めんつゆである。

 めんつゆにはそもそも醤油以外にみりんや出汁が含まれている上、醤油ほど塩辛くも無い。逆に甘味が強いので、そこは好みの分かれる所だろうか。だが試したことのない人ならば一度は試してみて欲しい。単に醤油をかけた時より旨みが増しているのが分かる筈だ。

 また、ごはんとたまごを混ぜ合わせてから醤油を掛けて食べる場合と、予めたまごと混ぜ合わせてからごはんに掛けるという場合がある。最後に醤油を掛けた場合はまさしくアクセントとしての存在感を一層強くするから、そちらを重視した場合は前者がおすすめだ。

 他にも特殊な食べ方は山ほどあるが、ごくごく基本的なのはこんなところ。

 とはいえ、どこまでいっても覆せないのはやはり、ごはんとたまごの重要性だろう。今年の新米コシテカリは中々の出来栄えだと知り合いの農家の人間が言っていた。それをメーカー最高級の炊飯器で炊き上げる予約を今朝しておいたが、残業にて破綻してしまった。かくなる上は半熟とろとろは次の機会に回し、粗熱の取れたごはんでさらりといただくのがいいだろうか。

 残る問題は只一つ、たまごだ。

 元々たまごというのは新鮮であればあるほど実がしっかりしているものだ。よくたまごの黄身をお箸で掴む映像を見るが、あれは決まって新鮮なたまごで行なわれる。そして時間が経過すればするほどサラサラになる為、同じたまごでも箸で黄身を掴むのは不可能となる。

 今回予定していたのは半熟とろとろバージョンだ。よって仕事上がりにスーパーへ行き、新鮮なたまごを購入していく予定だった。先述の通り当初より大幅に出遅れたことで、また新たな問題が浮上していた。

 それは、たまごの売り切れである。


   ※  ※  ※


 仕上げたファイルを転送し、完了するまでの間に目を休めた。

 周囲には身体を伸ばしてほぐす者達も居たが、幸久は身を動かさないまま深呼吸で力を抜く。代わりに動いたのは手だ。腰元に構えた携帯電話を開き、メールの着信を確認。

 知らず口元がゆるんだ。社会人というものになってから先輩に教えられたことなのだが、昨今のタクシーはネット上で予約をし、指定の場所へ指定の時間に呼び出すことが出来るのだ。通常より値段は上がるとはいえ、その程度の出費を渋るような給料でもない。

 開いたメールにはタクシーが所定の場所へ到着した旨を伝える内容が書かれていた。

 現在時刻18時20分、仕事量から所要時間を逆算するのは難しくないにせよ、今回ばかりは見事なまでの一致と言えよう。

 職場から目的のスーパーまで電車で行った場合、路線図的にどうしても遠回りになってしまう。快速の止まらない駅というのもあって更に時間は掛かる。だが車なら。国交省が作り上げてきた道路を駆使し、一直線に現場へ向かえばまだ十分に間に合う時間だ。

 全ての段取りは整った。後はじっと身を潜め、あの言葉が出ないことを祈るだけだ。

 いつの間にか画面は送信完了の表示。OKをクリックし、続いて淀みなくPCをシャットダウンさせる。自分より先に完成した者も何人か居て、彼らのPC画面は黒一色だ。流石にそそくさと帰ってしまう者は居ない。こういう時はたとえ自分の分が終わっていてもある程度は待つのが処世術というものだ。

 だから待つ。待ちながら、一定レベルにまで同僚達のテンションが上がらないことをただ祈る。しかし、それは無駄なことだった。

「この後みんなで飲みにいかない?」

 社会人の掟その一、飲みの誘いは断るべからず。

「おぉ、いいね行こうよ」「私もいきまーす」「どこいくの?」「待って待って、すぐ終わらせるからさ」「先輩急いで急いでっ」「今から生が待ち遠しいなあ」

 ただ身を潜め、去っていくのを待とうとするも、

「小山さん、飲み行きましょうよ」

 飛び出しかけた悪態を覆い隠し、曖昧に笑ってみた。

「……ぁ、いや…………ははは」

 誤魔化せるだろうか。しかし、

「なんだ、小山君、君この後用事でも?」

 課長が参戦してきました。そうなるとこう答えるしかありません。

「いえ、用事と言えるようなものは」

「だったら来たまえ、今日は無理行って残ってもらったんだ、半分くらいなら私が持つよ?」

 中途半端な見栄を張るくらいならいらない、切に思うが、課長にここまで言わせて帰るというのは社会人として…………しかし…………しかし、

「………………た、ま……」

 ご。

 言葉尻が掻き消えるほどの無力感だった。楽しみにしていた今日の晩餐。その為に昼食は抜いて空腹状態を維持してきたというのに。

「小山さん、ペット飼ってたんですか?」

「え?」

「? 今、タマって……猫ですか?」

 それだ! 脳内で閃いた妙案に幸久は思わず握り拳を作っていた。いい。それならば言い訳として十分だ。

「ええ、友人から一時的に預かってまして」

 友人から預かっているというのがポイントだ。もし自分で飼っていたことにすれば後々もこの嘘を続けなければならなくなる。ペットそのものへの知識も乏しい幸久にとって、それに対しての質問を捌ける自信はない。

 だが預かっているなら、それを理由に相手へ質問するなどでも真実味は十分だ。また、この条件ならより一層、相手からの譲歩を引き出しやすくなる。飼い慣れたペットならいざしらず、預かっているペットを蔑ろにしろなどと誰が言える。

「実は、食事をちゃんと用意してあげていたのか、記憶が曖昧なんです」

 さあ来い。誘い込まれて言うがいい。あの一言を。

「それは心配ですね」

「なにぶん、預かっている子なので、どうしたものかと」

「そりゃあ君」

「そりゃあっ?」

「んっ? どうした急に」

「いえ、なんでもありません課長。続きをどうぞ」

「いや、なんだ。今回はいいから、帰って面倒を見てやるといいよ」

 ここで一歩引くのを忘れてはいけない。

「しかし折角のお誘いを」

「また機会はあるさ。なんなら今度は二人で飲みに行こうじゃないの。君はいつもよくやってくれてるからね。その時にでもたっぷり労ってやるさ」

「そうですよ、猫ちゃん、今度写真見せてくださいね」

「……ありがとうございます」

 一つやるべきことは増えたが何のことは無い。家の近所には町猫があちらこちらに居るから、その一匹を選んで見せればそうそう疑われはしないだろう。

「では、すみませんが私はお先に」

 18時27分、余計な時間を食ったが、まだ十分に余裕はある筈だ。

 丁寧に各自へ礼をし、幸久は会社を出た。周囲はすっかり夜、帰宅ラッシュへ向けて人々の流れが出来始めていた。隙間を見つけ、人の川を横切った。路肩に止まっていたタクシーのドアが開く。見れば、接待で何度か頼んだことのある運転手だった。なるほど、なら話は早い。

「少し急いでいる、頼めるか」

 頷きの後、行き先を告げるとタクシーは走り始めた。

 緩やかに加速を始める車の中、幸久はある予想を思い浮かべていた。昔から自分に付いて回る、あのジンクスについて。


   ※  ※  ※


 幼い頃から、幸久は人より多くのことが出来た。

 ただそれは特別彼が優れていたからではなく、人よりも完璧を求めるタイプだったからでしかない。社会人にもなってみれば分かるものだが、多くの人間は妥協することで手を緩める。自分で完璧だと感じた後のもう少しがどれほど重要かを知っている。それを彼はやりつづけてきただけなのだ。

 あの時もそうだった。

 高校時代最初の夏、幸久はサッカーの強豪校へスポーツ推薦で入学し、早くも一年生レギュラーとして活躍し始めていた。幸久の属するチームは地域大会を勝ち抜き、残る全国大会へ向けて合同合宿をしていたのだが、そこでもやはり幸久は定められた以上の練習を自分に課していた。

 合宿では早朝にミニゲームをした後に朝食、午前中は基礎練習の後に他校と試合をして昼食、午後からは三試合ほどしてダウンを行なう。間には休憩や移動なども入るから、大体これで七時まで掛かる。八時に夕食を摂ったら後は自由だ。大抵はここで遊び始める。いかに強豪校といっても遊び盛りの高校生達が集まればサッカー一筋とはいかないものだ。カードゲームに枕投げ、誰かがどこからか拾ってきたR指定の本に熱中したり、または監督達の企画した肝試しで大人も一緒になってはしゃぐことも珍しくない。

 幸久はそんな中、費やせる限りの時間をトレーニングに費やした。決して仲間に馴染んでいない訳ではなかったが、当時の幸久には地区大会での失態が記憶に焼き付いていた。絶対に入ると思って放ったシュート、合わせて五回、全て防がれてしまったのだ。その全てが、キックのインパクトを競り合いの最中にずらされてしまっていた。

 高校生に成り立てで、まだ肉体も完成されていなかったのだから三年を相手にフィジカルで負けるのはどうしようもない。そう妥協することも出来た筈だ。だがしなかった。自由時間最初の一時間を筋トレに、消灯時間までの残りをバランス感覚の磨き上げに使った。バランスを取るとは重心を操ることだと幸久は思った。かつてサッカーの神様と呼ばれたペレは、身体能力に恵まれた選手の多い南米にあって、171cmという小柄さだった。そんな彼が頭一つも違うディフェンダーをふっ飛ばしながら突き進む映像は幸久には衝撃だった。重心を自在に操れさえすれば、筋力で劣る相手にだって勝てる。そう信じていろんな練習を試していたのだ。

 今でも時折思い出す。あれは、合宿の五日目の出来事だった。

 熱中するあまり消灯時間を過ぎて暗くなってしまった合宿所で、幸久は食堂へ潜り込んでいた。夕食は食べたものの、どうにも小腹が空いてしまったのだ。

「こーら、なにやってんの」

 背後から丸めた紙で叩かれたのを覚えている。

「一年の……小山君だよね?」

「……大宮先輩」

 ポニーテールが揺れた。そこに立っていたのは、同じ高校の二年、サッカー部マネージャーの大宮瑞希先輩だった。下は学校指定のジャージで、上は体操服。本人も中学まではサッカーをしていたらしく、リフティングの上手さは何度も見たことがある。スポーツばかりしてきたせいか、化粧っ気は薄い。いや、当時の幸久に女性のそんな所を見る感覚は無かったから、あくまで過去を振り返ってみてという感想だが。

「ふ~ん」

「な、なんでしょうかっ」

 運動部において先輩とは神にも等しい。普段から様々な恩を受けているマネージャーであり、年上の女の人ともなれば高校一年生が緊張するのは当然だった。

 直立不動で罰を待つ幸久を大宮先輩はじっくりと観察し、やがで満足そうに頷いた。

「頑張ってるようだねぇ青少年!」

 パァン、と気持ちの良い音とは裏腹に背中はかなり痛かった。

「ありがとうございます!」

「やっぱ高校一年生は成長が早いやぁ。合宿始まる前よりずっと身体が引き締まってるし、筋肉も付いてるね」

「ありがとうございます!」

「君、自由時間になっても練習してるでしょ」

「は、はい」

 言うと、大宮先輩は心底嬉しそうに笑った。

「小山君が居れば、今年こそウチは優勝できるかもね」

「がんばります!」

「いいぞぉ青少年! 熱いねえ!」

 豪快に笑いながら背中を叩く大宮先輩は実にオトコマエだった。一年マネージャーが騒いでいたのを思い出し、つい苦笑い。

「悪いね、つい手が出ちゃってさ」

「いえっ」

「食うだろ? 残り物で作ってやるよ」

 え?と疑問符を浮かべるが、大宮先輩はまたもオトコマエな笑みを浮かべていた。

「早く筋肉付けたいなら、筋トレの後にしっかりたんぱく質を取らないとさ? 遊んでるだけのバカが食料漁りに来たならともかく、真面目にトレーニングしてきた未来のエースってんなら食わせてやらないとさ」

 待ってな、と食堂の机を指差して、大宮先輩は脇に掛けてあったエプロンを身に付ける。幸久は指示通り椅子に座り、待つ。ただ手持ち無沙汰を紛らわそうと厨房を見れば、エプロンを付けた大宮先輩が鼻歌を歌っているのが伺えた。少しだけ、いや、かなり心拍数が上がっていたと思う。

 やがて出てきたものは、そう、たまごかけごはんだ。

 しかもかなり豪快にたまごが落とされていて、二号はあろう米がたまごに浸かっているという凄まじさ。醤油はアクセント作りに表面へ、そしてさらにどっさりのきざみのり、夕食にも食べたマグロのたたきがどんぶりの縁を彩っている。まさに大宮先輩らしい豪快なたまごかけごはんだった。

「がっつり食いな。炊飯器の電源は落として間もないからまだあったかい」

「いただきます!」

 正直我慢なんて出来なかった。言うや否や幸久はたまごかけごはんを掻っ込み、咀嚼する間も惜しんで飲み込んだ。これは!

「うまいっす!」

「お? 嬉しいねぇ」

 大宮先輩の反応も待たずに次をかっこみ、飲み込み、かっこんだ。一度喉に詰まったが、すかさず差し出された麦茶で流し込み、礼を言う。しかし二合ともなるとアクセントの醤油はすぐに無くなってしまう。多少の味気なさを感じていた幸久だったが、まぐろのたたきに手をつけて驚いた。なんと、タレに漬け込んであったのだ。甘い醤油味は仄かにしその風味を漂わせ、減速しかけた食欲を一気に加速させた。そこですかさず大宮先輩から刻んだしそが差し出される。口の中に涎が満ちるのを感じた。

 気付けば、たまごかけごはんを食べ終わり、新たに用意してくれていた熱い緑茶を啜っていた。

「どうだね少年」

 美味い。美味すぎる。たまごかけごはんがこれほどまでに美味かったなんて。

 その気持ちを伝えようとは考えたが、あまりもの満足感にただただため息。普段なら食べ終わると消えてしまっていた食の余韻が、熱い緑茶によって今も胃袋を満たしている。

 大宮先輩は笑った。その笑顔を見た瞬間だったろうか。喉元を落ちていく熱い緑茶と一緒に、幸久の胸の奥底へまた違った熱が注がれたのは。

 それから少しの間、大宮先輩といろんなことを話した。担任の先生がどうとか、彼女が一年の時にはどうだったとか、教頭の頭は絶対カツラだとか、ウチの高校に伝わる七不思議だとか。マネージャーとしての苦労話を楽しそうに話す姿に、深い恩を感じずにはいられなかったし、同時に支えてくれる側の熱い想いには強く感動し、幸久は思わず宣言していた。

「俺っ、絶対にウチを優勝させます! 先輩は全国で一番強いのチームのマネージャーになってください!」

 その頃にはもう、幸久は完全に大宮先輩に惚れていた。オトコマエな笑顔に、さりげなく行なわれる気遣いに。豪胆さに隠れた女性らしさが一層頬を熱くした。どう考えても的外れな宣言だったが、当時の幸久はそれこそプロポーズにも等しい想いを込めていた。

「おうっ、期待してるぞ!」

「はいっ!」

 それから合同合宿が終わるまでの間、トレーニング明けの夜食を大宮先輩に用意してもらうのが日課となった。刻み大根を入れた半熟たまごかけごはん、焼き鮭の身をほぐしてネギと一緒に乗せたサラサラたまごかけごはん、シンプルに種を取って潰した梅干のたまごかけごはんを食べた時は、その梅干が直接大宮先輩の手に触れたものだと思うと顔が熱くなった。

 合宿が終わり、至福の時間が無くなった後も、幸久は母に頼んで夕食後のトレーニング後にたまごかけごはんを作ってもらった。

 そうする内に日々は過ぎ、全国大会が始まった。

 結果は、そう――二回戦敗退だった。幸久は負けていなかった。一緒に戦った先輩達も決して不調ではなく、幸久から見ても素晴らしい働きをした。けれど負けた。高校サッカーの、全国強豪校の実力を見せ付けられた。

 先輩達は泣いた。幸久も泣いた。大宮先輩も泣いていた。そこにあのオトコマエな笑顔はなく、悔しさに崩れ落ち、涙をぽろぽろと流す女の子が居ただけだった。

 幸久は誓った。誰に宣言するでもなく、もう二度と大宮先輩を泣かせないと。その為には、決して負けない必要がある。負けぬ為には、絶対に勝てるだけの力量が必要だ。これから行なう全ての試合で勝ち続け、来年こそは全国優勝する。大宮先輩に、全国で一番強いチームのマネージャーになってもらう為に。その時こそと、想いを秘めて。

 チームの皆も応えてくれた。夏の大会終了後、どんなチームは一度は減速する。三年の引退という儀式に沈み、新たな一歩を踏み出していく為の休息が必要だった。だが幸久達はそのまま加速を続けた。今まで以上の練習、過酷なトレーニング。プロの試合を研究し、戦術を組み上げ、改めて全国での試合映像を見た。半年も過ぎた頃、当時は完全にやりきれたと思っていたあの試合に、驚くほどの不足があったことに気付けた。途中様々な大会で優勝し、監督が組んでくれたプロのジュニアユースとの試合では、勝つまでには至らなかったものの、2-2の引き分けに持ち込んで確かな手応えを得た。冬の合宿ではまた大宮先輩との夜食が復活した。以前にはやらなかった過去のデータを研究し、検討する時間にもなった。夏の大会、またもや全国出場を決めたチームは、再び夏の合同合宿で研鑽の日々に入った。その合宿では、多くの仲間が幸久と一緒にトレーニングをし、夜食を食い、研究をした。大宮先輩との二人きりの時間が無くなってしまったのは残念だったが、間違いなく以前よりチームが強くなっているのを感じて幸久は嬉しかった。

 全国大会決勝。遂に幸久はそのピッチに立った。

 相手は二度の優勝経験がある有名校で、卒業生にはプロで活躍する人もいる。おそらく戦った内の何人かは本気でプロを目指していたし、そうなれる実力があっただろう。だが序盤、幸久のチームは相手を圧倒した。組織的、且つ攻撃的なトータルフットボールがチームの持ち味だった。素早いパス回しで相手ディフェンス陣を撹乱し、幸久の出したクロスに先輩がヘディングで合わせて先制点を得た。前半17分の出来事である。だが相手も全国経験が豊富な強豪校、終始押されていた彼らはその間隙を抜いてカウンターによる得点で同点となった。前半37分、1-1。ただこの時の得点は後々になって議論を呼んだ。カウンターに飛び出した相手選手へパスが放たれた瞬間、彼はディフェンスの最終ラインを割っていたのである。つまり、オフサイドとなる。オフサイドとは、キーパーを除く相手選手よりも後ろでパスを貰ってはいけないというルールだ。

 1998年、日本のサッカーブームを巻き起こした日本代表チーム監督、フィリップ・トルシエが知らしめたフラットスリーなどは、このオフサイドを相手へ故意に起こさせるという戦術で、このオフサイドトラップは日本代表を世界大会へと導いた要因の一つであると言われている。

 話が逸れたが、それほどまでにオフサイドであるか否かというのはサッカーにとって重要なポイントなのだ。主審の見逃しか、ラインズマンの見逃しか、後に再放送された映像を見ても明らかなオフサイドとなっていた。こういうジャッジミスは高校生大会ではよくあることだ。審判はプロではない。大抵の場合はアマチュアや、既に敗退したチームから出されることもある。

 しかし、点は入った。同点となった。それはもう覆しようも無いことだ。ハーフタイムの僅かな時間の中、監督も悩んでいるようだった。前半と同じく攻め続けるか、カウンターを怖れて守りを固めるか。背中を押したのはキャプテンだ。カウンターを怖れて攻め手を緩めるのは相手の思う壺だ、と。彼のポジションはディフェンスだった。だからこそ、次はやらせないと宣言し、そこでハーフタイムは終わった。ピッチに戻る時、大宮先輩を目が合った。彼女は、がんばれ、とだけ告げた。絶対に負けないという誓いは、その時、絶対に勝つという誓いに変わった。

 後半から相手はカウンター重視の戦術に切り替わった。分厚いディフェンス陣を容易く抜けなくなり、何度も阻まれて後ろへボールを放り込まれた。俊足の二人が幾度も飛び出し、オフサイドになったこともあれば、危うく失点という事態もあった。だがキャプテンはあの宣言どおり、一度もカウンターによる失点を許さなかった。カウンターの乱打はディフェンスの体力を相当に奪う。動きを相手に合わせなければならないというのは難しいし、抜かせられないプレッシャーもある。キャプテンの、気迫が伝わってくるかのような守りだった。

 後はもう、点を入れるだけ。ディフェンス陣の頑張りに背を押されて、オフェンス陣の運動量が爆発的に上がった。壁を作る相手の頭上を越えたミドルシュート、出てきた所へクロスを抜いて、相手が弾き返したボールを中盤の選手が死に物狂いで拾った。激しい攻防は続いた。

 そして後半24分。右サイドからのセンタリングに、幸久がヘディングでゴールネットを揺らした。激しい競り合いの中、身体の芯を揺らさず放たれたヘディングシュートは強烈の一言に尽きる。しかし、ここでゴールとは別のホイッスルが鳴る。ラインズマンの旗が上がり、その動きは幸久のオフサイドを示していた。この判定は実に微妙なもので、オフサイドであるともないとも言えないものだった。ただ、その場においてはオフサイドと判定された。

 得点は無くなった。試合は1-1のままロスタイムへ突入。この時のタイムは覚えていない。無我夢中で走り続け、ボールに食らいついた。だが遂に得点のないまま後半戦は終了した。

 今では無くなってしまったが、当時は延長戦ワンゴール制というものがあった。延長戦では一点が入ればその時点で試合が終了となり、先取したチームの勝ちとなるのだ。どれだけ時間が残っていようと関係ない。まさに一瞬の油断が命取りとなる戦いだった。

 散々オフサイドに苦しめられてきた幸久たちのチームだったが、今度はこのワンゴール制が味方した。延長戦開始直後、自軍ボールから始まったこれを、トップの人間は後ろへ転がした。二人は前へ出て相手の追撃を牽制。目の前へ転がってきたボールを幸久は全力で蹴った。このボールは最初、ふわりと柔らかく飛んだように見えた。ゆっくりと放物線を描き、相手選手10人の頭上を越え、慌てたキーパーがキャッチしようとするが、そのままボールは吸い込まれるようにゴールの隅へ入っていった。誰もが事態を理解するのに時間が必要だった。ホイッスルが高らかに響く。そこで、幸久は、仲間たちは、観客は、大宮先輩も、歓喜の叫びを上げた。

 全国大会優勝。負けず、勝ち続けたからこそ得られる栄光を手に、チーム全員が身を震わせていた。涙を流していた者も居る。ふと見れば、大宮先輩だった。だが、この涙はきっといい涙だ。あの時の涙とは違う。ピッチでの礼を終え、応援席への礼を終え、ベンチでの礼を終え、幸久は遂にこの時が来たのだと思った。あの合宿での日々を思い出す。先輩の作ってくれたたまごかけごはんは何よりもおいしかった。一緒に作ってみたこともある。なんとも楽しいあの時間。その結果としてこの栄光がある。ならばこの栄光は、まさしく大宮先輩が生み出したものだ。

 礼を終え、顔を上げる。すると急に、大宮先輩がこちらへ向けて走り出した。胸が高鳴る。ポニーテールが揺れている。ぼろぼろの笑顔で先輩は、

「先輩っ!」

「トモォッ!」「瑞希!」ガシィイイッ!

 隣に立っていたキャプテンに抱き付いた。

 幸久の青春はその時、終わった。


   ※  ※  ※


 そう。完璧を求めるほどに失敗する。

 優勝してからなどと完璧な物語を思い描いていたからああなった。もっと早くに気持ちを伝えていれば違う結果が生まれていたかもしれない。

 何度も、何度も、何度も、似たような経験がある。100点を目指して勉強すれば名前を書き忘れて0点になったし、プラモデルに凝って完璧に仕上げようとすれば最後の最後で角部分が折れてしまった。超一流企業から内定を貰った後、会社の偉い人と飲みに行った席で好きなサッカーチームの相性が最悪と知れ内定取り消しを食らった。

 今居る会社も悪くないが、あそこと比べれば格は落ちる。株価なんて三倍くらい違う。

 ただ、適度に力を抜いていればある程度成功することも覚えた。今の仕事はほとんどそれでこなしている。そこそこの立場、そこそこの期待にそこそこの成果。高校時代ほどの熱意は無いが、会社は幸久の仕事に満足している。

 それでも時折、求めてしまう。より高みを、より良い、完璧な結果を。

「…………う~ん、混んでますねぇ」

 タクシーの運転手が唸る。この時間、混む大通りを避けたつもりだったが、やはりわき道もかなり混んでいた。ナビには大通りが大渋滞と出ているから運転手は責められない。

 これも完璧なたまごかけごはんを求めた結果だろう。幸久はおもむろにネクタイを緩め、靴を確認した。タクシーが僅かに進む。その際見えた店に僅かな幸運を感じた。

「ここで降ります」

「……分かりました。お気をつけて」

 運転手に支払いを済ませ、また頼むと付け加えてから車を降りる。目の前にあったスポーツショップに入り、一番良いランニングシューズをカードで購入。箱は店で処分してもらった。

「さて……行くか」

 ここから目的のスーパーまで10キロほどある。普段からジムで鍛え続けている幸久にとってはそう長い距離でもない。足のフィット感も申し分ない。ならば行けるだろう。

 幸久は走り出した。靴を購入したスポーツショップの隣がその町のスーパーであることにも気付かず、彼は走り出した。もう彼には、ゴールしか見えていない。


   ※  ※  ※


 時刻は、19時48分。

 幸久は辿り着いた。地元の、慣れ親しんだスーパーにだ。鞄から取り出した革靴に履き替えながらハンカチで汗を拭く。呼吸を整え、改めてネクタイを締める。すこしじっとりしているが形というのも大切だ。

 スーパーへ踏み込む前、『本日はたまご三割引!!』などと書かれた幟を見て不安が過ぎる。まさか既に、そう思いながらもゆっくりと歩を進めた。一人暮らしを始めてからここには何度も通っているが、常に優雅なサラリーマンとして振舞ってきた。たまごの為に慌てふためく男ではないよと気取った歩調で幸久は行く。

 果物の甘い香り漂う青果コーナーを抜け、乾物が置いてある脇へと入る。途中、フライパンなど調理器具の置いてあるコーナーでふと幸久は足を止めた。止めてしまった。急ぎ足なら気付かなかっただろう。他所事に惑わされていなかったら一心にたまごを求められていただろう。

「で最後です。残り――――」

 店員の声は幸久に届かなかった。

 彼は今、衝撃を受けている。

 目の前に突如として現れた、新たな可能性に。

 幸久が足を止めた特設コーナー。それは、

『おいしいごはんを土鍋で作ろう! ふるさとの味を食卓へ』

 だった。

 土鍋。それは幸久も聞いたことがある。炊飯器ではない一つの米炊きの手段として、特に高級料理店では土鍋炊きが一つの価値を持ち、炊飯器では得られないおいしさを生み出すのだという。先述していることだが、たまごかけごはんとはいかにおいしいごはんとたまごを混ぜ合わせるかというのが重要だ。ならば土鍋とは、今まで炊飯器でのごはんしか知らない幸久に新たな悦びを齎してくれるのではないか。いや待てと叫ぶ声もある。いかに良い道具とはいっても土鍋に関して幸久は素人だ。いきなりの本番で成功するとは思えない。炊飯器は最高のものを使っているし、その出来栄えは幸久も満足する所だ。だが同時に、今日の予定だった半熟たまごかけごはんの計画は破綻している。炊飯器の中にあるのは炊き立てふっくらごはんではなく、粗熱の取れたつやつやごはんなのだ。それも悪くない。決して悪くは無いが、今目の前に土鍋という可能性を掲げられて、果たして味わい切れるだろうか。後悔はしないのか。妥協も、仕事なら仕方ないと思える。だが幸久は、たとえ失敗に終わろうと、今だって完璧を求めている。ならば今は、進むべきだろう。新たな道を開拓していこう。

 土鍋の箱を手に取り、歩き始めた。思考はクリアに。その瞬間聞こえた。

「どこだか産の高級たまご、本日三割引でご提供! 残り一個でーす!」

「ぁ……」

 最初は静かに、幸久は歩を進めた。だが次第に早足、駆け足と変わる。最終的には全力疾走でたまごコーナーへ飛び付こうとするも、

「ぁぁぁぁぁあああああああああああ!?」

「お買い上げ有り難うございまーす!」

 脇から現れた女性に持っていかれ、崩れ落ちた。

 たまごコーナーにはもう一つのたまごも置いていなかった。安物も、高級品も無い。完全なる売り切れ。店員がとまどいながら後ずさっていったが気に留めるほどの余裕もない。

「あぁ……いつもそうだった。完璧を求めすぎると失敗する。先輩は他の男と付き合っちゃうし、内定は取り消されるし、先輩は他の男と付き合っちゃうし……」

 言っても仕方ないことだったが、悔しさはある。

 頑張って来たのであれば、悔しくなければ嘘だ。

 あの時に戻れるのであればやり直したい。あの夏の合宿で、初めて好きな人が出来たあの時に想いを伝えていれば。すぐには叶わなかったかもしれないが、流れは変えられた筈だ。未熟者に相応しく、未熟な過程で助けを求めていれば、もしかしたら。

 いや止めよう。そう幸久は思考を切り替えた。後悔はする。けれど完璧を求めて先へ先へと突き進んでいる時の充足感は、きっと後悔に釣り合うものだ。負けるもんかと立ち上がり、深呼吸をした。最後にたまごを買っていった人がこちらを伺っている。醜態を晒して恥ずかしくもあったが、まずは胸に残る気持ちを吐き出すようにあの名前を呟く。

「大宮先輩……」

 ポニーテールが揺れた。

「……もしかして、小山君?」

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[良い点] すらすらと読めました。 たまごかけごはん。 それにまつわるお話の広がりようといったら……。 そして、熱い想いとその結果のギャップ。 直進男の物悲しさ……あのラスト ときめきました。 おっさ…
[一言] これは面白いっ! こんなに“たまごかけごはん”を熱弁したストーリーが他にあるでしょうか。 初めまして、青山 柊と申します。何の因果か、あなた様の作品に巡り会える事が出来て、とても嬉しいです…
[良い点] 青年の情熱に心の汗がとまりません。たまごかけごはん、うまいよね。 [一言] はじめまして。たまごかけごはん食べたくなりました。ていうか今朝食べました。 面白かったです。さらっと読めつつ勢い…
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