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生きる力

 四  生きる力

 新年度が始まって二ヶ月がすぎ、市長の市政運営に対して下された評価は、前回以上の得票数として表れた。まだまだ試行中といっていい施策も議会改革も、当事者の気持ちとは違って、概ね好ましい方向として評価された。既成概念を逸脱するかたちで発足させた救援課に対する評価と、前例踏襲を嫌う基本姿勢が良かったのかもしれない。


 一方で、救援課の活動が報道に取り上げられる機会がふえ、討論番組やバラエティー番組の話題として取り上げられたことを契機に、紛争地域への復興援助の有り方についての議論が巻き起こっていた。

 救援課のような活動を重ねることで、世界に、悪意も政治的意図も経済的見返りも求めない、純粋な民間人による援助であることを理解させることが重要だ、という意見が主流になりつつあるような按配である。

 他方で、紛争地域に無防備な状態で派遣した場合の危険を叫ぶ者も少なくない。

 しかし、腰に拳銃を吊るして平和を叫んでも、相手にとってみれば不安なだけで何の説得力もあるまい。不信感からの反発は当然といえ、不信感の衝突が武力衝突に発展してしまう。軍事大国は軍事力で、経済大国は経済力で強い発言力をもつが、発展途上の貧困国にはどんな発言力があるのだろうか。自分の意見を表明する機会もなく、大国に盲従する政府に民衆が反発するのは当然かもしれない。資金がなく力もなく、発言する機会もないとなれば、テロに頼るしか選択肢がないのかもしれない。

 それならば、復興資金を大国が拠出し、民間人の支援組織が、現地の誰もが潤うような仕組みで復興を指揮すべきではないか。これまでのように、一部の商社や政治家が暴利を貪る構図を壊してしまうべきだとの議論である。

 巷の議論はさておき、初当選で得た過去最高の得票を遥かに上回る得票数であった。

 そして、まだ少数にせよ、税金の使途についての異論の中に、災害救援に対する支出が含まれているのも事実であった。

 野とも山とも知れぬ災害への対策として、はたして正当な事業だろうか。他の自治体に対する救援活動も、度を越してはいないだろうか。ましてや外国への派遣ともなれば渡航費や運搬費だってばかにならない。それだけあれば市民に還元できるではないかという意見である。意に染まぬからといって一蹴することもならず市長は意見を認めるが、近視眼的な発想は何を生むのかと穏やかに反論していた。実際に巨大地震も大津波も発生していないし、風水害にも見舞われていないのは事実である。が、かといって発生していないと、発生しないではまったく認識が違う。発生したらしたで物理的被害をなくすることなどできはしないし、補償することもできない。個人が負担するしかないのである。ただ、どうにか命だけでも救いたいという控えめな発想なのだが、病気と同じで自分だけは大丈夫という根拠のない自信に縋っているだけなのを自覚できないのだろう。得意のヘラヘラとした笑顔で煙に巻くしか対策をとれない市長だった。


 市長の選挙騒ぎが落ち着いた梅雨本番の七月、救援課に秋田と岩手からの来訪者があった。出身校から進路指導の教諭が連れ立って子供たちの様子を見に来たもので、総勢十二名の団体である。いつもは独自に、採用枠確保のための企業回りで遠くまで出張しているのだが、今回は連絡をとりあっての来訪である。名古屋周辺にとどまらず、関西にも足を延ばしての帰りらしく、ここで様子を見たらそのまま帰るという。

 種を明かすと、生徒の出身校にDVDや写真を送った時に、もし都合をつけられるなら出張の帰りに名古屋で一夜を共にしてはどうかと誘っておいたのである。勿論、それぞれの予定が違うことを承知の上で、学校同士で相談することをすすめた。今年も就職できない生徒が多いかもしれないが、なんとか希望を失わないよう学校には生徒の支えになってほしかった。その結果、秋田と岩手の学校から進路指導の教諭が落ち合うことになったのである。一夜を共にするといったとおり、来訪者を二段ベッドに案内するつもりでいるし、食事も普段皆が食べているものをいっしょに食べてもらうつもりでいる。吉村は、そうすることが最高のもてなしであると信じていたし、班長達も同様の意見だった。



 校庭で溝堀りをしている者、校舎の壁に取り付いている者、古着を整理している者、生魚と格闘している者。一心不乱に訓練に取り組んでいる実習生の横に教諭が立つ。

 突然の来訪に気付いた実習生から悲鳴が沸きあがった。


『実習生は体育館に集まれ』


 無線機が伝える指示にワラワラと駆け寄ってくる。


「今日はお客さんだ。皆がどんな酷い仕打ちを受けているか心配して、秋田と岩手から先生が偵察にきたからビシッとしろよ」


「あかんわ課長、聞いてないわこいつら」


 意味がわからず、ぼおっと立っている者の横で近藤が大笑いをしている。



 嬉しそうに話しかける少女は地下足袋を履いていた。


「亜矢、それ……」


 足元を指差された少女が一段と笑顔になった。


「里中先生、あたしね、今は鳶の練習してるんだよ。校舎の壁を登ったり、楠の枝に登ったり、屋上に荷物を引き上げたと思ったらゆっくり降ろしたり。男にできて女にできない仕事なんてないって教えてもらった。学校に帰ったら後輩に教えてやって、どんな仕事でもできるって。見てて、登ってみせるから。班長、お願いします」


 近藤の腕を掴むと返事を待たずに走り出そうとする。


「またか、懲りん奴だなお前。腕放せよ、俺は自転車で行くから先に行っとれ」


 いかにも渋々という素振りで近くの自転車に跨り、里中を振り返った近藤は破顔している。


「先生にいいとこ見せて安心させようしてるんだ。あとでうんと誉めてやってもらえんかな」


 小声で耳打ちして後を追った。



 どうにか訓練の成果をみせることができた実習生が、自慢そうな顔で駆け戻ってきた。


「本当に亜矢か? あの内気な亜矢か?」


 担任だった里中が驚いている。教員一筋で生きてきたのだから全く異質な世界に思えてもおかしくない。ましてや普通科高校である。見るものすべてが驚きの世界である。


「どうだった先生、ちゃんと登ったよ。ねえ先生、ここで教えてもらうことってすごいよ。方言が恥ずかしくて、テレビで話してるように喋ったら無茶苦茶怒られた。自分が育った言葉をなくすのは自分をなくすことと同じだって言われてね、どこへ派遣されるかわからないから、皆が使う方言でいろんな言葉を勉強するんだって。言葉がわからなけりゃ気持ちが通じないんだって。そんなこと初めて教えてもらった。それにね、ここにある物は皆で工夫して自分達で作ったんだって。あとね、ここには掟が九つあるの。初めに聞いた時はびっくりしたけど、ここの人達が仲良くしよう、協力しようとしていることをすごく感じる。頑張ったらだめなんだって、信じられる? 知らないことがいっぱいあるよ、ここに」


 おっとりした口調ながら里中に話す余裕を与えないのは喜びの表れなのだろうか、誇らしげに顔が輝いている。


「亜矢、先生達は今夜ここに泊まられるから、いくらでも後で話せるから、そのくらいにして訓練に戻れ」


 よほど嬉しかったのだろう、吉村にそう言われてもピョンピョン跳ねている。


「危ないことをさせて心配ですよね。親には内緒にしていただきたいのですが……」


 吉村は里中にわびた。


「亜矢は内気で、いつも人の背に隠れてるような生徒でした。成績はよかったのですが経済的な事情で進学を諦めて……。いくら就職先を探しても、普通科ですのでなかなかみつからなくて、ようやく面接にこぎつけたのは運送会社の事務でした。しかし、簿記ができないことを理由に不採用になりまして、それからもハローワークにお願いしたり雑誌でさがしたりを繰り返したのですが、何度試験を受けても不採用でした。自分はこの世に不要な存在なのかと悩んだようです。年末にこちらの就職説明会があるのを伝えたら、どうせだめだろうと思いながら出かけたようです。テレビでたまに映るから、どんな仕事をしているのかくらいは知っていたと思います。でも、自分は男じゃないからと諦めていたそうです。ところが、若い女の人が説明にきていて、いろんな話をしてくれたそうです。会場に災害救助犬も来ていて、とてもよく訓練してあるのを知って驚いて帰ってきまして、翌日私にその話をする表情は、これまで見せたことがないほど弾んでいました。困った人の役に立つための仕事がしたい。亜矢が初めて私に意思表示をしたんです。就職に困っている自分と被災した人が重なったのかもしれませんね。採用人数を考えればまず確実に不採用だろうけど、面接を受けたいと言いました。面接では応募した動機を問われるでもなく、成績を問われるでもなく、人が生きるのに何が一番大事と思うか問われたそうです。亜矢は内気な性格で、いつも誰かがそばにいてくれないと不安だったから、人との繋がりと答えたそうです。それ以上質問されなかったので、やっぱり駄目かと肩を落としていました。諦めていたのでしょう。このまま暗い気持ちで正月を迎えることになると思うとやりきれなかったです。採用通知が届いた時はね、亜矢より私の方が感激していました。私だけじゃない、職員室が沸いたんです。授業のない同僚が集まってきましてね、封筒から採用通知を取り出して見せてくれて。恥ずかしいですけど、初めて体が震えてきて、授業中なのに知らせに教室に入って……。私、涙が止まらなかったです。内気な亜矢が自から希望して、親元を離れて暮らすことを承知で将来を開拓しようとしたことが嬉しかった。

 入庁式のDVDは、職員や同級生で何度も見せてもらいました。いろんなことを学んでいる写真も皆で見ました。今、校舎の壁を登った姿を皆に見せてやりたいと思います。あんな素晴しい授業を見たことがありません。まだたった三月しかたっていないのにあんなに気持ちを許せるものかと驚いてます。相手がどれだけ心を許してくれるか、その難しさも大切さも十分にわかっているつもりですが、あの姿を見て、私達の生徒に対する接し方は未熟だと痛感します。立ち寄ってよかったです。亜矢の家に行ってどんな様子だったか話します。この気持ちを他の学校にも伝えます」


「先生、ここでお世辞はご法度だ。それに、さすがに学校の先生だなあ、上手に誉めるわ」


 近藤が混ぜ返した。


「まだいろいろな作業をしてますからゆっくり見学して下さい。今日はここの食事をいっしょに食べてもらって、客室がないから生徒達といっしょに二段ベッドで寝て下さい。風呂もいっしょに、修学旅行のつもりで楽しんで下さい」



 勤務終了時刻になると、最近自発的に日課にしている犬の散歩にでかける実習生がいたり、食事当番がいたり、なかなか賑やかで、特に用事のない者は近くのビジネス街を案内したりしている。ホテルに泊めたのでは経験できない、子供達との交流をさせてやりたいという吉村の親心が里中には嬉しかった。

 そろそろ梅雨明けをひかえて、アジサイが鮮やかに青く染まっている。



 梅雨明け間近の集中豪雨が広島の山間部を襲った。

 長雨が続いていたことに加えて、暖湿流が流れ込む気圧配置に変化したので局所的に豪雨となったのである。地形が関係しているのだろうがこの地域は雨が多く、ことに梅雨明け頃には集中豪雨が珍しくない。今回続いた長雨で保水限界を超えた山肌が谷を埋め、埋まった谷をさらに押し広げるように泥流が駆け下った。大きな岩が転がった先は谷筋が急に曲がっていて、立ち往生した岩が山手から押し寄せる水をあらぬ方角へ導く格好になった。元々真っ直ぐに流れようとする水の勢いが殆ど削がれないままに比較的軟らかな土手を抉りだすと、見る間に溝が深くなってゆく。水のぶち当たる轟音に驚いて避難を始めようとした矢先に溝が庭先に達し、あっというまに城の堀のようになってしまったらしい。すぐさま地元消防団や警察が救助に駆けつけたが、その時には溝は支流に達していて、なおも地面が崩れているありさまで、二次災害のおそれが高い。

 そんな情報が寄せられたのは、教諭が帰って三日後の、日曜の朝だった。



 たまたまその日は早朝から運動場に多くの犬や飼い主が集まっていて、救援課の訓練施設を使って犬の訓練が行われている。


「ようし、強かった」


「できた!えらいえらい」といった声で溢れていた。


 まだ犬に振り回されている実習生も担当犬とともに参加していた。


「とにかく、この人が自分の面倒をみてくれる。犬がそう感じたらいつもあんたの顔を注目するようになるはずだから、それがサインかな」


 なかなか犬を従えられない者にアドバイスをしている宮内の視界に、二人三人と職員が出勤してくるのが見える。


「ごめん、ちょっと事務所の様子見てくるから、ここお願いね。あれっ、課長も来た、こりゃあ出番だね」



 事務所にはすでに十名ほどが集まっていて、出動準備を始めていた。


「みんな朝飯食ったか? すぐに用意するから食堂にきてくれ。弁当何人分だ?」


 食事当番が叫んでいる。


「どうしたんです? 朝早くから集まって」


遠慮がちに宮内が声をかけると、


「広島で土砂崩れがおきて民家が孤立してるらしい。召集かけたから、集まり次第行ってくる。今回は犬の必要はないから、林さんと佐竹さんの三人で留守を預かってくれ。それと、現場体験だ。若いのを三人ばかり連れてゆくからな」


 まだ私服のままの吉村が、準備する物を指示しながら簡単に説明して電話にむかった。



「何でした? 出動ですか?」


「広島で土砂崩れだって。だから朝ごはん食べに食堂へ行ったよ」


 さっきの実習生が怖々尋ねるのに宮内が軽く答えた。


「今から朝ごはんですか? そんな呑気なことでいいんですか?」


「呑気? そうか、初めての体験だったね。慌てると失敗するから腹ごしらえが肝心よ」


「そんなことでいいのかな」


「わかってるのなら手伝ってきなさいよ。ほら、荷物積んでるじゃない」


 工作場から道具をとトラックに積み込んでいるのを指差し、宮内は若者に渇をいれた。


 非常呼集で集まった者から、とりあえず土木の者を新幹線で先行させることにし、、他の者は必要となりそうな道具類や食料などをコンテナに納めている。道路が寸断されている可能性を見越してオフロードバイクを二台加え、道具の準備ができた時点でトラックが先に出発していった。

 工作と鳶と調理から人手を割き、実習生も三名、現場体験をさせるつもりでいる。土木の者の帰路を考え、ワゴン車三台でトラックの後を追うのである。近藤の指名で亜矢を同行させるはいいが、テレビに映りでもしたら親が心配するだろうなと思う。実習生にできることは何もないが、現場を肌で感じることは無駄にならないと吉村は考えたのである。


 そうゆうたら、課長は毎回出てるなあ。何もでけんからゆうて運転手したはるわ。指揮官先頭ちゅうたらば聞こえええけど、指揮者を育ててないさかいな。自分で判ってるやろか。ついつい吉村の胸中を慮ってしまう。そんな自分を振り返り、なんぼか大人になったのやろうかと佐竹は苦笑いしていた。



 現場は広島県と島根県との県境で、中国道吉和インターから中津谷川沿いに北上した山奥らしい。新幹線で先行した組もようやく広島に着く頃だろうし、県差し回しの車に乗り換えても、あと一時間では現地入りできまいと予想する。トラックが出発して約一時間、今頃は琵琶湖の手前を走っているだろう。このまま追いかければ岡山のあたりで合流できるかもしれない。到着は夜になっているだろうし、今夜は眠ることができないかもしれない。たまたま休日なのでトラックが少なく、前を見通せることをありがたいと思うことにしよう。実際に救助作業をする者を休ませるために運転を引き受けた吉村は、なるべく疲れないような姿勢でハンドルを握っていた。この部署に配属されて、自分自身は仕事の内容が変わっていないのに、持久力も体力も意外なほど鍛えられているのを感じている。


 行楽客の合間をくたびれたワゴンが走っている。左右、後ろ、だけでなく、空からでも見えるように『名古屋市災害救援課』と書かれているが、その脇に『出動中』と書かれたシールが貼ってあるのに吉村は気づいていない。


 先発したトラックと合流できたのは瀬戸大橋への分岐を過ぎたあたり、そのまま広島県境の休憩所で休んで目的地をめざす。夕方というにはまだ早い時刻だが、厚い雲に遮られてライトを点燈しなければならなくなっている。現地まであと二時間半ほどだろうか、はるか西の空は濃いネズミ色をしていた。


 尾道にさしかかったあたりで追い越し車線に赤燈を光らせたパトカーが並んだ。制限速度を超えて走っているのがまずかったかなと舌打ちしたときに拡声器から声が出た。 


「名古屋から救援出動ですか?」


 どうしたものかと思う間もなく、助手席でキョロキョロ景色を眺めていた亜矢がマイクをとっていた。こちらも拡声器を備えている。


「はい、土砂崩れの救援で広島に行きます」


 被災者を元気づけるために便利だという理由で工作の兵藤が知らぬ間に取り付けてしまったのだが、おかげで広報にはとても重宝している。


「ありがとうございます。この先は先導します。このままの速度でついてきて下さい」


 スルスルと前に出たパトカーを指差して、亜矢がイタズラをした時の顔で笑っている。


「課長、車線変更」


 呆然としている吉村を尻目に亜矢がパトカーを指差している。


「お前何かしたのか?」


「お前じゃなくて、お前らです。みんなでこっそり出動中のシール作ったのを貼ったんです。あんな大きいのに気がつかんかなあ」


「初めに言えよ、びっくりするじゃないか。だけどよかったな、気がつかんかったな。こんな方法もあったんだ、へーぇ」


 吉村は、看板の効用をあらためて思い知らされたのである。



 現地とおぼしき方向で立て続けに稲妻が走るのが見えた。ワイパーを高速で動かしても前が見えないような雨が時折降ってきて、災害の拡大が予想される。晴れていれば夕暮れが始まる時刻だろうに、分厚い雨雲に遮られてすっかり夜の支配する世界になっていた。

 そういえば、黄泉の国への入り口はこの近くではなかったかな、もっと東か?

 給油と食事をすませて中国道への分岐に差し掛かったとき、ふっとそんなことを吉村は思った。



 先導してくれたパトカーから降り立った警察官が雨の中で整列して敬礼している。指差す先には所轄のパトカーが赤燈を光らせて待っていた。先を急ぐので下車して礼を言う暇もない。愛想がないが、きっとわかってくれるだろうと勝手な解釈をしてそのまま料金所を抜ける。窓越しに手を振るのがせめての挨拶だった。緊急現場を仕事場とする者は、それで気持ちが通じる。吉村はそう願っていた。


 山間の寂しい道を先導のパトカーはどんどん進んでゆく。街路灯がないので自分達だけでは目標を発見できなくなるところだった。町の生活に慣れきっていることを実感するとともに、先導してくれる理由を理解した。道沿いに流れているのが中津谷川だろうか、暗くて水の濁り具合はわからないが、かなり水嵩が多いようだ。土砂降りの雨のせいで速度が上がらない。山の谷にあたるのだろう、細くくねった道に見え隠れする赤燈を頼りに這うように進んで行く。

 唐突にパトカーが道を折れた。曲がり角には何の目印もない。先導がいなかったら確実に迷子になっていただろうと思う。うっかりしていたらそのまま日本海まで走っていたかもしれないと思うとゾッとする。トラックがようやく通れるほどの小道が先に延びていて、山肌をいくつかまわったところで前方に灯りが見えてきた。トラックを駐車する場所と、テントを設営できる場所があるか不安だった。



「どんな様子だ?」


 先行した土木の木村が到着を知って飛び出してきた。ドアを開けようとする吉村を制して身振りで無線機を使うよう示し、自分は豪雨の中で突っ立っている。



「すごい雨だから声なんか聞こえないぞ。先にカッパ着てくれ。手の出しようがなくてなあ。家の周りが濁流になって近づけないし、この雨で声が通らないから中の様子がさっぱり……」


「食事は? おにぎり持ってきたから車の中で食べてくれよ」


「近所で食わせてくれたから今はいいわ。ここは何も作っていないそうだからテントを張っても大丈夫だ。話は通してある」


「近藤はなんとか家に行ける方法を考えてくれ、バイク使っていいから。他は、とりあえずテント張ってから様子を見に行こう。現場の指揮はどこだ?」


「農機具小屋に集まっとる。こっちだ」


 木村が案内にたった。

 他は総出でテントに排気ガスを送っている。長時間雨に濡れたままではいくら初夏とはいえすぐに肺炎になる。早く体を温めねばならない。ましてここは真夏でも日が落ちると急に冷え込むらしい。

 調理係がワゴンの椅子をたたんで味噌汁の準備を始めていた。    


 バイクのライトが崩れた土手を照らしている。

 崩れた幅は目測で四mくらいか、上手くすれば梯子をつないで渡ることができるかもしれない。支流の中に大きな岩がある。なんとか転がすことができれば流入する水の勢いを削ぐこともできるだろう。ただ、家の中にどんな人が取り残されているかで救出の仕方も困難さも全く違ってくる。

 あたりをバイクで見てまわりながら近藤は考えていた。

 中の様子をみるだけが目的なら、自分だけが家に行くことは可能だろう。しかし、救出となると素人を背負わねばならないことも考えられる。子供ならいい。安心させてやれば、案外おとなしくなるかもしれない。目隠しさせる方法もある。大柄な老人だったらどうなるか。身動きの取れない人がいるかもしれない。

 息を吐け、力を抜け。無意識に呟いていた。いらぬことを想像しすぎると、かえって悪い考えに絡め捕られるおそれが高いことに気付いて考えるのをやめ、付近で使えそうな物の目星をつけ、トラックに戻ることにした。


 現場指揮所となった農機具小屋では、消防団員や警察官が疲れた体を休めていた。


「遅くなりました、名古屋から手助けに来ました。責任者の吉村です」


 入り口で大きな声をかけた。打ちつける雨音で普通の会話が成り立たなくなっていろ。救助を待つ者も必死だろうが、救助に当たる者はなおさら必死である。手の届きそうな場所で助けを求めているのを見ながら手をこまねいていることほど無力感に苛まれることはない。ましてや、救助を日常の業務にしていない者が焦ったところで二次災害の危険が増すだけである。救助に当たる者に安心感を抱かせることを何より優先すべきなことを吉村は体得していた。


「廿日市署の青木です。遠いところをありがとうございます、お疲れでしょう。今日は夜になったから二次災害の危険を考えて作業を中止することにしました。明日の夜明けから作業を再開しますので、今日は休んで下さい」


 現場責任者と名乗った青木も大声で答えた。この天候では責任者としてそういう決断しか選択肢がないだろう。


「様子を見にやりましたので、それから計画をたてたいと思います。今日一日大変だったろうから休んでいて下さい。他に被害箇所がありますか?」


「支流を登ったところに一軒ありますが、道が生きていたから歩いて助けに行けます。夜が明けたら救出にむかいますが、大事無いことを祈るくらいしかできません」


「何人住んでるんです?」


「六人家族です。夫婦・子供・年寄り二人です」


「道沿いに行けばわかりますか?」


「突き当たりですから迷うことはありませんが、この雨です。自力で避難するのは無理でしょう」


「じゃあ、そっちはバイクで運びましょう。三往復すればすみますから、様子を見に行ったのが戻りしだい行かせます。道はどこですか?」


「そこの、軽トラックの横の道です。あれをそのまま奥へ一本道です。今から行ってもらえるのですか?」


「不安でいるよりこっちに避難させたほうがいいでしょう、準備ができたら行かせます。テントが張れただろうから一旦戻ります。差し支えなかったらこれを着けていて下さい。

 名前を呼ばれたら返事して下さい。スイッチはこれです」


 連絡用として用意した無線機を青木に渡してトラックに戻った。

 いくらか雨が小降りになってきたようで、地面から跳ね返る雨で咲く飛沫の花が、こころなしか小さくなってはいるが、レースのカーテンのような激しい雨であることに違いはない。声も光も雨が遮ってしまう。異常を教えてくれる音が聞こえないのは恐ろしいことではあるが、互いの意思疎通は無線機があるから大丈夫だろうし、周囲の音を聞かずにすむのはかえって集中するために都合がよいかもしれない。光が届きにくいことが残念に思われるが、音と同じ意味で、へたに周りが見えない方が集中を殺がれなくてよいのかもしれない。知らぬが仏とはこういうことなのかもしれない。


「課長、どうだった?」


 近藤はタバコを吸いながらぼんやり立っている。


「警察は何人か残るだろうけど消防団は帰すそうだ。一日この調子じゃ疲れて当たり前だよ。そっちは? 目鼻つきそうか?」


「俺一人ならなんとかなるだろうけど、うまく家に行けたとしてもな……。どうせ怖がって尻込みするだろうし、動けん者がいるかもしれんなあ。途中で暴れでもされたらこっちまで巻き添えだしなあ。ま、とにかく家に入らにゃ話にならんというこったな」


「俺には何もできなくてすまんな、頼むな」


「みんな持ち場があるんだ、気にすんな」


 実行力のない吉村としては無理をさせないよう気を配ることしかできない。


「それと、山奥にもう一軒あるらしい。まだ六人残っているらしくて、老人と子供がいて自力で避難できんようだから、バイクで迎えに行ってもらえんかな」


「三往復か、遠いんか?」


 工作の及川が聞いた。


「さあ、一本道の突き当たりとしか聞いてないが道は大丈夫らしい。ただし道幅は聞いてない。軽トラぐらい通れるような道じゃないか?」


「俺行ってくる。小出、出番だぞ。昔モトクロスやってたと睨んだ。行くぞ」


「何でばれる?」


「いいから来い、のんびりできんぞ。誰か合羽貸してくれんか?」


 二人がバイクにまたがり、やがて雨で滲む尾燈が動き出した。



「とりあえず俺だけで家ん中入ってみる。できるだけ太てえ竹渡して、その上を梯子滑らせたら向うに届くだろうて。どっかにロープ掛けたら命綱になるんだがな、上手くいくかは何とも言えん。あとはむこうに渡ってからだな」


「四人くらい手伝いをしてくれ。竹中は住人を安心させろ。竹を切る刃物借りるから、それからかかってくれ。実習生はついてこい」


 あいつら疲れてないのかな、吉村は嬉しくもあり心配でもあった。



「おーい聞こえるか。聞こえたら返事よこせ。灯りがあったら丸描け」


 作業が始まるのを見ながら竹中がハンドマイクで叫ぶと、窓が開いて光が輪を描いた。


「わしら名古屋の救援課の者じゃ。助けに来たけーのー、もちいとこらえんさいや。今橋こさえよるけえ、橋架かっつらあ、すぐ一人そっち行くけー、もちいとこらえんさい。

 助けちゃるけーじっとしとりんさい。わかったら丸描け」


 光が輪を描く。


「腹はどうだ、飯食うたか? 食うたら丸じゃ、まだなら横に振れ」 


 光が横に流れた。


『誰かむすびと飲み物届けてつかあさい、腹へらしとるようじゃ。トラックを一台回してくれ、ロープ結ぶとこが舞あわ』


「近藤さん、食い物届けてくれんさい」


 いくらか慌てた様子で竹中が喋りまくっている。


「慌てんなって、まだ行けるもんか。なんか喋って安心させてやれよ」


 近藤は、三人がかりで太い竹を切ってきて枝を払い始めた。梯子だけでなんとか持ちこたえそうだが、何がおこるかわからないので万一の安全を考えて梯子の下に渡しておこうと考えている。目方が重すぎて梯子が悲鳴をあげても竹が支えてくれるだろうと期待していた。


「怪我人おるか? 具合悪うしとるんおるか? 今足場こさえとるけえのお、足場こさえたらすぐそっち行くけえ安心しんさい。もちいとじゃでのお、待ちんさいや。むすび届けるけえ、むすび食うたら名古屋の味噌汁飲ましちゃるけえのお」


「梯子を四本繋ごうか。ピン挿すのを忘れるなよ。先の方にロープかけろ。よっしゃ、起こして。ゆっくり倒すぞ」


 渡した竹をまたぐように梯子がむこうに届いた。

 実習生が駆け足で届けたナップサックを背負い、竹中達が懐中電灯で照らすだけの明かりを頼りに梯子を伝って行くのは、かえって高い場所での仕事より恐怖感が増す。雨風にさらされてぐらつく足元に気を取られていると濁流に吸い込まれそうな錯覚に陥る。

 足元を見ないよう、思えば思うほど恐怖心が膨れ上がる。いっそ目を閉じたほうがいいかな、さすがの近藤も無我夢中になっている。梯子に結んだロープを解いて腰に巻きつける。あと二mほどで梯子の先端のはずだから、このまま獣のような姿勢でも煽られる心配はないだろう。亀のようにゆっくりではあったが渡りきることができた。うまいぐあいに梯子の正面が玄関の柱を向いていた。腰に結わえたロープを玄関の柱に括りつけて息を大きく吐いた。


『よっしゃ、ロープ結んだぞ。なるべく梯子の正面にロープかけといてくれ。しっかり張っとけよ。これから中に入る』



 近藤の声を青木も聞いていた。どうにかして家に行くことができたらしい。


『近藤さん、廿日市署の青木です。そっちの状況はどうですか?』


『怪我人はおらんようだが、膝が悪くて歩けん人がおるな。どうやって渡すか考えるからもうちょっと待ってくれ。今握り飯食わしてるから、心配ないぞ』  


 会話に割り込むように及川の声が飛び込んできた。



『課長、及川だけど、病人が出とるぞ。爺さんが胸が苦しいって唸ってるんだけど、どうして連れていこう?』


『元気な者に行ってもらうから、子供を連れて帰ってくれ。顔色どんなだ?』


『唇が悪いな、紫色になっとる。爪はまだ青くないけど、息が浅くて速い。それに、爺さん重そうだ』


『わかった、救急車手配するから。とにかく子供が先だぞ』


『じゃあそうするわ。けっこうな坂だからなあ、二人じゃつぶれるかもしれんぞ、だいたい一㎞あるからな』


「亜矢は青木さんの近くにいてくれ。用ができたら無線で言うから。『青木さん、今の聞いてました? 救急車の手配をお願いします。実習生を一人そっちにやりますので用があったら言いつけて下さい』」



『こっちも子供から渡すぞ。梯子の余分あったか? 年寄りは担架に乗せんと駄目だと思うわ』


『一本あらあ、滑車もあるけえ吊るか?』


『そうだな、おサルの駕篭屋でいくか。ただし、宙吊りにできるロープじゃないからな、梯子の上を滑らしてやろうと思うんだが、どうだ?』


『トロッコみたいにするか? 子供渡したら持っていけるようにしとかあや』


『滑車は前後だぞ、駕籠みたいにしてくれ。竹をなあ、四つに割って担架の下に敷いといてくれ。それとなぁ、懐中電灯あったら握りのとこに括りつけておいてくれ。なければ何でもいいから光る物を両側にな』


『向きが知りたいのか? なんとかすらぁ。線路から外れんように細工しとかぁ』


 無線が途切れるのを待っていたかのように、近藤と竹中の短いやりとりが続いた。



 やはり慣れがものをいうのだろうか、彼等が到着してまだ二時間ほどしか経っていないのに次々に救出が始まっている。しかも、さしあたり緊急を要さないと思っていたところで急病人が出ていた。自分たちは丸一日何をしていたのだろうと青木はなさけなかった。

 被災者の救出が済めばそのまま名古屋に帰るのだろうか。鞍馬天狗のような奴等だなと思った。なまじっか講釈を垂れるよりよほど民衆のためになる政策だと思う。警察官の立場としては急進的な変革に迎合しかねる部分があるが、こういった変革なら大いに歓迎できる。名古屋の市長で終わらせるのはもったいないと思った。


「よっしゃ、ゆっくり行くぞ。おじさんに掴まっていいからな。向こうの明かり見てゆっくりな……。大丈夫だって、このままぶら下がっても落ちないから安心しろ。つま先だけ上げて足前に出してみ、足載せるとこに当たったろ? よっしゃ反対の足だ……」


 厳つい近藤が太鼓判をおすかのように、怖がる子供を励ましながら一人渡すことができた。竹中の命綱を外させて、担架を引いて戻る。まだ子供と夫婦と老人が残っている。老人は担架で運ぶべきだろうと思う。頭上に張ったロープのおかげで往来がすっかり楽になった。余計な事を考えず、一点に集中しすぎないように。相反することをしなければならないが、無理をしなければ家が流される前に救出できるだろう。緊張しながらも近藤は安堵していた。



「怖くないか? もうじき着くからな、しっかり掴まってろよ」


 子供を後ろに乗せてバイクが山を下りてくる。ライトが通らないので山肌をたよりに歩くくらいの速さでしか走れない。滝のように流れる雨水でぬかるんだ道は濡らした粘土のようになっていて、石が露出していないところはとても危険である。


『及川か? 木村だ、まだ先か?』


「真ん中くらいかな、何人で来た?」


『四人』


「二人はこのあたりで待ってたらどうだ? けっこう大柄だったから大変だぞ」


『もうちょっと上で交替した方が楽だろ』


「子供降ろしたら戻ってくるから、無理せん程度に行っててや」


『子供乗せてるの忘れるなよ、無理せんでええぞ』


「登りは楽だって」


 話している間に麓に下りてきたのか、下り勾配が緩くなってきた。


「及川だけど、テントの場所がわからん。トラックのライトとハザード点けてくれ」


 暫く待つと雨の幕のむこうがボーッと明るくなった。


「場所わかった。しばらくそのままにしといてくれ」


 泥だらけになったバイクが走りこんでくる。


「すぐにお父さん達を連れてくるから待っとれよ」


 子供に着せた雨合羽を脱がせながら安心させ、そのまま山に戻って行く。中間を随分過ぎたところで担架を持った者に追いつき、担ぎ手を二人乗せて先へ進んだ。


 嫌がる老婆と嫁を説得してバイクに乗せ、父親は老父と共に自力で降りてくることにして子供達が待つテントを目指した。遠くに赤燈が近づいてくるのが見え隠れしている。なるべく早く救急車に託す以外に自分達にできることはない。



 今日の作業は中止になっていたが、吉村達が到着して間をおかずに救助活動を始めたので、帰宅するはずだった消防団員はまだ農機具小屋に残っていた。


『青木さん、吉村です。救助対象は十二名で間違いないですか? 他に行方不明はないですか?』無線機が伝えた。


『それはありません、合計十二名に間違いありません』


 まさか完了などと言うのではないだろうなと訝りながら青木が答えた。


『それなら救出完了です、長時間お疲れ様でした。すぐそっちに行きます』


 何事もなかったかのような淡々とした声が聞こえた。



「お疲れ様でした、長時間大変だったでしょう。水の勢いがこれだから家を救うことは難しいかもしれないけど、人命だけは守ることができました。検分は明朝でいいですよね」


 ずぶ濡れの吉村が入ってきた。役目を終えた安堵からか眠そうな眼をしている。


「もちろん明朝でけっこうです。いったいどうやって救出したのか教えて下さい」


「明朝説明しますよ。それで、恐縮なんですが、あそこで野宿してかまいませんか?」


「そりゃあいかん。体が冷えているだろうし、食事もまだでしょ?このあたりは朝の冷え込みがきついんです。少し遠いですが署の道場ならゆっくり手足を伸ばして寝てもらえます。是非そうして下さい」


 この土砂降りの中で眠るという吉村を慌てて遮り、道場で休むよう青木が迫った。


「そんな事言われたら義理がたたんでしょう。署長に知れたら火噴いて怒りますよ。良くて磔、へたすりゃ打ち首ですよ。助けると思って道場に来て下さいよ」


 自助の原則を守ろうと渋る吉村に、青木はだんだん哀願調になってきている。


「課長、お言葉に甘えようよ。今日は十分働いた。あんたずっと運転してたから休んでないだろう? 明日帰る時に事故でもおこされたらかなわんからな。これも外交のうちだと思うけど。いいよ、俺が悪者になるから」


 こういう場面になると腰が引ける吉村に呆れ、近藤が助け舟をだした。


「じゃあ……、今回だけそうさせてもらうか」


 吉村がどう考えるかなどおかまいなく、外でドアの閉まる音が何度もしてエンジンが回りだしている。



「うわー、寝過ごした、十時じゃないか。みんな早く起きろ」


 近藤が喚いているのは広島県廿日市警察署の道場である。慌てて乾燥室を覗きに行った近藤が、見違えるようにアイロンのかかった作業衣を抱えて道場に戻ってきた。泥水を浴びて汚れていたのが洗濯されて見違えるようになり、折り目がピンと立っている。


「何だこれ、新品みたいになってるじゃないか。そんな気ィ使わんでもいいのに」


 言葉に反して近藤の口元が綻んでいる。


「女はカーテンの陰で着替えたらいいぞ。誰も覗かんように見張ってやるから。お礼として衣擦れくらいはサービスするんだぞ」 誰が言ったのか冗談も聞こえてくる。


 近藤がうろうろしたのを聞きつけたのだろう、道場の入り口に青木が待っていた。



「ゆっくり眠れましたか。おかげで怪我人を出さずにすみました。仲間が怪我をするのが一番辛いですから。さっき署長に報告したところですが、どうお礼を言えばいいのか……。それにしてもあんなに早く救出できるなんて、まだ信じられません」


 そう言って青木は深々と頭を下げた。


「すっかりご迷惑をかけまして、いつも野宿覚悟で出てますので、まさか布団で寝られるなんて考えもしなかったから夢もみずに気絶してましたよ。シャワーを使わせてもらった上に作業衣を洗濯してもらって。アイロンまでかけてもらって、なんか背広着てるみたいで落ち着かないですよ。おかげですっかり疲れがとれました」


 原則としてすべて自前でというのが派遣出動のルールである。吉村にはそれに反した後ろめたさがある。


「着替えたら署長室に来て下さい、コーヒーの用意をしてありますから。それに、ここに泊まってもらえたから磔にならずにすみそうなんですよ。とにかく署長の相手をしてやって下さい」


「そうですか? みんな、署長室でコーヒー飲ませてくれるそうだぞ、ついてこいよ」


「大丈夫だろうなあ、帰してもらえるんだろうなあ。交番だって嫌なんだぞ。自慢じゃないが、警察署の中をうろついたことなんかないからな……」


 小出が心配そうに誰彼なく呟いている。


「あのな、警察も役所の一部なの。区役所や保健所と同じだよ。それに、警察でお泊りしたんだぞ、なかなかできんこった」


 がやがや言いながら署長室に案内されて椅子を勧められた。すぐにコーヒーを運んでくれたのが婦人警官だったので居心地悪そうにしている者がほとんどである。


「何か落ち着かんな。やっぱり無理だわ、こういう雰囲気」


「コスプレ喫茶だと思え」


 小出が怯えるのがおもしろいのか、及川がさらにからかった。


「馬鹿か! どうぞごゆっくりって雰囲気か? 本物の制服ばっかりでねぇか」


「本店におるんだから仕方ないだろうが。簡単にコーヒー飲ましてくれる店じゃないんだぞ。がたがた言うな、みっともない」


 どうしても落ち着かない様子でそわそわしている者が多い。



「大変お世話になりました。青木さんも疲れているはずなのに、かえって迷惑をかけてしまいました」


「青木の話だと、丸一日かかってどうにもならなかったのに三時間で救出したそうですね。しかもあの雨の酷い夜中ですよ。お礼を言わなければいけないのはこちらです。本部には報告をしましたので、本部長か知事から市長に挨拶をすると思います」


 署長も上機嫌でテーブルについた。


「署長、運が良かっただけですよ。青木さんの方がよっぽど大変な思いをしたはずですよ。いずれにしても人に被害がなくて良かったです。おかげで、もう十分にくつろがせてもらいました。帰る支度をしなくちゃいけないし、検分をお願いしたいのですが」


 吉村は、残ったコーヒーを口に含んで腰を上げた。


「そういうことなら私も行きます。青木、もう少しいいか?」


 青木がどんな報告をしたのか、署長も青木を促して立ち上がった。


「私も現場を見たいです。どうやって家に行くことができたか勉強になります」



 あれだけ激しく降っていた雨はシトシト降る程度になっている。明るい光の中で見る現場は、誰もが恐怖を感じるほどの禍々しさである。闇の中だったので無茶ができたのだろうし、激しい雨が視界を遮っていたことも気を逸らさずに仕事をするのに大きく役立っていたのだろう。中津谷川に流れ込む支流は茶色く濁った水が音をたてているし、ザックリえぐれた堤からも盛んに水が流れ込んでいる。家の土台が水に抉られてしまい、家として使えるか疑問である。堤の破れたあたりに大きな岩があって、それが堤に水を導いている元凶のようだ。早く岩をどかさねば土台がいつかは流されてしまうように思える。



「この梯子を渡して橋を作りました。陽の下で見ると危なっかしいですね」


「そのあたりの竹を勝手に切ったからな、これ犯罪か?」


 吉村の説明だけでは解からないだろうと近藤が補足説明をしている。まさか犯罪にはなるまいと手近な竹を勝手に使ったことを正直に言った。


「馬鹿な、命のほうが大事ですよ。こんな細い橋で大丈夫ですか? 落ちないですか?」


 青木は渡した梯子を凝視していた。実に細く、簡単に折れそうである。こんな僅かな足掛りを頼りに作業できるのかとまだ信じられない。


「上に渡したロープが命綱だ。保険にもならんが、気分的にな」


 近藤がさして太くないロープを握ってみせた。


「年寄りはどうやって渡したのです?」


「ロープに滑車で担架を吊って、梯子の上を滑らせた。竹中が細工してくれたからずり落ちる心配はなかった」


 放置したままの梯子を掴んで実際に様子を再現してみせる。近藤一人の目方ですら大きく撓むのだから、救出作業をしている時はどんなになっていたのか想像した青木は肌が粟だつような恐怖を感じていた。


「怖くないかね」


「雨がひどかったからな、周りが見えなかったからできたと思う。今みたいに明るかったら名古屋に帰る」


 素直に近藤が答えた。緊急時にはどんな素人でも危険な作業を躊躇わないものである。素人であればあるほどその傾向が顕著に現れる。昨夜の作業を思い出すと、自分自身もさして違わない素人だったように思えてならないのである。だから今回も失敗だったように感じている。修行が足りないと反省しているのである。


「青木が救助できなかったのは無理ないですか」


 近藤の動きを追っていた署長が尋ねた。


「昼間に現場見てるだろう、そりゃあダメだわ。夜になったら尚更怖いはずだ。俺は全体を見てないから良かったんだろうな。ところで、梯子を回収しなきゃいかんのだけど、橋がないと困るだろう、どうせなら作っとこうか?」


 自分に対する不甲斐なさを振り払おうと、引きつった作り笑いで近藤が振り返った。


「手間がかかるでしょう、部落の者が作りますよ」


「たいして手間はかからんと思うし、実習生の練習にちょうどいい。遠慮しなくていいぞ。ただし、竹を切るけどな」


「それでは次を見てもらいますか」


『比嘉、佐々木、亜矢、近藤を手伝え。及川、出番だ。道案内たのむ。他は道具片付けて帰る準備してくれ』


 吉村が山奥の家に足を向けた。



 実習生を呼び寄せた近藤は、なるべく太く、大きさの揃った竹を伐ってくるよう言いつけて、合羽で雨を避けながらタバコに点じた。

 切り倒し、その場で枝を払った竹の束をズルズル引き摺って実習生が戻ってきた。吸殻をピンと弾いて二本目を咥え、互い違いの束にしてしっかりロープで括らせる。結び目を確かめておいて、次に束の上で飛び跳ねるよう命じた。

 何度も飛び跳ねているうちに丸かった束が次第に平らになってきた。そして、人が歩けるくらいの幅になったのを見計らって更に縛った。あとは対岸に渡して足踏み板を括りつけてやれば立派な端になる。作業自体は簡単だし、近くの物を便利に工夫する現場実習にもなる。


「おまえら、工夫することを忘れるなよ。生きるには知恵がいるぞ」


 近藤の表情が父親のように柔らかくなっていた。



「こんなに簡単に橋ができるんですか」


 山奥の一軒家を見に行ってきた青木が感心している。  


「いい材料がいっぱいあって、いい土地だよ。ただし、板の上を歩いてくれ、じゃないと滑って落ちるからな。あまり重い物は載せないようにしてくれよ、短いんだから一人ずつ渡ってくれ」


 仮橋の下を轟々と茶色い水が流れている。水量が減るにはあと数日かかるだろう。. 



 テントには消防団員が集まっていた。


「助けてくれた人達が腹をへらしたままで帰すような義理の悪いことはできない。絶対に自分達と食事をするまで帰さない」


 そう言って困った顔の清水と押し問答をしている。

 昔から来訪者には腹いっぱいに食事を振舞う風習があったそうで、部落の仲間を救ってもらったとあれば、なおさらもてなさねば気がすまないらしい。これも外交の一部と捉えるかと、ありがたくごちそうになることになった。



「なんだこの味噌汁、真っ白だぞ。初めてだこんなの」


「京都でも白い味噌使うだろ? 昔こっちは西の京と呼ばれていたほど文化が進んでいた土地だそうだ。広島味噌というのも白い色で、上品な味の味噌らしいぞ」


「西の京ちゅうたら山口のこといね。このあたりはどっちかちゅうと出雲の影響が強うて、神楽が盛んなとこいね」


 竹中がありったけの知識を振り絞っている。


「今まではニュースであんたらの活躍を見るだけだったけど、想像以上の働きをしてるんですね。いつもは警察と消防の一手販売なんですが、経験できる機会が少ないから練習ができないんですよ。だから、どうすれば良いのかわからないというのが実情でしてね、昨夜も手詰まりでした。吉村さんが来てくれて正直なところほっとしました。でも怖くないんですか?」


 畑違いの任務で心細かったのを隠そうともせずに青木が尋ねた。


「近藤、今回はあんたが怖い目をしたからあんたが答えたほうがいいだろう。俺は素人だから語る資格がない」


 吉村は素直に近藤に話すよう促した。責任者の自分が説明するのが当然という意識はとうに失くしている。それだけ専門分野の難しさを理解している。


「俺がか? そらあ、はっきり言って漏らすほど怖かったわさ。さっきも言ったけど、真っ暗だったからやれたんじゃないかな」


「そうですよね、始めるというのを聞いてから家に入ったという無線を聞くまで一時間くらいでしたか。それから全員救出するまでに一時間でしたね。今でも手品だろうと思ってるくらいですから」


「そもそもどういう経緯でこんな組織ができたのですか?」 署長が尋ねた。


「実は、この組織の発案者は市長でも議員でもなくて、町の住民なんです。就職できずに町に溢れている人達を少しでも救うために考えたそうで、腕利きの職人を集めたら災害救助の手助けができると市長に提案したそうです。市の職員として災害救助の専門部署をつくって、国内も国外も救助に駆けつけるようにすれば名古屋の知名度が上がるし、名古屋が災害にあったときには救助の熟練として働ける。救助を手伝った町からも何某かの援助を期待できるという発想だそうです。」 


「着眼点がいいですね、その提案を実現した市長もえらい」


「この提案には市長と普段対極にある議員も協力してるんですよ。物事にとらわれがちな人ばかりではなかったということで、あれからいろんな議論がされているようです。もっとも、円満に解決することばかりではないようですがね」


「それじゃあ、あんたらみんな失業してたのですか?」


「課長は元々公務員だけど、他は全員仕事がみつからずに困っていた者ばっかりだ。若いのは高校卒業しても就職できんかったかもしれん。だから俺達、恩返ししてるんだ。命救ってもらったの俺達なんだ」


 そう言う近藤の表情に後ろめたさはなく、むしろ晴れやかである。


「こんなこと言うのはいかんとは思うけど、失業者が増えるほど治安が悪くなるのですよ。働きたくても仕事がない。金はないけど死にたくない。根が悪い奴は別ですよ。働くところがなくて食うに困って事件をおこす人が増えているんです。中にはわざと罪を犯す人もいましてね、志願兵って呼んでますが、刑務所でもいいから飯の心配をせずにいたい者も現実にいます。そういう意味からもいい施策ですね」


 署長の言葉の奥には、警察官ならではの懊悩がこめられているのだろう。


「今回たまたま命を救うことはできたけど、家を流されそうになった家族には苦労の始まりでしょうね。借金をつくる破目になってしまって……。 時折考えることがあるんですよ。命を救ったのはいいけど、重い怪我で働けないこともあります、どうしたら安心して生きてゆけるのでしょうか。いっそ助けられなかった方が幸せなこともあるのかなとも思います。やりきれないですよ」


「課長、そういう時には、詮無あ……じゃ」


 竹下が慰めるように言った。


「可哀相とか切ないという意味じゃ。せんなあ……、ほんにやりきれん言葉じゃ」

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