胎動
二 胎動
『なんだこの分厚さ。政策提言ならもっと要領よく纏めるのが礼儀じゃないか』
最後の来客から開放され、退庁までの時間をつぶすために市民からの提案書を読もうとした市長は、ある新人議員が届けた分厚い封筒を開いてみることにした。束になっている薄っぺらな封筒には興味深いことは書かれていない。すべてを読んだわけではないが、何通読んでもありきたりで独善的な内容が踊っているばかりである。それとくらべれば少しは毛色が違うかもしれない、最悪でも時間つぶしくらいにはなるだろう。そう一人合点して読み始めた市長が思ったのは、役所の職員や学識経験者といわれる、普段接する者達とは全く違う視点での提言であった。組織に属さない者でなければ考えつかないような内容が基礎をなしていて、普段から自分が感じている問題意識と機を一にしている。方法論の違いだけだと思い、会ってみたいという誘惑に駆られた。硬直した思考を改めさせることが、市政はもとより国政に最も必要なことだと思っている。
村井の自宅は港区にある。その居間で二人が対面している。
詳しい説明を求める市長に対し、提案を読み興味をもって市長自ら自宅を訪ねてくれたことに感激した村井は、問われるままに話そうと決めた。三国志の劉玄徳ではないが、他の意見を求めて自ら動く真摯さに惹かれたからである。
村井にしてみればなるべく平易に順序だてて話をしているつもりなのだが、技術的なことで些細な説明を省きがちになるため、市長には内容がよく伝わらないらしい。聞き手と話し手の意識と見識の違いが根本原因なのだろう。
話を聞くうちに、たしかに面白い発想だと市長は思った。しかし、実現可能なことだろうか。実現したらどんな効果があるのだろう。実現するための障害や、解決法はどうなのか、ヒントがあるのだろうか。他にも実現できそうな構想があるのだろうか。疑問に思うことをメモしながら市長は村井の考えを重ねて尋ねた。
村井は語った。
「一般的な見方として、リストラされる人は能力が劣っているとされがちだけど、性格によっては上司と仕事の進め方で意見の不一致が無視できなくなって、指揮系統の乱れを恐れる上司が排除する場合もあるだろうし、優秀すぎる部下をもつと、上司たる自分の立場がなくなるから難癖つけて排除にかかる場合も考えられますね。度量の小さな者ほどそういうことをする可能性が高いものです。
卒業間もない人材なら、その能力を把握しきれないうちに解雇される場合もあるでしょう。能力が劣るというのなら、適正な配属先を用意できなかった会社の人事担当者には責任がないのか。つまり人事担当者の能力がないことを物語るのではないかな? まして、入社早々に能力を発揮できるほど簡単な業務しかしていない企業なんてありますか?」
村井の言葉は市長の耳に厳しく響いた。
「だけど、同期で入社しても、できる奴とできん奴がおるのは事実だから仕方ない部分もあるんでないか?」
そうは言われても納得できるわけがない。村井の言うようにしたら、人物評価など事実上できなくなってしまうと市長は思った。
「なら尋ねるけど、市長を介護現場に配属したら皆と肩を並べて仕事ができますか? 本人の適正に合った職場に配属されれば能力の開花は早いだろうけど、逆だったら?」
「なかなか仕事を覚えられんか……」
「適正に合った職場に配属できなかったのは会社の責任ですよ。適正を把握できなかったのは人事担当者の過失や能力不足です。本人にも責任はあるけど、でもそれは誰もが犯す間違いだから責めることはできない。それに、雇用助成金目的に採用する会社だって少なくないでしょうしね」
「どういうことだ? どんな間違いだ?」
「それはね、仕事の内容より会社の名前を重視して就職することなんですよ。とは言っても、いくらこういう仕事がしたいと希望しても、希望が適うなんて難しいですね。希望をいだいて就職するのだから無理ないかもしれんけどね。補助金めあてで採用して、試用期間切れで解雇するとどうなります? 立派な犯罪ですよ」
「そうか、そう言われると確かにそうだな」
「どんな職種でも、一人前に育てるにはかなり年季を積まなきゃ無理です。最近の社内教育っていったいどれくらい手間をかけてるんですかね。そりゃあ誰でも即戦力の人材がほしいのは判るけど、新規採用というのは素人を採用することでしょ? 最近の学生は教えなくても一人前に仕事ができるのですか。学校って職業訓練施設なんですか。
例えばね、口で教えただけで自転車に乗れる子がいたとするでしょ? だけど、ある日何かのきっかけで転んで怪我をした。それから自転車に乗ることができなくなっちゃった。何故か判ります? その子は、どうして自転車に乗れたか判っていないから、転ばなくする方法を見つけることができないんですよ。教育というのもね、成功体験以上に失敗体験を積ませることが大切ではないですか。たくさんの失敗に成功のヒントがあるのに、そっちには目を向けないで上っ面を説明してるのが最近の社内教育じゃないかな。なにも企業だけじゃないですよ。入学試験だって、模範解答を丸暗記できた者が勝ち進むのだから、社会の仕組みが歪んでいるんです。何故そういう解答を導き出したかという経過には一切触れないのが誤りなんですよ。育った環境が違えば、違った発想があって当然なのに、その違いがどんな助けになるかもわからないのに切り捨ててしまって、表面的な成績だけを見てしまう。ろくな教育もせずに成果を求めるのなら、定年間際の人はどれほど優秀な人材なのか考えてほしいですよ。だから、これは不法行為そのものだと思います。
官僚を指して優秀な人材というけど、優秀といっても突き詰めれば大学入試問題の正答率が高かっただけのことです。公務員試験の正答率が高かっただけです。試験問題の内容はそれぞれの省庁別に専門知識を網羅した内容になっていますか? 殆どが、ただの一般常識の域を出ないのでしょ? 正答率が高ければ優秀だっていうならコンピュータを官僚にすればいいことになってしまう。それに、優秀な人材だとされる官僚にしたって、生活に役立つ知識を多く蓄えているわけではないですね。海や山で遭難したときに、自分を見失わずに生還できるかを想像すると」
「官僚はアホか? 村井さん、それは言い過ぎじゃないか?」
「どこが? 数学者が数学に詳しいのは当たり前。医者が病気に詳しいのも当たり前。でも、名医もいれば藪もいる。自分の仕事に対してすら能力に優劣があるんですよ。仕事と無関係な分野のことを全く知らないというのは不思議じゃない。悪いことにそいつらが政策を担ってるんです」
「……」
「派遣労働をしていた人も同じですね。正社員を指導する立場にありながら、派遣社員だからというだけの理由で解雇された人を何人も知っていますし、その人が去ってからの現場の状況も教えてもらいました。勤め先が倒産して再就職できない人もたくさんいるけど、会社が倒産したのは従業員の責任ですか? 見方をかえれば、町に宝が溢れているとも考えられるじゃないですか。労働力の宝庫じゃないですか。働く場所を与えることが行政にも求められているのに、雇用の確保という掛け声だけ。企業だのみなのを正直に言えないのが本音じゃないですか」
村井は、すっかり黙ってしまった市長の反応を確かめるように言葉を切った。
「続けて」
「つまり、本人が社会で積んだ経験を活かすことを最優先に考えて、様々な職種の腕利き職人を発掘できれば十分に実現可能だと思うんです。救助や救援というのは幅広い領域をこなさなきゃいけない。高所作業・土木作業・飲料水確保・電気やガスの経験者・連絡調整・物資確保のための営業・被災者の心のケアを担当する者も、つまり多くの専門家が必要です。消防も警察もそれぞれ自分達ですべて賄える組織ではありませんね。そもそも業務の目的が救助救援になっていないんだから当然ですね。ただ、職を求めている者のおかれている状況を考えると、失業対策になるし、市民の安全確保にも貢献すると思いますよ。勿論、宿泊施設が不可欠ですがね」
「もしそういう組織ができたらどういうメリットがある?」
「何といっても話題性はありますよ、発案の段階から報道対象でしょうね。活躍する機会なんかないのが理想ですが、必ず活動する姿が全国に放送される。救出場面の中継もあるだろうし、市長の会見も当然ある。最高責任者として、生みの親として、その折に彼等の能力の高さを宣伝し、彼等の価値を見出せなかった社会を暗に批判してやれば、人事にもっと慎重になるかもしれない。少なくとも、無職でいることを嘆いている者が希望を抱くかもしれない。社会の意識を改めさせる効果です。市長にとってのメリットは、常識にとらわれない決断力と行動力をアピールできます。市長会での存在感、国に対する発言力、知名度は一層増すと思います。批判もされるだろうが、一方で心の底から感謝する人も現れると思います。行政の脱皮ですね」
「他にも腹案があるのか?」
「同様の方法で公共事業費の圧縮も可能なはずなんですが。とにかく、この件について障害になるのは議会の承認と市民の賛同につきるので、その対策を練る必要があります。当然予算が必要になりますが、あまり負担をかけない方法も可能だと思います。企業や個人から寄付を募ってもいいじゃないですか」
市長の問いかけに村井は訥々と答えた。
市長は考えてみた。いろいろな職種の経験者を市職員として採用し、既存の部局から横槍を入れられないよう市長直属の部局にしたらどうだろう。既存部局との競合を避けるために、災害救援専門の部署にすればどうだろう。災害救援に特化させれば競合は避けられるし、毎年どこかで自然災害が発生するのだから、その救援に派遣するのも良いだろう。
名古屋では伊勢湾台風で大被害を蒙った経験がある。自衛隊、消防、警察が必死になって救援活動をしてくれた。あれはありがたかった。半世紀過ぎた今でもはっきり覚えている。
今後自然災害の被害を被らない保証などありえないのだから、消防・警察・自衛隊等と共に復旧の立役者となろうし、他所に手伝いに行くことを重ねておけば、自分達が被災者になったときに親身になって手助けをしてくれるだろう。
なにも国内だけにとらわれることもない。とかく資金援助に偏りがちな国際貢献のありかたを正常に戻して、外交関係改善の足がかりにもなると思う。政府の対応が後手後手になって批判されるほど、名古屋の知名度と存在感が増す。不安要素は、救援活動を任す人材の確保だろう。しかし、職人の能力を侮るなと村井が言っていた。
宿舎については、統廃合する予定の学校がないか確かめてみよう。なければ、倉庫を改造することで解決できないだろうか。高速道路の高架下を活用することだってできる。資金調達も資材調達も、村井には腹案があるということだったし、成功すれば、さらに新しい提案があるとも言っていた。
これまでのように、自分の考えを最優先に突っ走ることをやめて、同調してくれそうな議員に相談してみよう。市長の意識の中で徐々に、全国でも稀な施策が芽吹いていた。
村井との対話の後、どうすれば実現可能か市長は考え続けていた。
施設をどう確保するかが問題であろうと考え、教育委員会で学校の統廃合予定を尋ねることから始めた。市立学校で予定がないのなら県立学校でも良いだろうと考えていた。いずれにせよ賃貸料を支払って借り受けるつもりだった。市立学校ならば、いくら小規模といっても十をこえる教室があり、職員室や調理室もある。運動場、プール、体育館と、必要な施設すべてが揃っていて、無駄に初期投資をせずにすむ。当面はそこで生活させて、アパートを借りる資金を蓄えさせる。そうすれば人員増加に対応できると考えた。
予算捻出についてどうしても良い知恵がうかばない。事業の目的が、、利潤を求めないで使い捨てにする性格のものだからだ。しかし、予算の大部分が人件費とすれば、住民税としていくらか戻ってくるし、健康保険料や年金の足しにもなる。職員の消費活動が、地域に循環することは間違いない。施設の賃貸料は教育委員会に支払うのだから、帳簿上に数字が並ぶだけのことで、予算を消費してしまうのではない。成果が認められれば正式に移管手続きをとれば良いだろう。村井の言うように、寄付を募る場合にどうやって繰り入れるかを考えねばならないが、それは大したことではない。どういった順序で、誰を味方につけるか……。市長の独り言が続いていた。
防災に関する懇談会ではいろんな部局からの意見を知ることができる。警察にせよ消防にせよ、近い将来発生が予想される大地震に備える心の準備をしてはいるようだ。しかし、どのような状況が展開するのか予測ができないので具体的な方策をうちだせないでいる。状況に応じて柔軟に対応できるようにといえば体裁はよいが、成り行き任せという言葉に置き換えることができよう。防災ボランティアは災害が発生したときの二次的な災害を防ぐ啓発活動に重点をおいており、救援活動とは一線を画すものである。各地の災害で救援活動を行っているというが、実際に活動しているメンバーは限られた者ばかりだし、被災家庭の後片付け等が活動実態である。救助活動の実務ができるような体力や専門知識を身につけているとも思えないし、不測の事態が発生した時の責任問題が絡んでくるので結局は戦力外だろう。つまり、支援本部での人員や物資の手配、管理が関の山だろうと推測した。
それぞれの学区単位で行われる防災訓練を視察したことがあるが、整然と行進する様はまるで運動会の入場行進だった。負傷者救護も炊き出し訓練も予定された筋書き通りに進行し、消火訓練も模擬消火器で的を狙うだけのものだった。災害に直面したときにどれほど活かされるのか甚だ疑問で、訓練実績を重ねるための、実効性のない内容に思えた。
『大きな組織に属す者こそ実績を重視する傾向がある。組織には企業も役所も自治会も含まれる』
そう村井が言っていた。訓練自体は悪くはない。ただ、訓練内容を考える者の発想は貧しいとも思う。一部の者の意見だけで行事を企画し、前例踏襲で運営する体質の問題かもしれない。いずれにせよ、方向性を見失っていると感じた。
懇談会が終了したときに、同席した議員の意見を知りたいと市長は思った。
その日同席した議員達は、市政の与党議員ばかりでなく、各会派から出席していて、彼らの興味をひくことが取っ掛かりになると思えた。
懇談会で語られた内容についてどう思ったか、どうすればより実効性のある対策をたてられるかを語り合うついでに、世間話をよそおって村井からの提案を紹介し、どうすべきか悩んでいるので意見を聞かせてほしいと問いかけてみた。
防災意識の啓発については皆不満に思っていることが確認されたが、村井の提案は彼等には突飛すぎる内容と受け止められた。しかし、伊勢湾台風を経験した者が大半だったので救助されるありがたさは十分理解でき、方向性については善いことと捉えはするものの、自治体が専門組織を発足させることに懐疑的な意見が大勢だった。殊に、一般人に救助の特殊技術を会得させられるか疑問視する声が多かった。そこで、村井と話し合った内容とともに、職業技能を活かすことで立派な救助組織ができると聞いたことを伝えてみた。もしそうならば、他の被災地への救援活動を続けることで、名古屋で災害が発生したときに全国から気持ちよく援助を受けられるし、名古屋で始めた取り組みが全国に波及し、人々の安心につながるのではないかと説いた。
「ちょっと、小説みたいな話だなぁそれ。理屈は理解できるが現実味があるか?」
今は野党になってしまったが、第二会派の古狸ともいうべき大隈という議員が反論した。
「俺も同じ意見だな。レスキューって簡単になれんそうだろう、素人で大丈夫か?」
こちらは第三会派の議員である。共に市長と同じ年代でまだ行動力がある。たしかにレスキューであれレンジャーであれ、特に選抜された者の集団だということは市長も聞いている。ただし、希望者からの選抜だろうと深く突っ込まないことにした。
「あんたどう思う? あんたらいつも反対意見ばっかり言うけど乗り気になるか?」
市長は万年野党の議員にも尋ねてみた。
「何でそういうこと言うの? 立場ってもんがあるんだから仕方ないでしょう。この話だけど、ちょっと都合が良すぎるような気がするんだよね。そんなにうまくいくかな」
「あんた一年生議員だから議会に毒されてないよな。どう思う?」
第一会派の一年生議員にも尋ねる。他の者と違い若さ故の柔軟性に期待している。
「僕としては、もっと具体的に説明してもらわないと何とも……。ただ、発想は面白いと思います」
否定的な意見ばかりが交わされるなかで市長が口をはさんだ。
「わしも最初は素人の考えだと思ったんだけど、説明を聞いてたら反論できなくなって。たとえばな……、
岸壁で釣りをしてた医者が溺れてる人を見つけたとするだろ。周りにだぁーれもいないときはその医者が助けなきゃいかんよな。悪いことに医者は泳げん。棒は短い、ロープはない。あーって言ってる間に溺れて死んでしまう。その時の医者は能無しと同じだと。
社会で優秀だと言われてても、クーラーボックスを投げる気転もない役立たずがたくさんいるかわりに、社会ではその他大勢だけど、すごい腕利きがいるんだと。そういう人材を活かせん社会は馬鹿の集まりだと。その人のいう社会というのは、行政のことらしい。つまり、役所ということだそうだ。市長や議会や議員だそうだ」
「生意気な奴だな。そんな大口たたくからには具体的な案があるということだろうな?」
議員を馬鹿にされたと勘違いしたのか、大隈が頬を赤くして座りなおした。
「そらぁわからん。ただな、今わしらが相談してることも含めて、小説にしてよこしたんだ。この若い衆が言付かってきたのがそうなんだが、それを読んだら話がしたくなって……。ところで、あの人何者なんだ?」
大隈の怒りを軽く受け流して、市長は一年生議員に向き直った。あんなに長い時間話していたというのに、あらためて村井のことを知らないことに気づく市長だった。
「あの人は母親の友達だそうです。町工場を経営してるようだけど詳しいことは……」
「どうだ、いっぺん皆で話を聞いてみないか。良さそうなら勉強会をしてみないか」
自分だけで泥をかむりたくないという本音を隠し、個人的な集まりを提案してみた。
「とりあえずわしらだけで聞いてみるか。段取りはあんたに任せる」
さっきのたとえ話に興味を抱いたのか、それとも別の目的があるのか、大隈が話し合いに同意した。他の議員達も異論はないようで、段取りを市長に一任となった。
「早速相手に連絡して場所と日どりを決めて、明日にでも連絡するから、たのむなぁ」
一歩進んだ。
市長は、何かと反目しあう議会に石を投げることができたような気がした。
『人々は受動的に生きている。もっと能動的にならなきゃ生きられんのに』
村井の言葉を反芻しながら、それでもまだ懐疑的な気持ちを振り払うことができない市長である。
明けて月曜日、登庁すると普段通りの多忙な日常が始まる。必ずしも市長が処理しなくてよさそうな内容の予定が埋まっている。きっと予定を埋めることに意義を感じている者の仕業だなと苦笑しつつ、こんな状況を美徳に感じるようでは急な出来事にどう対応するつもりなのだろうと呆れる週明けである。早速予定を読み上げようとする秘書を制し、忘れないうちにと村井宅へ連絡をとった。
昨日の経緯を手短かに伝え、議員と共に再度訪問したいと告げると、村井宅に市長が訪れたことを近所の住民が目撃しており、あらぬ詮索で困ったと言う。どうしてもというのなら仕方ないが、どこかで落ち合おうということになった。議員が同伴することからよけいに注目をあびることになるし、かといって区役所の空き部屋を使えば職員の詮索が避けられない。となると市役所が都合のよい場所なのだろうが、相手を呼びつけるのは筋違いも甚だしい。村井と相談した結果、村井の知人が経営する鰻屋に集まることになった。熱田神宮に近いので、参拝のついでに食事に立ち寄ったことにすれば体裁を繕うことができるだろう。時間をずらして集まればよい。休業日に店を使わせてもらえるよう、村井が無理をたのむことになった。
議員からの質問に答える村井に躊躇いはない。最終的な判断をするのは議員や市長であって自分の関与できるものではないことを十分承知していたので、妙な躊躇いは不信感を植え付けることにしかならないと踏んでいた。質問するのは興味をひいた何よりの証左と勝手解釈をしている。相手が知らないことを教える際に言いよどむのは禁物であることを知っていた。
概略は市長に語ったことと異なる点はなかったが、救援活動の具体的内容に踏み込んで、普段行われている避難訓練のありかたを痛烈に批判した。現実に災害がおきれば住民の意識はいくらか能動的になるだろうが、役所の主導する避難訓練にどんな価値があるのかと言い切る。もっと現実的な訓練内容を考えつかない役所も住民も、必ず誰かが救助してくれるという安易な意識が根底に根付いているとも語った。
その点については市長も議員も同じ印象を抱いている。
冬に災害がおきた場合の暖のとりかた、避難所で少しでも暖かく眠る方法、湯の沸かし方、風呂の作り方、救助に便利な道具類にも話が及んだ。遊び感覚で体験をさせることが大切だとも語った。
「だいたい言いたいことはわかった。だがな、予算どうするんだ。それだけの事をするとなったらかなりの金がいるだろ?」
大隈が唐突に予算のことを言い出した。村井の話に一応の理解を示したようだが、尊大な態度を崩していない。
「どんないい案があっても金がなきゃ何ともならんからな、いったいいくらいるんだ」
「本当に大雑把な見積もりですが、仮に二百五十人の所帯だとして、年収を四百万とすると人件費に十億。保険や年金の負担は別です。
施設については、統合される学校があって、そこを活用できたとすれば、賃貸料・光熱費・通信費・燃料代等にそれぞれ月額二百万と仮定して年間に約一億の運営費。施設整備費や出張費にやはり一億と仮定して、合計で十三億くらいになります。ただし、賃貸料は教育委員会に回収されることになるので、市の帳簿の上を移動するだけで、外部に支払うものではないし、廃校になるからには教育委員会の予算は当然減額されるので無視できます。施設を整備するのも、職員に工事させれば材料費だけで賄うことができますから予算を大幅に圧縮する余地があります。さらに、よそへの救援活動を積極的に行うことで報道に載る機会が増え、個人法人からの協力を得やすくなります。なるほど当初は採用にかかる経費がこれ以外に嵩むでしょうが、必ず有形無形の見返りが期待できます。
最後に、警察や消防との違いについてですが、警察は犯罪に関する分野で、消防は火災に関する分野で市民の安全を守るのが本来業務ですから、災害救助に対しては素人同然でしょう。災害が身近でおきにくいことも大きな要因です。同じ素人なら、いろんな職種の腕利きを集めた方が安心だと思います」
無茶だと言われるのを承知で、村井はおぼろげに積算した金額を口にした。
「わしもドンブリ勘定でいくけど、二十億ありゃやれるか?」
大隈の提案に村井が驚いた。自分が算出したものを大幅に上回る金額を提示している。
確かに初期段階での準備があるのだから村井の提示した金額では成り立たないだろうが、それにしても法外な支度金に思えた。
「そんなにいりませんよ。それでなくても苦しい財政でしょうから」
「ところで、今頃こんなこと訊くのも間抜けなんだが、あんた何かしてるの?」
頭をポリポリかきながら市長が赤い顔で村井に尋ねた。
「私の素性ってことですか? 鉄工所の主ですよ」
「別の顔があるんじゃないのか?」
「別の顔っていっても、統計調査の手伝いと選挙の立会いくらいだけど。要は肩書きがほしかった? 公的な仕事をしてなきゃだめだった? そういう考え方が発想を妨げる原因なんだよな。世間にはいいアイデアが溢れてると思うけど、服装見て応対するような雰囲気なら誰も口開かんでしょう。社会が未熟だから仕方ないか……」
「どう思う? 直接話聞いて」 誰ともなく声があがった。
「なんか、いけそうな気がしてきた。悔しいけど反論できん」
話をしながら、持参したロープを使って様々な結び方をしてみせる村井の手元を呆けたように見ながらそう言う。
「ロープ一本が命綱にも梯子の代わりにもなるなんて知らなかった。村井さんだからできるんですか?」
一年生議員が興味津々といった眼で結び方を手まねしている。
「鳶職なら誰でもできますよ、特別難しい結び方じゃないし。あっそうそう、知り合いに消防団員がいるんだけど、満足にロープを結ぶ人はいないらしいね。ボーイスカウトの方がはるかに達者だよ。それじゃあロープの価値を知らないのといっしょだよね」
「勉強会、わし参加するぞ。案外ヒットだぞこれ、いい人みつけたな市長。村井さん、あんた言いだしっぺなんだから欠席は許さんぞ。市長、何かの委員になってもらおうよ。参与になってもらうのがいいかもしれんな」
やはり大隈は興味に惹かれてしまったようだ。
鰻を食べて精がついたのか、休みのはずの店内は賑やかだった。
また一歩進んだ。